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脱出口、喰った者だけが外せる

第3話 第3話

第3話

第3話

蛭川の半歩前に、サブの一人が割り込んだ。

茶色く脱色した髪を耳にかけ直し、ハンディカメラを胸の高さに構え直す。名前は確か——倉橋。蛭川のチャンネルで二番目に喋る男だ。配信中の渾名は「クラ」。視聴者へのリアクションが薄い時、蛭川がよく「クラ、もっとビビれよ」と背中を叩いていた。だから、今この瞬間に踏み込もうとしているのは、奪えるリアクションが目の前に転がっていると判断したからだ。倉橋の頬に張り付いた配信用の笑みは、いつもより一段だけ高く吊り上げられていた。チャンネルの再生数が、彼の表情筋の角度を、ミリ単位で決めている。

「いやいや蛭川さん、扉のアップ、俺が撮りますって」

倉橋がカメラを扉の隙間に向けた。レンズが、闇の縁を舐めるように動く。

「うわ、なんも見えねえ。これ夜目モード、夜目モード切り替えるわ」

倉橋が画面のボタンに親指を伸ばす。その指先が、扉の取っ手と、もう一方の手で押さえている扉の縁の、わずか手前を擦った。爪の根元に残った白いマニキュアの剥がれが、踊り場の蛍光灯にちらりと光った。先週の配信で女性ファンに塗らせたやつだ、と、こんな時に、どうでもいい記憶が浮かんだ。

蛭川が一歩、後ろへ下がった。

俺は気付いた。蛭川は、倉橋を前に出させたのだ。さっき自分で開けておいて、いざ中を撮る瞬間は他人にやらせる。三年間、奴が俺に対してやってきた手口と、まったく同じ動きだった。視聴者には決して見えない位置で、蛭川の踵が音を立てずに後退している。靴底のゴムが、コンクリートの粉を一粒、ほんのわずかに転がした。その粒の動きまで、俺の目は拾ってしまった。三年間、奴の足元ばかり見て歩いてきたせいだ。

「クラ、いい絵頼むぞ」

蛭川の声には、すでに撤退の含みがあった。

倉橋は気付かない。配信用の笑顔を作り直して、夜目モードに切り替わった画面を覗き込んだ。緑がかったモノクロの映像が、扉の向こうの闇を、白く吸い込んでいく。

「あれ、あれ、なんか——」

倉橋の声が、急に薄くなった。

息の通り道が細くなった、という言い方が一番近い。喉の奥に何かを引っ掛けたまま、声だけ漏らしているような。

扉の闇から、腕が伸びた。

最初、それは布の端切れか、垂れ下がったケーブルにしか見えなかった。蛍光灯の届かない暗がりから、細長い何かが、ゆっくりと、空気を測るように出てきた。倉橋のカメラのライトに照らされた瞬間、それが指の関節を持っていることを、俺の網膜が遅れて理解した。

人間の腕より、ほんの少し長い。

肘の位置が、二箇所にあった。

肌の色は、地下三階の壁と同じ、湿った灰色だった。爪の生え際から、黒い液体——錆だろうか、血だろうか、判別できない——が薄く滲んでいる。指は五本だった。けれど、それぞれの長さが、揃っていなかった。中指だけが、極端に長い。指の腹に、人間の指紋のような渦は刻まれていなかった。代わりに、横方向の細かい筋が、何本も走っている。木の年輪を、無理やり指の形に巻き付けたような、不自然な皺だった。

腕は、迷わなかった。

倉橋の喉に、まっすぐ届いた。

「あ」

倉橋の口から漏れたのは、その一文字だけだった。

中指が彼の喉仏に絡みつき、薬指と小指が後頭部を支え、人差し指と親指がカメラのストラップに引っかかった。一瞬の動作だった。倉橋の身体が、扉の闇の中へ、引きずられた。

引きずる速度は、奇妙なほど穏やかだった。

人を攫うというより、洗濯機が衣類を吸い込む時の、ゆっくりとした飲み込み方だった。倉橋の踵がコンクリートを擦り、スニーカーの底が鳴った。彼の指がカメラを掴んだまま、画面の緑色が暗闇に呑まれていく過程まで、俺の目は追ってしまった。最後に映っていたのは、倉橋自身の顎の裏側だった。配信用に整えていた無精髭の剃り残しが、緑のノイズの中で、点描のように浮かんで、消えた。

絶叫が、扉の奥から響いた。

最初の「あ」とは別の声だった。喉の構造そのものが歪んで、声帯が異常な角度で震えているような、人間の悲鳴の周波数を超えた音。一瞬で遠ざかり、けれど、距離に応じた減衰がなかった。三メートル先で叫んでいるのか、百メートル先で叫んでいるのか、判らない響き方だった。

