第1話
第1話
午前三時の廃洋館は、舌の奥に鉄の味がする。
黴と、土と、湿った木が腐る匂い。それに混じって、錆びた釘のような味が喉の奥へ落ちてくる。私は広間の中央で、膝を抱えて座っていた。懐中電灯はわざと消してある。自分の家では、電気を点ければ父の舌打ちが飛んでくるから。
ここでは、誰も私を責めない。
床板が一枚、私の背後で軋んだ。気のせいではない。誰かが、あるいは何かが、ゆっくりと体重を移し替えている音だ。私は息を詰めずに、ただ耳を澄ます。家では毎晩こうして気配に怯えてきた。けれど、この廃洋館の軋みは、不思議と私を怯えさせなかった。
──あ、また来てくれた。
十メートルほど先、割れた窓から差し込む月明かりの縁に、女のひとが立っている。
着物の裾が、畳まれていない紙のように薄く浮いている。髪はきつく結われ、襟足に一筋のほつれが肩へ落ちていた。顔は、はっきりとは視えない。ただ、口許が、柔らかく笑んでいる。
私だけが視える、私だけの客人。
十四年生きてきて、私を見て「気味が悪い」と顔を顰めなかったのは、この人が初めてだった。
***
私——水篠詩織が家に帰らないのは、帰る場所がないからだ。
物心つく前から、私には視えてはいけないものが視えていた。仏壇の前で正座している知らない老人。台所の天井近くをずっと漂っている、片腕のない女の子。風呂場のタイルの目地に、溶け残った雪のように滲んでいる、顔のない赤ん坊。最初は全員に視えているものだと思っていた。五歳のとき、祖母の葬式で「おばあちゃんが戸のところに立ってるよ」と指差した瞬間、父の掌が私の頬を鳴らした。あのパンという乾いた音を、私はまだ耳の奥で鳴らせる。頬の熱よりも、周囲の親戚が一瞬で黙り込んだあの静けさの方が、ずっと長く痛かった。
それ以来、我が家では私のことを「詩織」と呼ばない。「あの子」と呼ぶ。夕食の食卓で、父は母に向かって「あの子の茶碗、下げていいぞ」と言う。母は頷いて、私の食器だけを流しへ運ぶ。私はまだ、食べている途中だった。
学校でも同じだった。修学旅行の旅館で「廊下の突き当たりにいる男の人、誰?」と尋ねただけで、私の席はクラスの最後列、窓際の一番埃っぽい位置に固定された。お弁当の時間、机をくっつけても、誰も私の側には座らない。隣の席の子は、私の鉛筆が触れたノートを、わざわざ消しゴムで擦って消した。黒板消しを手渡そうとしたら、落として拾う方を選ばれた。体育の着替えの時間には、私のロッカーの前だけぽっかりと空白ができて、誰も通らない通路のようになった。
気味悪い。そう囁かれるたびに、私は目を伏せる。 視えてしまうのは、私が望んだことじゃない。
けれど、それは誰にも言えない。言えば、また父の掌が飛んでくる。言えば、母の溜息が長くなる。言えば、クラスの最後列がさらに後ろへ下がる。だから私は、視えても視えなかったふりをすることを、十四年かけて覚えた。
町外れの廃洋館を見つけたのは、中二の春、河原に逃げ込んだ雨の日だった。蔦に覆われた西洋館の、外壁の鎧戸が一枚、風にぶら下がっていた。──誰もいない。それは、私にとって何よりの褒美だった。
軋む玄関扉を押して、黴の匂いを吸い込んだ瞬間、胸の奥のどこかが、緩んだ。
中は広い。広間には埃を被ったシャンデリアが落ちていて、暖炉の煉瓦は半ば崩れていた。階段の手摺りは黒ずんだ木で、触れると指に微かな刺のような感覚が残る。触覚まで記憶できる家だ、と私は思った。床に散らばった硝子片が、外の雨雲を映して、冷たい鱗のように光っていた。
そして、初めて来た日に、私は視た。
暖炉の前に、着物の女のひとが座っていた。膝を揃え、背筋を伸ばし、じっと火の気のない暖炉を見つめていた。私が扉を開けた気配に、女のひとは顔を上げ──笑った。
咎めない笑みだった。
それが、この家に通うようになった最初の夜だ。
***
今夜もまた、私はここに来た。
