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拳の墓標、妹の日記

第1話 第1話

第1話

第1話

拳に貼りついた血が乾く前に、四人目が倒れた。

廃倉庫。コンクリートの床。天井の穴から雨が垂れて、隼人のこめかみを叩く。口の中に鉄錆の味。自分の血か、相手の血か、もう区別はつかない。

「もう一丁、行くかい、黒沢さん」

胴元の声。煙草の匂い。金網の向こうで、札束を握った男たちが歓声をあげる。薄い灯り。濡れたコンクリート。むせるような血と汗の匂い。

「まだ立てる」

前歯で口の中の肉を噛む。痛みで頭の芯が覚める。五人目が金網に入ってきた。元自衛官崩れ。肩幅が広い。顎が前に出ている。拳をタオルで拭う仕草に、素人の癖が残っている。腰が高い。

来い。

男の右フックが頬骨を掠める。風圧で鼓膜が痺れた。隼人は半歩引き、踏み込みに合わせて肘を落とす。鎖骨が折れる鈍い音。悲鳴が反響する前に、膝が顎にめり込んだ。男の頭が後ろに跳ね、歯が二本、空中に飛ぶ。

二秒。

コンクリートに男が崩れる。痙攣。白目。呼吸は、まだある。殺してはいない。殺さないルールだけは守っている。それだけが、隼人と組織時代の自分を隔てる、細い糸だった。

歓声。ブーイング。札束の雨。隼人は床に唾を吐いた。赤い。

「お前、いつか本当に死ぬぞ、黒沢」

胴元は冷めた目で銭を数えている。隼人は答えない。答える言葉を、三年前に失くした。

拳を開く。皮が剥けている。中指の第二関節、薬指の付け根、手首の内側。新しい傷と古い傷が層になっている。

――三年前、同じ場所に、妹の血が付いていた。

受け取った札を、数えずにポケットに押し込む。金はいらない。殴れればいい。殴って、殴って、朝まで自分が自分じゃなくなれば、それで眠れた。

倉庫を出る。雨脚が強くなっていた。

歌舞伎町の裏路地。看板のネオンが水溜まりに溶けている。パーカーのフードを被り、血の付いた拳をポケットに押し込む。誰も見ない。見えていないふりをする。この街のルールだ。

ポケットの中で携帯が震えた。

三年前から、同じ着信音。鳴るたびに心臓が一度、強く跳ねる。出るはずのない声を、まだどこかで待っている。

「はい」

『ジム、来い』

老田の声。ジムのオーナー。低い。

「こんな時間に」

『客だ。お前宛』

「断ってくれ」

『三年越しだってよ』

隼人は立ち止まった。

雨がフードを叩く音だけが残る。

『妹の件だ、と言ってる』

通話が切れた。

指先の血が、冷たい雨で薄まっていく。

妹の件――。

閉じたはずの扉が、どこかで軋む音がした。

――

『落雷ジム』。看板の文字が半分消えている。築四十年、ペンキが剥げ、ドアの蝶番は錆びている。だが、三年前から、ここが隼人の場所だった。組織から転がり落ちた夜、老田が何も聞かずに二階の物置を貸してくれた。

扉を押す。ドアベルが鈍く鳴る。

「来たか」

カウンターの奥、老田がタバコを灰皿に押しつけた。筋張った腕、右目に古い傷。元ボクサー、元ヤクザ、今はジムのオーナー。

「客は」

「帰った。明日の五時、また来るとよ」

「名前は」

「坂巻。弁護士だ、と」

「……身元は」

「確かめた。事務所に繋がる番号だった」老田は札入れから名刺を取り出し、カウンターに滑らせた。「若造じゃねえ。五十は超えてる。一人で来た。段ボール一つ、抱えてた」

「段ボール」

「中身は聞いてねえ。置いていこうとしたが、直接渡すってよ」

隼人は名刺を見下ろす。手に取らない。『坂巻法律事務所』。電話番号。住所。印字された文字だけ。

「目的は」

「妹さんの遺品整理が、ようやく終わったとさ」

三年、かかったのか。

声にならない。

老田は隼人の拳を見た。皮の剥けた指、血の滲んだ爪、腫れ上がった拇指の付け根。何も言わなかった。三年間、一度も聞かなかった。どこで誰を殴ってきたのか。隼人が話さないから、老田も聞かない。聞かない代わりに、毎晩、二階の電気を夜中まで点けて待っていた。