そして、ぷつりと、消えた。

絶叫の余韻すらなかった。録音を途中で切ったような、不自然な無音だけが、踊り場に戻ってきた。

蛭川が、後ろに飛び退いた。

サブのもう一人——伊原、と呼ばれていた男——が腰を抜かし、コンクリートに尻をついた。佐久間が悲鳴を上げかけ、俺の袖に顔を押し付けてくぐもらせた。彼女の前髪のワックスの匂いが、錆の匂いの中に、唐突に割り込んできた。生きている人間の匂いだ、と、頭の片隅で思った。

俺だけが、動かなかった。

動けなかったのではない。動かない方が安全だ、と頭の隅で計算した自分が、そこにいた。三年間、奴らに蹴られても表情を変えなかった訓練が、こんなところで役に立っている。皮肉だ、と思う余裕さえ、まだ残っていた。

扉は、開いたままだった。

倉橋がさっきまで構えていた位置、ちょうどそこに、闇だけが残っていた。彼のカメラもなかった。スニーカーの底が擦った跡が、コンクリートに細い黒線を残しているだけ。腕は、もう見えない。けれど、扉の向こうから、何かが咀嚼するような、湿った音が、断続的に漏れていた。歯と歯の間で、何か繊維質のものが裂ける音。続いて、唾液が糸を引くような、粘った音。咀嚼にしては、リズムが、人間のそれと違っていた。三回噛んで一拍置く、その一拍の長さが、毎回、微妙に違う。

「に、逃げ——」

伊原が立ち上がろうとして、ふらついた。

蛭川の動きは、速かった。

奴は腰を抜かした伊原の襟首を掴み、立ち上がらせた。同時に、もう一方の手で、佐久間の二の腕を掴んだ。俺の腕にしがみついていた佐久間が、引き剥がされる。指が袖の生地を最後まで握っていた感触が、肘の内側に残った。

「お、おい——」

俺が口を開きかけた瞬間、蛭川の手が、俺の胸を突いた。

押した、ではなかった。突いた、だった。掌底が肋骨の真ん中に入り、息が一瞬で抜けた。バランスを失った俺の身体が、扉の方へ——倉橋が引きずり込まれた、あの開いたままの闇の方へ——前のめりに崩れた。

「お前が先頭だろ、底辺ライター!」

蛭川の怒鳴り声が、踊り場の天井で反響した。

俺はコンクリートに膝をついた。手をつく余裕もなく、肩から落ちた。胸の奥で、突かれた箇所が熱を持って疼く。視界の隅で、蛭川と伊原が、佐久間を引きずるようにして、踊り場の反対側の通路へ走り出すのが見えた。

来た時には気付かなかった、もう一本の通路。

地下三階の図面に、そんな分岐はなかったはずだった。けれど、奴らはためらいもなくそちらへ駆けた。あるいは、ためらう余裕がなかっただけかもしれない。

「海老沢っ——」

佐久間の声が、引きずられながら、こちらを呼んだ。

呼んだだけだった。蛭川の手を振りほどいて戻ってくる選択は、佐久間にもなかった。当たり前だ。誰だってそうする。俺だって、立場が逆なら——いや。

立場は、いつだって逆ではなかった。

三年間、ずっと、俺が踏み台だった。

倉橋を扉に近づけたのも、蛭川だった。俺を扉の前に押し出したのも、蛭川だった。次の生贄を選ぶ役を、奴は決して譲らない。譲らない代わりに、自分は決して扉の前に立たない。

俺はコンクリートの床に頬をつけたまま、笑いそうになった。

笑ってはいけない場面で笑いそうになる癖は、いつから染みついたのだろう。頬に当たるコンクリートは、想像していたよりずっと冷たかった。湿気を吸った冷たさで、皮膚から体温を素早く奪っていく。その冷たさが、なぜか、心地よかった。三年間こびりついていた何かが、頬の側から、ゆっくり剥がれていく感覚があった。

足音が遠ざかっていく。蛭川と伊原と佐久間の、三人ぶんの靴音。それが踊り場を出て、通路の奥へ吸い込まれていく。やがて、聞こえなくなった。

代わりに、扉の向こうの咀嚼音が、止んだ。

踊り場には、俺一人と、開いたままの扉だけが残った。

身体を起こそうとして、肘がコンクリートを擦った。皮膚が剥けて、薄く血が滲む。その血の匂いが、扉の向こうの錆の匂いと混ざった。喉の奥で、また、舌の上で、錆の味が、甘くなる。

倒れたままの俺の右手が、扉の方へ投げ出されていた。

指先が、取っ手の真下のコンクリートに、触れている。

引っ込めるべきだった。

けれど、扉の闇の奥から、何かが、こちらの呼吸に合わせて、息を吸った。

俺の指が、勝手に、取っ手の冷たさに向かって、ほんの数ミリ、滑った。

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