第1話
第1話
舌の奥に、錆の味が滲んだ。
地下三階の空気は粘つく。スマホのライトが照らすコンクリート床に、配信者三人組のスニーカーが砂を擦る音だけが、間歇的に響く鉄扉の軋みと混ざり合っている。鏡野第三庁舎。十年前に閉鎖された行政庁舎の廃墟で、ネット上では「夜中の三時に階段が一段増える」「録音すると死者の声が混じる」と囁かれる場所だ。
「ほら、噛ませ犬の出番だぜ、底辺ライター」
カメラを向けてきたのは配信者リーダーの蛭川だった。チャンネル登録五十万。俺のブログを「ネタ元」と呼びながら、取材費は俺持ちで、再生数は奴が独占する関係。三年前から続いている。
「先頭歩けよ。お前のブログ、誰も読まねえんだろ?」
蛭川の隣で、サブ二人がカメラ越しに笑った。元同級生の佐久間だけが、半歩遅れて俺の袖を引く。 「ごめん、海老沢。あの人ら、本当に悪気ないからさ」
悪気がないのではない。悪意を悪意と認識する回路が、ないだけだ。
俺は無言でICレコーダーをポケットから取り出した。胸の内ポケットには大学ノート——表紙が黒ずんだ、取材用の三冊目。これだけは奴らに触らせない。
地下三階の通路は、奥へ進むほど天井が低くなる。剥がれかけた蛍光灯のシェードが、ライトに照らされて骨のように白く浮かぶ。湿気が肌に貼りつき、Tシャツの背中が冷たく重い。鼻の奥に、雨上がりの土と、それから何か——血を布で拭った後のような、微かな鉄の匂い。
壁に手を添えると、塗料が指の腹で剥がれ落ちる感触があった。指紋の溝に、細かい砂粒のような何かが入り込む。爪を立てて確かめると、それは黒ずんだ繊維くずのようだった。閉鎖前の最後に誰かが触れた跡か、あるいはもっと別の何かが擦れた残滓か——考えるのを途中でやめた。考え始めると、地下にいることを知覚する神経がさらに敏感になり、足を前に出せなくなる。
「ここ、左手の壁に古い貼り紙がある。たぶん閉鎖時の通達——」 俺が口を開きかけた瞬間、蛭川が振り返ってカメラを突き付けた。 「おいおい、解説いらねえって。台本は俺らが書いてやってんだから、お前は怖がる芝居だけしてろ」 サブの一人がへらへらと笑う。 「『うわあ怖い、これ呪われてるよ蛭川さん』、はい、リテイク三回目」 佐久間が俺を見て、唇だけで「ごめん」と動かした。
——三年前、俺は一人でこの庁舎の前まで来ていた。兄が消えた場所だからだ。
兄も都市伝説ライターだった。否、俺がそうなったのは兄の真似事に過ぎない。三年前のあの日、兄は鏡野第三庁舎に取材に入ったまま戻らなかった。警察は失踪扱い、ネットは「自殺だろ」「どうせ虚言癖」。俺だけが、兄が出かける朝に置いていったメモを覚えている——「地下に脱出口があるらしい」。
意味がわからなかった。地下に脱出口など造らない。地下は逃げ場ではなく、追い詰める側の場所だ。
「おい海老沢、何ボーッとしてんだよ」 蛭川の靴先が、俺の脛を蹴った。鈍い痛みが膝まで走る。配信用のリアクションだ、と頭の隅で計算する自分が嫌になった。
「すみません、すぐ進みます」
脛の痛みは、痣になる前の、皮膚の下で血管が押し潰されるような熱を持っていた。だが俺は顔の表情を一切変えなかった。痛みを表に出せば、奴らはその顔を素材として欲しがる。表に出さなければ、もう一度蹴る理由を作られるだけだ。どちらに転んでも痛い。だから俺は、どちらでもない顔——「処理中」とでも書いてあるような無の顔を、三年かけて覚えた。
ヘラヘラ笑う癖は、いつから染みついたのだろう。鏡を見るたびに、自分の頬の筋肉が他人の表情で動いている気がする。自分の顔のはずなのに、奴らに合わせて動くようプログラムされた他人の皮を、貼り直しているような。
通路の突き当たり、鉄扉が一つ、半開きで止まっていた。蝶番が腐食し、黒い液体のような錆が床に垂れている。蛭川がカメラを構え直した。 「よし、ここで底辺ライターが扉を開ける、いいな?」
俺は頷きながら、ポケットの中で再生ボタンを押した。さっき階段で回しっぱなしにしていた、十分前の録音を確認するためだ。地下に降りた直後の自分たちの声を、イヤホン片耳で聞き返す。
蛭川の声、サブの笑い、佐久間の謝罪、そして俺の足音。
——その下に、もう一つ、呼吸音がある。