家の中で、母の溜息が私の後頭部に当たる音に耐えられなくなったからだ。父はもう私と口をきかない。中学二年の娘に、父親が三日間一言もかけない家。そういう家があることを、クラスの子たちは知らないだろう。
広間の中央に胡坐をかく。制服のスカートが、床板の埃で白く汚れる。私はそれを払わない。どうせ家に帰ってから、母に「汚い」と言われるのは決まっている。だったら、ここで汚れた方がずっと穏やかだ。膝頭についた埃を、指先で軽くなぞる。こんな風に自分の体に触れられるのは、ここでだけだった。家では、触れた指先から、自分の輪郭が溶けていく気がする。
頭上のどこか、二階の奥の方から、すぅ、すぅ、と呼吸音のような気配が流れ落ちてくる。人ではない。空気が、この家の肺でゆっくりと出入りしているような音。天井の梁の隙間から、剥がれ落ちた漆喰の粒が、ひとつ、またひとつと、音もなく膝の上へ降りてくる。まるで雪の始まりみたいだ、と思った。誰にも降り積もってもらえない私の肩を、この家だけが、白く飾ってくれる。
──初めの頃は、これが怖かった。
今は、眠る前に聞く心音に近い。
「……こんばんは」
私は小さく声に出す。返事は期待していない。けれど、返事があったことは、一度もない代わりに、視線はいつも合う。
女のひとが、いつものように暖炉の前に、音もなく座っている。
月明かりが女のひとの横顔を薄く撫でる。今夜は、目許まで視えた。切れ長の、睫毛の長い目。その瞳が、こちらへ向く。
私は、息を呑んだ。
女のひとの微笑みが、少しだけ深くなる。
学校でも、家でも、誰も私に向けたことのない表情だった。憐れみでも、嘲りでも、無関心でもない。──知っているよ、と言っているような。あなたが毎晩、家で何に耐えているかを、私は知っているよ、と。父の舌打ちの乾き方も、母の溜息の湿り方も、クラスの最後列の埃っぽさも、全部、全部、私は知っているよ、と。給食のトレーを戻すときに誰も目を合わせてくれないことも、放課後の昇降口で上履きが片方だけ靴箱の外に出されていたことも、母が洗濯機に私の体操着だけを別に回していることも、一つ残らず。
鼻の奥が、痛い。目の奥が、じん、と熱を持つ。視界が一度だけ、暖炉の輪郭を滲ませた。喉の奥で、小さな石のようなものが転がっている。飲み込もうとすると、余計に大きくなる。呼吸を、浅く、浅く、繰り返した。私の吐く息だけが、月明かりの筋の中で白く立ち上り、女のひとの方角へ、頼りなく流れていく。
泣いてはいけない。この人の前で、私はまだ泣いたことがない。泣き方を、この家で覚えるのは、なんだか違う気がしたから。ここは、泣かなくていい場所として残しておきたかった。世界に一つくらい、涙を持ち込まなくていい場所があっていい。
女のひとが、わずかに首を傾げた。
その動きに合わせて、広間の床板が一斉に、長く、深く、軋んだ。家全体が息を吸った音だった。私の項に、ぞわり、と冷えた空気が這い上がる。髪の生え際の一本一本が、別々の方向に逆立つような感覚。耳の奥では、遠い蝉時雨のような耳鳴りが、じわ、と湧く。けれど、怖くはない。怖くはない、はずだった。
ただ、女のひとの唇が、初めて、ほんの僅かに動いた気がした。声は聞こえない。けれど、その形は、「おいで」と言っているようにも、「かわいそうに」と言っているようにも、私には視えた。胸の内側で、誰かに呼ばれたい、と願っていた飢えが、ほんの一瞬だけ、指先まで満ちた。その甘さに、私は少し、たじろいだ。
***
帰り際、私は扉の前で一度だけ振り返った。
女のひとは、もう視えなかった。ただ、暖炉の煉瓦の奥に、誰かが指で引っ掻いたような、細い、新しい筋が残っていた。
前に来たときは、なかった筋だ。
私はそれを、見なかったことにした。振り返らずに玄関扉を押す。鉄錆の味が、さっきより濃く、舌の奥に落ちてきた。
明日もここに来よう、と私は思った。
この家だけが、私を責めない。
——そう、信じていたかった。