Novelis
← 目次

贄の家、視える少女

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の教室は、冷えた蛍光灯の音がする。

 私は窓際の最後列で、ノートの罫線を一本一本なぞっていた。シャープペンシルの芯が、紙の繊維を削る音だけが、私の耳の中で生きている音だった。

「ねえ、水篠さんって」

 斜め前の子が、声を潜めた。潜めたつもりだろうけれど、潜められたことが、私の席には却って伝わる。机の間の細い隙間を通り抜けてくる声は、薄い紙を重ねたように、いちいち皺を立てて私の項へ届く。

「……この前も一人で、町外れの方に歩いて行ったって」

「あそこ、出るって聞いたよ」

「だから似合うんじゃない?」

 低い笑い声が、波紋のように机の間を渡っていく。私は、シャープペンシルの先から視線を外さなかった。芯が、罫線の上で二度続けて折れた。折れた芯の一片が、ノートの縁を転がり落ちて、足元の埃の中へ紛れて視えなくなる。

 気味が悪い。湿っぽい。暗い。

 その三つの形容詞を、私はもう百回は聞いた気がする。慣れたとは言わない。慣れる、という言葉は、傷が治ることに似ているから。私のそれは、治らない。ただ、痛みの位置を、少しずつ身体の奥へ預ける術を、覚えただけだ。

 昼休み、廊下の水飲み場で手を洗う。石鹸の泡を両手に乗せていたら、背後を、誰かが早足に通り過ぎた。泡の間から覗いた私の手の甲に、冷たい水しぶきが、ぴしゃり、と当たった。振り返ったときには、もう遠ざかる上履きの底しか視えなかった。わざとかどうかは、分からない。分からない、ということだけが、いつも胸の底に残る。

 六時間目の終鈴が鳴る前から、私は決めていた。家には、帰らない。

***

 校舎の裏門を抜け、河原沿いの土手を歩く。

 制服のスカートの裾に、昨日の夕立の水気を残した草が、擦れてくすぐったい。背中の鞄の金具が、歩くたびに、かちり、かちりと鳴る。その音が、私の歩幅を決めてくれるから、下を向いたままでも、廃洋館までの道は間違えない。

 土手の向こう、川面に夕陽の破片が散って、薄い金色の鱗を立てていた。鴉が二羽、低く鳴き交わしながら、枯れた芒の穂の上を横切っていく。その声は、私が慣れ親しんだ、街のどの音よりも、優しく聞こえた。人間の声は、どれも、私に向けられるときは、角ばっていた。鴉の声には、角がない。ただ、あるべき場所へ、まっすぐに落ちていくだけの、重さがあった。

 蔦の絡んだ外壁が視界に入ると、肩の力が、首の後ろから滑り落ちていく。

 軋む玄関扉を押す。黴と、土と、湿った木の匂い。いつもの、肺が安堵する匂いだ。

 ──けれど、今日は、少しだけ、違った。

 広間の中央に立った瞬間、鼻の奥を、細い針のような匂いが掠めた。黴の層の、そのまた下。床板の黒い継ぎ目の、奥の方から、微かに、鉄の錆びた匂いが、立ち上ってくる。

 喉の奥で、唾を飲み込む。飲み込んだはずの唾は、鳩尾のあたりで止まって、そこからまた、じわりと、別の味になって上がってくる。

 舌の奥の、あの鉄の味は、前からあった。毎晩ここへ来るたびに、喉の奥へ落ちてくる味だった。だが、これは、匂いだ。明確な、液体の蒸発した後の、残滓の匂い。

 私は、鞄から懐中電灯を出した。

 光の輪を、床板の継ぎ目に、ゆっくりと落とす。木の黒ずみが、光に撫でられて、違う色を滲ませた。暗い朱。干からびた唐辛子のような、赤黒い細い線が、床板の隙間に沿って、途切れ途切れに走っている。一本や二本ではない。光の輪を広げていくと、広間の中央あたりに、その筋は、放射状に──あるいは、外から中央へ収束する向きに、何十本も、蜘蛛の脚のように、伸びていた。

 指で、触れてみようとして、手が、止まった。

 触れれば、ここに来ることを、私は止められなくなる気がした。知らないふりができるうちは、まだここは、私の逃げ場でいてくれる。触れた指先に、この家の記憶が流れ込んでくる予感があった。それを受け入れてしまえば、私は、もう、ただの十四歳の女の子ではいられなくなる。

