第2話
第2話
朝五時。
縄が床を叩く音が、ジムの天井に跳ね返っている。五百三十二、五百三十三。隼人は数えていない。体が勝手に刻む。止まれば、昨夜の電話が戻ってくる。だから、止めない。
肩が重い。昨夜の五人目、元自衛官崩れの右フック。掠めたはずが、胸骨まで響いている。息を吐くたび、肋骨の三番目が軋む。吸うと、鉄の匂いが鼻の奥に滲んだ。口の中を切った覚えはない。だが舌先に、錆の味だけがずっと残っている。
「朝から飛ばしすぎだ」
カウンターの奥、老田の声。コーヒーの匂い。豆を挽く音。ジムの古いエアコンが、低く唸りながら冷たい風を吐いている。
「体が起きない」
「寝てねえだろ」
返事をしない。ロープを止める。縄が床に落ちる乾いた音。汗が額から睫毛を伝い、目に入る。染みる。拭わない。拭えば、震えていると気づかれる。
鏡張りの壁に、痣だらけの男が映っている。頬骨の下、青黒い痣。唇の切れ目は黒く固まっていた。右の前腕に巻いたバンテージが、もう赤く滲んでいる。鏡の中の男の目が、こちらを見返してくる。死んだ男の目だ、と思った。三年前、爆発で死んだはずの男が、まだ、呼吸をしている。
「今日は五時だぞ」
老田がカウンター越しに言う。
「……ああ」
「その前に、一度は飯を食え。坂巻って男、ツラ色見て逃げ出すぞ」
五時。坂巻。段ボール。三年越しの遺品。忘れていなかった。忘れられるはずがなかった。
隼人はサンドバッグの前に立った。
左ジャブ。二発。右ストレート。革の音が、倉庫の金網の音に重なる。
昨夜の五人目の顎を砕いたときの、同じ感触。肘の、同じ角度。拳の骨に、相手の骨が噛み合う一瞬の抵抗。それを乗り越えた瞬間の、奇妙な軽さ。
──三年前、この拳は、三人を撃った。
左フック。体を半回転。肋が軋む。構わない。痛みがある限り、生きている。痛みだけが、あの夜と今を繋いでいる、細い一本の糸だった。
敵対組織の事務所、四階。木のドア。蹴破った。中央のソファに男が三人。驚いた顔。隼人は迷わなかった。迷うように、訓練されていなかった。一人目の眉間。二人目の喉。三人目、逃げようとした背中。三発で、三人。薬莢が床を跳ねる音。硝煙の匂い。誰かが倒れる、布が擦れる音。自分の呼吸が、やけに冷静だったこと。
“先生”は「よくやった」と肩を叩いた。同じ手で、葬式の帰りにも叩いた。
──違う。あの手は、何かを叩いて見せていた。俺の肩に、形を付けようとしていた。粘土をならす指の動き。俺という器を、あの男の形に、整えようとしていた。
右ストレート。サンドバッグが揺れる。鎖が軋む。
四人目を撃つ前に、気づいた。
美咲の最期の声。「組織の──」その先。敵対組織の名前じゃなかった。聞き間違いじゃない。三年、耳の底で、毎晩、再生している。あれは、自分たちの組織の名前に続く、呼吸だった。妹は、撃たれる前に、それを伝えようとした。兄に。自分を撃った者の正体を。
組み合わせ。ジャブ、ストレート、フック、アッパー。四連打。バンテージの血が滲んで、サンドバッグの革に赤い染みを残す。
「隼人」
老田の声。
「バンテージ。巻き直せ」
「後で」
「血が滑る。膝、やる」
隼人は手を止めた。肩で息をする。天井を見上げる。蛍光灯が二本、ちらついている。
タオルを首にかけ、リングの端に腰を下ろした。水のボトルを握る。指が震えている。昨夜の疲労か、違う。電話を受けてから、指先だけが、ずっと、微かに震えている。
『妹の件だ、と言ってる』
なぜ、今か。
三年、音沙汰のなかった弁護士が、なぜ、今。
隼人はボトルを握りつぶした。プラスチックが軋む。水が逆流して、ぼたぼたと床に落ちた。
「すまん。新しいの、出す」
老田が新しいボトルを投げる。受け取る。キャップを開ける。一息で半分飲む。冷たい水が、焼けた喉を通っていく。胃の底に落ちて、そこで冷えた塊になった。
「隼人」
「なんだ」
「坂巻が来たら、どうするつもりだ」
「……聞く」
「それだけか」
「それだけだ」
老田は答えなかった。カウンターの中、タバコに火を点ける。煙が、天井の蛍光灯の光を横切る。薄青い紗幕が、ゆっくりと形を変えながら、床の方へ沈んでいく。
「受け取って、開けて、終わりだ」
自分に言い聞かせる。声が少し、掠れた。