「明日の前に、水でも浴びてこい。そのツラじゃ、弁護士が逃げる」

「……ああ」

「飯、温めとく」

隼人は無言で奥の扉を押した。

更衣室。蛍光灯が一本、ちらついている。

ロッカーを開ける。色褪せたタオル、使い古したバンテージ、着替えのシャツ。三年間、何も増えていない。何も減っていない。美咲が選んでくれた紺色のパーカーだけが、一番下に畳まれている。もう着ない。三年前から、袖を通していない。それでも、洗い替えのたびに、老田が黙って畳み直してくれているのを、隼人は知っていた。

シャワー室のタイルが冷たい。素足の裏から、冷気が脛を這い上がってくる。天井の配管が、古い獣のように鈍く鳴いている。

冷水を浴びる。頭頂から足先まで、一気に。視界が白くなり、また戻る。拳の傷口から、薄く赤い水が足元に流れる。血の匂いが、雨の匂いと混ざる。赤い筋は、排水口で渦を巻き、黒い穴の底へ吸い込まれて消えていく。

――『お兄ちゃん』

耳の奥で、声が再生される。三年経っても、音程も、息遣いも、鮮明なままだ。

――『お兄ちゃん、この人たち、嘘をついてる』

雑音。息の切れ。走っている音。

――『ここ、知ってる場所じゃない。さっきの車、組織の――』

銃声。一発。

――『お兄ちゃっ――』

二発。

通話は、切れた。

――

三年前の夜。隼人は組織の指示で、別の街にいた。

「お前の妹は安全だ」と“先生”が言った。ホテルの部屋、白いシャツの袖、低い声。隼人の肩に置かれた、厚い手のひら。「お前は自分の仕事をしろ。俺が後ろを守る」

信じた。当たり前のように、信じた。

六歳で両親を失くして、十歳で施設を出て、妹と二人、路地裏で生き延びてきた隼人を、“先生”は拾った。「お前たちは俺の子供だ」と言った。美咲に学校を与え、隼人に仕事を与えた。殺すことを教え、同時に、殺しを家族のためだと信じさせた。

隼人が任務を終えて戻った時、美咲は冷たくなっていた。

自宅アパート、開いたままの玄関、倒れた傘立て。リビングのカーペットに、黒く広がる染み。妹の髪から、雨の匂いがした。

犯人は、敵対組織のヒットマン――そう処理された。

隼人は信じた。信じたふりをした。銃を握って、三日後には敵対組織の事務所を一人で叩き潰した。三人撃った。組織は「よくやった」と、隼人の肩を叩いた。“先生”が、葬式の帰りに、同じ手で叩いた。

四人目を撃つ前に、気づいた。

何かが、合わない。

美咲が最期に口にしかけた「組織の――」の続き。敵対組織の名前ではなかった気がした。自分たちの名前を、口にしかけていた気がした。

組織を抜けようとした夜、隼人は車ごと吹き飛ばされかけた。爆弾。タイマー式。コンマ数秒前に車外に転げ落ち、炎の中で肩と背中を焼いた。死んだと処理された。そのまま死体のふりをして、組織から消えた。

殺し屋・黒沢隼人は、そこで死んだ。

その死体を、老田が拾った。

冷水を止める。

壁際の鏡に、裸の男が映っていた。

痩せている。肩の骨が浮いている。脇腹に古い弾傷。背中に、爆弾で焼けた古い火傷。

顔を上げた。頬骨の下、青黒い痣が浮かびあがっている。唇の端が、切れて腫れていた。

眼窩の影が深い。髪が伸びすぎている。頬に、乾きかけた血。目の奥が、暗い。

これが、俺か。

指先で頬の血を拭う。鉄錆の匂い。力を抜くのを忘れた手は、いつでも拳の形に戻る。

鏡の中の男は、半分、死んでいる。

三年前、妹と一緒に、半分死んだ。

胸の真ん中に、ぽっかりと穴が空いている。そこを、雨と同じ匂いの風が、毎夜、通り抜けていく。三年間、一度も塞がらないままの穴だ。

残りの半分が、毎夜、知らない男を殴っている。

何のために。誰のために。

答えは、ない。

ただ、殴らないと眠れなかった。殴らないと、妹の声が消えなかった。

――『お兄ちゃん、この人たち、嘘をついてる』

隼人は鏡に、ゆっくりと拳を押し当てた。

ガラスが冷たい。指の傷口が、ガラスに赤い線を引いた。鏡の表面に、呼気が白く曇り、すぐに消えた。

「……明日、五時」

声が漏れた。

坂巻。段ボール。妹の遺品。三年越し。

何を、今さら、誰が、持ってくる。

鏡の中の男は、答えない。ただ、半分死んだ目で、隼人を見返していた。

扉の向こうから、老田の声がした。

「隼人。上がれ。飯、冷めるぞ」

隼人は拳を鏡から離した。

ガラスに、血の跡が一つ、残った。

水滴が、赤い筋を引きながら、床に落ちた。

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