最初は空調の残響だと処理した。地下に空調などないのに。鼓膜の奥で、誰かがゆっくりと、規則正しく息を吸って吐いている。四人ぶんの足音と、五人目の呼吸。
イヤホンを押さえる指が、勝手に冷たくなった。
イヤホンを片耳から外し、もう一度押し当てる。呼吸音は消えていない。むしろ、こちらが意識を向けたことを察したかのように、わずかに深くなった気がした。吸う息の終わりに、ごく微かな、舌打ちにも似た湿った音が混じっている。人間が眠る前に喉の奥で立てる音に近い——けれど、間隔があまりに正確すぎる。秒針のように。俺は手探りでICレコーダーの時刻表示を確かめた。〇時二十七分——確かに、地下三階に降りた直後の音だ。誰もいなかったはずの瞬間。あの時、俺たち四人の他に、何かが同じ通路を、四人ぶんの靴音に紛れて歩いていた。
「おい、聞いてんのか海老沢」
蛭川が苛立った声を出した瞬間、奥の鉄扉が、ぎしり、と独りでに開いた。
風はない。誰も触れていない。
扉の動きは、不自然なほど滑らかだった。腐食した蝶番が立てるはずの悲鳴がない。まるで内側から、誰かが慎重に、こちらに気付かれないよう静かに押し開けたかのように。空気の流れさえ生まれず、ただ闇の幅だけが、音もなく広がった。
蛭川の笑顔が一瞬だけ強張り、すぐに芸人めいた大袈裟な驚き顔に切り替わる。 「うっわマジ?やべえって、これ本物のやつじゃん!サブ、回せ回せ!」
カメラが扉に向く。サブ二人がライトを集中させる。佐久間が、俺の腕にしがみついた。指先が氷のように冷たい。
佐久間の爪が、Tシャツの袖越しに食い込む。「海老沢、これ、これって普通じゃないよね」と囁く声が震えていた。俺は答えなかった。答えれば、蛭川たちに「怖がる芝居が上手いじゃん」と笑い飛ばされて、佐久間の本物の恐怖まで素材にされてしまう。佐久間の指は、こちらの腕の体温を吸い取るように冷たかった。冷たいというより、こちらの熱が向こうへ抜けていく感触に近い。指先から肘へ、肘から肩へ、皮膚の下を這うように熱が逃げていく。代わりに、何か粘つくものが、血管の道筋を逆走して心臓へ戻ってくる気がした。
イヤホンの中で、五人目の呼吸が、止まった。
録音は止まらない。背景の通路ノイズは流れ続けている。なのに、呼吸だけが、まるで誰かが録音された世界からこちらの世界へ静かに移動するように、消えた。
代わりに、扉の向こうの闇から、同じ呼吸音が——今度は生で——漏れてきた。
俺は思い出していた。兄のメモには、もう一行書かれていた。読み返すたびに、震えて見ないふりをしてきた一行を。
「脱出口を見つけたら、絶対に開けるな」
「先頭、海老沢な?」 蛭川が笑った。カメラのライトが俺の顔を白く焼く。 「お前、ここで活躍したらブログのアクセス、伸びるかもよ?」
舌の奥で、錆の味が一段濃くなった。喉が勝手に唾を飲み下す。
俺は半歩前に出る。出るしかない。蛭川のカメラが、サブのライトが、佐久間の縋る指が、俺の背中を押している。ノートを胸に押し当てた。三冊目の、まだ何も書いていない最後のページが、心臓の真上で湿っていた。
兄の顔が、奥の闇に重なって見えた気がした。三年前の朝、兄が玄関で振り返って、何かを言いかけてやめた表情。あれは「行ってくる」ではなかった。あれは——「ごめん」だった。今になってわかる。兄はこの扉を、たぶん一度は開けてしまったのだ。そして、開けた者がどうなるかを、メモの最後の一行で俺に伝えようとした。伝えきれずに、消えた。
開いた扉の向こう、闇は液体のように静かに揺れていた。
その奥で、何かが、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる足音が始まる。
俺の足音と、同じリズムで。
一歩、二歩、三歩——足音は、俺が呼吸を一拍ずらしても、咳払いで歩幅を狂わせても、寸分違わず追いかけてきた。同期しているのではない。模倣しているのだ。俺の足音を素材として、向こうの何かが、人間の歩き方を学習している。それも、ひどく熱心に。
蛭川がカメラを構えたまま囁いた。 「海老沢、笑えって。怖がる顔、もっとちゃんと」 サブの一人が、ぼそりと付け足す。 「噛ませ犬らしく、ちゃんと噛まれろよな」
——舌の奥で、錆の味が、ふと、甘く感じた気がした。
なぜ、と思う間もなく、闇の中の足音が、俺の真正面で止まった。