 懐中電灯の輪を、暖炉の方へ、ずらしていく。

 煉瓦の奥、昨夜視た「細い筋」が、もう筋ではなくなっていた。

 ──文字、だった。

 横書きでも、縦書きでもない。指先で煉瓦を掻きむしった爪の跡が、幾重にも重なって、たまたま一つの形に見えているだけ、かもしれなかった。──そう、思いたかった。

 けれど、その形は、私の名前の、最初の一画に、どうしても似てしまっていた。

「……しお」

 口の中で、自分の名前の頭の二文字だけが、溶けるように転がった。転がったそばから、喉の奥へ落ちて、飲み込めない、あの石になった。

***

 背後で、床板が、軋んだ。

 いつもの軋みとは違う。もっと、深い。木の芯まで通る、低い軋み。家全体が、一度だけ、私の方へ、身を乗り出したような、そういう軋み方だった。

 私は、懐中電灯を消した。

 光があると、あの人に失礼な気がした。いつも、月明かりと、暖炉の影の境目に、あの人は座っていたから。

 窓の桟越しに、細く研いだ爪のような夕方の残光が、床を斜めに切っている。月はまだ昇らない。光の縁に、着物の裾が、ふわりと浮かんだ。

 女のひとは、今日もいた。

 暖炉の前では、なかった。

 広間の中央の、私の、少し、後ろに。

 私は、振り返らなかった。振り返らなくても、視える気がした。背中に、布の衣擦れのような、乾いた絹の音が、かすかに触れる。匂いも、した。古い箪笥の奥から出した着物の、樟脳と、人肌の移ったお香の、混じった、甘い匂い。

 そして、視線を、感じた。

 ──こんばんは、と、言おうとして、言えなかった。声は、喉のあたりで止まった。いつもなら、口に出せた言葉だ。けれど今夜は、出せなかった。

 私の後頭部に、視線がある。

 それは、確かに、慈しみの視線だった。昨夜までと同じ、柔らかな、私だけを責めない眼差し。──だが、その裏側に、もう一つの温度が、混じっていた。

 なんと言えばいいのだろう。

 料理人が、鍋の中の豆を視るときの、あの視線に、似ていた。柔らかくなったか、まだか、煮崩れていないか、火の通りは均一か。──慈しみと、値踏み。その二つが、同じ一つの視線の中で、薄い膜のように、重なっていた。

 首の後ろの産毛が、一本ずつ、順番に立っていく。

 私は、床を、見ていた。床板の、血に似たあの細い筋の、放射状の中心に、私は、座っていた。さっきは、気づかなかった。光の輪を落としたときには、気づかなかった。放射は、私を、中心に、外へ広がっていた。あるいは──外から、私の方へ、収束していた。

 肩に、冷たいものが、触れた。

 重さは、なかった。ただ、体温がそこだけ、すとん、と奪われる。左の肩先。鎖骨の上。女のひとの指が、そこに、置かれている。

「……詩織」

 声が、聞こえた。

 低く、温い、女の声。私の名前を、呼んだ。

 家では「あの子」としか呼ばれない、私の名前。誰からも、呼ばれたことのない呼び方で。

 胸の奥で、飢えていた何かが、一気に灯火を得たように、ぼう、と広がる。その温度に、私の目頭は、堪えなく熱くなった。涙が一粒、睫毛に溜まって、震えた。

 ──ここで、泣いてはいけないはずだった。

 そう思った瞬間、肩に置かれた指が、ほんの、ほんの僅かに、ぎゅ、と、私の鎖骨の骨を、押した。

 押された、という感覚の、その後ろから、別の情報が、体の内側を、静かに、這い登ってきた。──触れられている、のではなかった。確かめられていた。骨の太さが。肉のつき方が。まだ熟れていないか、もうすぐか。そういう、種類の、触れ方だった。

 胸の奥で、灯ったばかりの火が、どこかで、音もなく、ちろりと揺れた。温かい、と感じた先ほどの指先が、今は、冷たい。冷たさの質が、変わっていた。体温が奪われる、のではなく、何かが私から、少しずつ、量られて、持ち帰られていく──そういう種類の、冷たさだった。

***

 広間の外、玄関の方から、小さな笑い声が聞こえてきたのは、そのときだった。

 十代の、複数の声。くぐもって、けれど、明らかに男子と女子の混じった声。

「──絶対ここだって」

「水篠、ほんとに入った?」

「入ったって。さっき見たもん」

 私の肩から、冷たい指が、離れた。

 振り返ると、女のひとは、もう、視えなかった。ただ、暖炉の煉瓦の奥から、さっきの細い筋の、横に、もう一本、新しい筋が、音もなく、ゆっくりと、伸び始めていた。

 玄関の扉が、軋む音がした。

 この家が、誰かを、招き入れていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