第3話
第3話
玄関の軋みが、耳の奥で、二度、三度と反響した。
扉は、内側へ開かれつつある。蝶番の錆が鳴る、ぎい、という音。その音の隙間を縫って、細く乾いた風が、広間の床板の埃をうっすらと舞い上がらせた。埃の粒が、窓の桟から差し込む夕方の残光の中で、一粒ずつ、勝手に向きを変えながら、ゆっくりと玄関の方へ流れていく。
──吸い込まれている、と思った。
この家が、玄関の外にいる子たちを、肺の奥へ、息を吸うように、引いている。
「うっわ、臭っ」
「黴の匂いすご……靴、駄目になるって」
「ばっか、平気だって、そのための肝試し」
三人。いや、四人。声の数を、私は制服の袖の中で指を折って数える。男子が二人、女子が二人。全員、聞き覚えのある声だった。クラスの中で、私のノートに鉛筆の先が触れるのを嫌がって、消しゴムで擦った子たちだ。靴箱の外に私の上履きを片方だけ出していた、その指の主たちでもある。笑い声の間に、スマートフォンの、撮影のための、こつ、こつ、という親指の音が混じる。
私は、広間の柱の陰に、身を寄せた。息を、できるだけ浅く吸う。肺の底で、埃と、鉄錆の匂いが、ほどけないまま、ひとつの塊になって沈んでいる。
懐中電灯は、消したままにしておいた。光は、この家に、失礼だった。
***
「おーい、水篠、いるんだろー」
玄関の三和土に、上履きのままの足音が、ぺた、ぺた、と入ってくる。四人分の足音が、広間へ続く廊下で、ばらばらのリズムに分かれていく。先頭が男子。その後ろに女子が一人。少し遅れて、残りの二人。先頭の子は、廊下の板を踏むたびに、わざと大袈裟に、どん、と踵を落とした。家を、試していた。
「マジでいるかも」
女子の声が、笑いながら掠れた。笑っていても、声の奥の方が、少し、震えていた。震えを隠すために、余計に声を大きくしていた。
「だって水篠、昨日もここ入ってくの見たもん」
「根暗の隠れ家じゃーん」
根暗の隠れ家、という単語が、スマートフォンの録画の中で、何度も、再生されるのだろう。明日の朝、教室に入った瞬間、私は、自分の席に座る前に、クラス全員の膝の上から、その音を浴びることになる。想像は、先に来た。想像の中の私は、もう、俯いていた。いつもと同じ角度で。
けれど、今の私は、俯いていなかった。
柱の陰から、広間の中央を、視ていた。
女のひとが、そこに立っていた。
さっきまで、私の肩に指を置いていた人だ。今は、暖炉の前でも、私の背後でもなく、ちょうど広間の真ん中、あの放射状の細い筋の中心に、音もなく、立っている。
月はまだ出ていない。夕方の残光だけが、鎧戸の隙間から差している。その弱い光の中で、女のひとの横顔は、私が初めて視る角度で、こちらへ向けられていた。
微笑んでは、いなかった。
唇が、一本の、細く引かれた線になっていた。眉と眉の間に、薄い影の谷ができている。視線は、玄関の廊下の方角へ、じっと据えられていた。目尻が、少しだけ、下がっていた。瞳の奥で、何かが、静かに、擦れるように、揺れている。
──悲しんで、いるのか。
あるいは、怒って、いるのか。
私には、判別がつかなかった。ただ、ひとつだけ、はっきりしていた。あれは、昨夜までの、私に向けられていた顔と、同じではなかった。私に向けていた慈しみを、この人は、今、一枚、どこかへ畳んでしまっていた。
「おい、広間っぽいのあるぞ」
先頭の男子の声が、廊下の終わりで、反響した。スマートフォンのライトの白い光が、廊下の壁を撫でながら、広間の入口へ、近づいてくる。
女のひとが、わずかに、肩を動かした。
動いた、と私は感じた。実際に動いたのかは、視えなかった。ただ、広間の空気の密度が、ほんの僅か、変わった。首筋の産毛が、一本ずつ、違う方向へ、順に立ち直していく。
私は、声を出そうとした。広間に入るな、と、四人に向かって、声を、張ろうとした。
けれど、喉の奥で、石が、転がった。飲み込めないあの石が。
声の代わりに、息が漏れた。
***
先頭の男子が、広間に、足を、踏み入れた。
ライトの光が、床板の上を、雑に走った。光の先で、細い朱の筋が、一瞬、きらりと、濡れた刃のように光って、男子は、それに気づかなかった。放射の中心の、ちょうどその位置を、男子は、靴の底で、無造作に、踏み潰して通り過ぎた。