終わりになど、ならない。胸の奥で、何かが、低く呻いた。三年前、血の付いた拳で叩き潰した扉。今、蝶番が軋んでいる。誰かが、外側から、指をかけている。爪の、固い音が、聞こえる気がした。
午後三時過ぎ。
ドアベルが鳴った。
隼人はサンドバッグを押さえていた手を、止めた。
「まだ二時間ある」
老田が呟いた。カウンターから立ち上がる。
男が入ってきた。
黒いスーツ。ネクタイも黒。靴は磨かれている。肩幅がある。四十前後。髪は短く、耳の上だけ白い。右手は空。左手、携帯を握っている。
弁護士ではない。
一瞬で分かった。スーツの肩、左胸の下、不自然な膨らみ。ショルダーホルスター。中身の形は、小型オートマチック。歩き方で分かる。足音を殺す癖、体の重心を常に片側に残す立ち方。訓練された人間の、身のこなし。
「悪いな、まだ開店前だ」
老田が、カウンターの下に右手を沈めながら言う。あの下には、木刀がある。隼人は知っている。
「黒沢隼人さん、ですね」
男が言った。低い声。関西の訛りが、わずかに残っている。
隼人は答えない。
サンドバッグを押さえていた手を、ゆっくり離す。ジムシューズの底で、床の感触を確かめる。左足、半歩前。重心を落とす。出入口までの距離、八歩。カウンターまで、三歩。男までは、五歩。男の右手が銃を抜くまで、およそ一秒半。その間に、自分が踏み込めるのは、三歩。届く。
「人違いだ」
隼人は言った。
「三年前、爆発で死んだはずの男が、まだ殴り合っている」男は笑わなかった。「“先生”が、元気でおやりか、と」
空気が、止まった。
ジムの音が、全部、消えた。
ロープの音。カウンターの奥のタバコの煙。蛍光灯のジジッという震え。全部、一枚のガラスの向こうに押し込まれた気がした。自分の心音だけが、耳の内側で、やけに大きく鳴っている。
隼人は左手を、ゆっくり、ポケットから出した。拳を、開いた。
「……“先生”からの、言伝か」
「言伝ではない」男はスーツの内ポケットに、左手をゆっくり入れた。「確認だ」
老田のカウンターで、木刀の柄が鳴った。
男は構わず、ポケットから封筒を一つ出した。白い、薄い封筒。それをカウンターの端に置いた。指の動きに、無駄が一つもない。置く、というより、そこにあるべき場所に、返したような手つきだった。
「今夜、開けないでくれ。今夜は、別の客が来るだろう」
坂巻。五時。
隼人の背筋が、ひやりと冷えた。こちらの予定を、知っている。昨日の時点で、あるいはもっと前から、このジムの出入りは、すべて見られていた。
「その客が帰ってから、一人で開けろ。読んで、焼け。返事は、要らん」
「お前、誰だ」
隼人が、初めて男の目を見た。
男は答えなかった。黒い目が、隼人の頬の痣を一秒、唇の切れ目を一秒、右の前腕のバンテージを一秒、順に見た。値踏みではない。確認。リストの項目を、順に、打ち消していくような目だった。顔、傷、利き腕、呼吸の深さ。すべてが、どこかの台帳と照合されていた。
「黒沢、もう一度言う」男は微かに頭を下げた。「“先生”は、あんたが生きてて、嬉しがっておられる」
ドアベルが鳴った。
男が出ていった。
ドアが閉まる。ベルが止む。足音が、雨に溶けて消えた。
誰も、口を開かなかった。
蛍光灯だけが、ジジッと鳴っている。
老田がカウンターから木刀を抜いて、床に立てた。乾いた音。その音で、ようやく、空気が動き出した気がした。
「……隼人」
「ああ」
「あれは、誰の使いだ」
「俺の、死んだ父親の使いだ」
老田は何も言わなかった。木刀の柄を握る指の関節が、白くなっていた。聞かないでくれ、という目で、隼人を見ている。それ以上、踏み込めば、自分もこちら側に来てしまう、と知っている目だった。
隼人はカウンターの端に歩み寄り、白い封筒を見下ろした。軽い。紙一枚か、二枚。触れたら、何かが確定してしまう気がした。封の糊の、わずかな浮き。指紋ひとつ、付いていない。
三年前、死んだはずの自分が、今、生きていると“先生”に知られている。なら、昨夜から、いや、昨夜よりずっと前から、見られていたということだ。何年、だろうか。棺に蓋をした日から、ずっとか。
時計を見上げた。三時二十分。
坂巻は、五時に来る。
二つの封が、今夜、同じカウンターに並ぶ。
隼人はバンテージを巻き直し始めた。血が滲んだ布を、一周、もう一周。指先は、もう震えていなかった。