第3話
第3話
カウンターの端、白い封筒は、動かない。
四時四十分。雨は止んでいた。ジムの窓の外、歌舞伎町の路地が、夕方の薄暮に沈んでいる。隼人はリングの端に腰を下ろし、膝の上で両手を組んでいる。バンテージは巻き直したばかりで、繊維の匂いが、鼻先に残っていた。
老田は無言でコーヒーを淹れている。三杯目。豆を挽く音が、壁の時計の針よりも速い。
「隼人」
「ああ」
「あの封筒、先に開けなくていいのか」
「言伝通りにする」
「ヤクザの言葉を、真に受けるのか」
「真に受けるんじゃない」隼人は膝の上の拳を、ゆっくり開いた。「順番を、間違えない方がいい」
老田は何も言わなかった。コーヒーを、カウンターの隼人の席に置いた。湯気が、白い封筒の縁をかすめる。封筒は、揺らがない。糊の浮きひとつ、変わらない。
壁の時計が、五秒進む音を立てた。
隼人は目を閉じる。昨日の男の足音、肩幅、ショルダーホルスターの膨らみ。全てが、まだ視界の裏に残っている。三年、見られていた。ジムの出入りも、倉庫の試合も、美咲の墓の前に座る背中も、おそらく全部。それでも、襲ってこなかった。殺さなかった。意味は、ひとつだ。生きていることが、向こうの都合に、合っていた。
時計が、四時五十五分を指した。
ドアベルが鳴った。
――
扉を押したのは、五十過ぎの痩せた男だった。
銀縁の眼鏡。薄くなった髪を後ろに撫でつけている。グレーのコート。革靴。右手に、古い茶色の段ボール箱を抱えている。両手でないと支えられない重さ、ではない。箱の隅を、指先で摘むように持っている。中身を、傷つけないための持ち方だった。
「坂巻です」
声が、微かに震えている。目の奥に、隠しきれない緊張。息を吸うとき、肩が一度、上がる。素人の呼吸だ。眼鏡のレンズが、ジムの蛍光灯を受けて、一瞬だけ白く光った。その奥で、瞳孔が、扉の背後の路地を気にするように、ほんの半拍、揺れた。
昨日の男と、違う。
隼人は立ち上がった。
「黒沢さん、で、間違いないですね」
「ああ」
「三年、お待たせしました」
坂巻はカウンターの前に、段ボール箱を置いた。底が、乾いた音を立てた。側面に、油性ペンで『黒沢美咲様 遺品』と書かれている。筆跡は、坂巻のものではない。もう少し、事務的ではない字。角が、わずかに丸い。
老田が水のコップを、坂巻の前に差し出した。
「水、一杯だけ、いただきます」坂巻は額の汗を、ハンカチで押さえた。「恐縮ですが、長居はしない方が、よろしいと、伺っておりまして」
「誰に」
「……存じ上げない番号から、電話がありました。昨夜、事務所に」坂巻のハンカチをしまう指が、震えた。「黒沢さんへの遺品は、明日の五時、必ずお届けしろ、と。遅れるな、と」
隼人と老田が、視線を交わす。
「あんた、脅されたのか」
「脅す、というほどでは」坂巻は苦笑した。口元は笑っていたが、頬の筋が、一度も緩まなかった。「けれど、弁護士を三十年やってきて、あれが脅迫以外の何と呼べるのか、私には分かりません」
隼人は箱を見下ろす。
「中身は、確認したか」
「目録は、取りました。業者と一緒に」坂巻は胸の内ポケットから、折り畳んだ紙を出した。紙の折り目は、何度も開き直した跡があり、角が指の脂で薄く透けていた。「衣類三点、アクセサリー二点、写真アルバム一冊、大学の卒業証書、携帯電話、それと──」
坂巻は、そこで声を落とした。
「革の、日記帳が、一冊」
隼人の心臓が、一度、跳ねた。
「日記」
「箱の、底です」坂巻は目を伏せた。「ここまで時間がかかったのは、その日記の扱いで、事務所内が割れたからです」
「割れた」
「燃やすべきだ、という意見が、ありました。前の所長の遺言のようなものでして」坂巻はコーヒーに、手を付けない。「私は、所長が亡くなった後、引き継いだ側です。燃やせ、と書かれた付箋が、箱に貼られていました」
「なぜ、燃やさなかった」
「読まないと、決めましたから」坂巻は顔を上げた。「読まなければ、遺品です。読めば、証拠になる」
隼人は、坂巻の目を見た。
この男は、知らない。中身は、知らない。ただ、自分が触れたものの重さだけを、知っている。三十年、書類を扱ってきた人間の、本能のようなものだった。