「ここ、夜マジでやべえじゃん」
続いて、女子二人が、広間の敷居をまたぐ。最後の一人は、少し、遅れた。入口で、靴を、一度、止めた。その子は、他の三人より、背が低かった。背が低いから、目線が、床に近かった。その子だけ、床板の朱の筋に、気づいたのかもしれなかった。けれど、気づいた、と口にはしなかった。ただ、スマートフォンの画面で、自分の顔を一度だけ確かめて、それから、息を、ひとつ、強めに吐いて、他の三人を追った。
四人とも、広間の中央の、女のひとの、ちょうど前を、通り抜けた。
気づいて、いなかった。
目の前一メートル、立っている人の形を、誰も、視ていなかった。視えないのは、当たり前だった。私だけが、視える、私だけの、客人なのだから。けれど、視えなくても、肌の産毛くらいは、逆立つはずだった。体温くらいは、奪われるはずだった。──それさえも、四人は、感じなかった。
感じさせて、いなかった、と言うべきか。
女のひとは、四人が、自分の前を通り抜けていくのを、微動だにせず、視ていた。唇は、あの細い線のまま。目尻は、あの、下がり方のまま。
ただ、右手だけが、和服の袂の影で、指を、ゆっくりと折っていた。
一、二、三、四。
数えて、いた。
私の喉の奥の、石が、もう一つ、大きくなった。
「──水篠、いないぞ、ここ」
「逃げたんじゃね?」
「それか、隠れてるかも。ねえ、水篠~、出ておいでー」
女子の一人が、芝居がかった声で、広間の隅へ、呼びかけた。
その声が、壁に、吸い込まれた。
普通の家なら、反響するはずの声だった。高い天井と、石膏の剥がれた壁と、割れた窓硝子。どこかで、跳ね返ってくるはずの声が、この家の壁の中へ、染み込むように、消えた。消えた声の、跡だけが、広間の床板の上に、にじ、と、薄く、残った。
玄関の方角から、ふう、と、風が、広間へ、流れてきた。
生ぬるい風だった。人の吐いた息の湿り気を、三人分、四人分、煮詰めて、一つの気流にしたような、甘ったるい、それでいて、奥に、鉄錆の匂いを仕込んだ、そういう、風。
風は、広間の中央で、一度、渦を巻いた。四人の髪を、同時に、同じ方向へ、持ち上げて、また、戻した。
「……なに、今の」
背の低い、最後に入ってきた子が、初めて、笑いを忘れた声を出した。
けれど、先頭の男子は、それを、鼻で笑った。
「風だろ、ボロ家だし」
そう言って、広間の奥、暖炉の、さらにその向こう、廊下の影になった、地下へ続く扉の方を、ライトで、照らそうとした。
ライトの光が、扉の手前で、ぷつ、と、切れた。
電池の、切れる音では、なかった。
光が、扉の、数十センチ手前で、透明な膜にぶつかったように、ぐしゃり、と歪んで、そこから先へ、進まなかった。男子は、首を傾げ、スマートフォンを軽く、振った。振ると、光は、また、まっすぐに戻った。扉以外のところは、ちゃんと照らせた。扉の前、そこだけが、照らせなかった。
「……なあ、なんか、変じゃね」
***
女のひとが、袂の中で、折っていた指を、すべて、戻した。
そして、右手を、玄関の方角へ、ゆるやかに、差し伸べた。
招く仕草では、なかった。かといって、追い払う仕草でも、なかった。ただ、掌を、斜め下に向けて、空気を、撫でるように、一度、下へ、降ろした。
その瞬間、玄関の扉が、誰も触れていないのに、音もなく、ゆっくりと、内側へ、あと、十数センチ、開いた。
開いた分だけ、外の、夕暮れの残光が、広間まで届かなくなった。家の中が、一段、暗くなった。代わりに、玄関の奥から、もう一度、あの生ぬるい風が、今度は、深く、長く、吹き込んできた。
まるで、家が、息を、吸い込んでいた。
四人の髪が、風に、今度は、ゆっくりと、同じ角度へ、倒れていく。
私は、柱の陰で、自分の肩に、昨夜の、あの冷たい指の記憶が、蘇るのを感じた。骨の太さを、肉のつき方を、確かめていた、あの指だ。──今、その指は、私の肩には、ない。
広間の中央で、女のひとが、ほんの、僅かに、顔を、こちらへ、向けた。
初めて、目が、合った。
その目は、微笑んでは、いなかった。