「受領の、サインを」
坂巻がクリップボードを差し出す。隼人は名前を書いた。筆圧で、下のカウンターに、凹みが残るほど強く。ペン先が、紙の奥で、何度も引っかかった。坂巻は受け取り、一度、小さく礼をした。
「お兄様は、優しい方だと、妹さんが事務所にいらっしゃった時に、何度もおっしゃっていました」
扉を開けながら、坂巻は振り返らずに言った。
「……妹が、来たのか」
「三年半前です。一度だけ」坂巻はドアベルを鳴らしながら、頷いた。「保管の、ご相談に」
扉が閉まった。
――
ジムの蛍光灯が、ジジッと一度、震えた。
隼人は段ボール箱の前に、立ち尽くした。
三年半前。美咲は、死ぬ半年前に、この弁護士事務所を訪ねていた。何かを、預けに行っていた。兄に言わず、一人で。
老田がカウンターから出てきて、箱の脇に、片手を添えた。
「開けるか」
「ああ」
隼人は膝をついた。リノリウムの床が、膝頭に、ひんやりと冷たい。ガムテープは、すでに一度剥がされ、上から丁寧に貼り直されている。爪で、ゆっくり剥がす。粘着が、ピリピリと鳴く。指先の震えを、呼吸で抑え込む。息を、吸う。吐く。吸う。
上から、衣類。薄い桜色のカーディガン。美咲が大学三年の冬に、自分の金で買ったもの。洗剤の匂いが、まだ微かに残っていた。畳んだ跡が、本人のものではない。業者の手だ。隼人は、生地の端を、親指で一度だけ撫でた。冬の部屋着にしていた頃の、妹の肩幅が、掌の記憶に戻った。
次に、アルバム。写真は、見ない。まだ、見る準備ができていない。脇に置く。
卒業証書の筒。携帯電話。バッテリーは、抜かれている。ビニール袋に入った、銀のピアス。耳たぶの冷たさを、不意に思い出した。
箱の底。
新聞紙が、一枚、敷かれていた。
その下に、黒い革の表紙。
隼人は、息を止めた。
持ち上げる。思ったより、重い。B5よりひと回り小さいサイズ。角が、擦れて白く毛羽立っている。表紙には、何も刻まれていない。ただ、右下の隅に、うっすらと指紋が残っている。彼女が、繰り返し、同じ場所を親指で押さえた跡だった。
開いた。
最初のページ。
『お兄ちゃんへ。これを読むなら、私はもういない』
隼人の喉が、鳴った。
続く一行。
『“先生”の言うことを、全部、信じないで』
手が止まった。
ページの紙質が、指先で冷たく感じる。インクは、青。万年筆ではない。普通のゲルペン。文字が、少しだけ、震えている。書き慣れていない手で、それでも、意識して一字ずつ、強く押しつけて書いた跡。ページの裏に、インクの滲みが、点々と抜けている。同じ言葉を、何度も書き直したのかもしれなかった。
隼人は、その一行を、もう一度読んだ。
三年前の夜、美咲は銃声の向こうで、兄に伝えようとした。「組織の──」の続き。あれは、敵対組織の名前ではなかった。
そして今、革の日記帳の一ページ目で、妹は、同じ警告を、残していた。
兄が、死体のふりをして三年、殴り続けた全ての夜を、妹は、死ぬ半年前から、見越していた。
隼人は、日記を、胸の前まで持ち上げた。ページの縁が、拳の傷口に触れて、微かに滑った。バンテージの下の血が、また、滲む気配がした。
――
老田が、押し黙ったまま、タバコを灰皿の上で消した。煙が立ちのぼらなかった。火を、点けていなかった。
「……隼人」
「ああ」
「あの封筒は」
隼人は、日記をカウンターの端に、静かに置いた。白い封筒の、ちょうど隣に。二つの紙束が、並んだ。三年前に死んだ妹からの、黒い表紙。昨日、“先生”から届いた、白い封。
時計が、五時二十分を指していた。
隼人は、白い封筒に、手を伸ばした。
指先が、封の糊に触れる寸前で、止まった。
『“先生”の言うことを、全部、信じないで』
妹の声が、耳の底で、三年ぶりに、言葉を足した。
隼人は、封筒を、握った。親指で、糊の縁を、一度だけ、撫でた。
「順番を、間違える」
呟きが、自分の喉から漏れた。
「すまん、オーナー」隼人は日記を脇に挟んだ。「二階、借りる。今夜は、下りてこない」
階段を上る足音が、錆びた手すりを、三度、鳴らした。
扉が閉まった。
カウンターの端で、白い封筒だけが、一つ、残された。