第2話
第2話
炎の熱が、頬を炙る。 玲司はベレッタのスライドに指を添えたまま、ガソリンと焦げたゴムの匂いの中を歩く。横転したリムジンのフレームが、つなぎ目で軋む。荷重を失った車体が、自分の重さに耐えかねて、ゆっくりと方向を変えていく音だ。中の呻き声は、まだある。日本語ではない、低い男の声。 鼻の奥に、別の匂いが滑り込んだ。 焦げた木材。焼けた漆喰。三年前の朝、玄関先のアスファルトに伏せた瞬間に吸い込んだのと、同じ組成。脳の奥で何かが、かちりと噛み合う。記憶のロックが外れる音。 止めろ。 玲司は短く唇を噛んだ。血の味。歯の裏側を舌で押す。痛みで現在に繋ぎ止める。今は、現場だ。回想は、現場のあとでいい。いつもそうしてきた。 インカムが鳴る。 「黒瀬、本線に残った二台がUターンした」 杏の声。冷静だ。彼女の声が乱れたところを、玲司は一度も聞いたことがない。 「予想内だ」 「次の罠は」 「芝公園の出口、地下駐車場ランプ。鋼線は仕込み済み」 「いつ動く」 「五分後。歩いて間に合う距離だ」 「リムジンの男はどうする」 「逃げない。脛が折れてる」 玲司は短く頷く。インカムの向こうの杏には見えない頷きだ。三年間で身についた、独り言の代わり。 五分。指先がベレッタのグリップを撫でる。湿気が金属に薄く膜を張っている。雨が来るな、と無関係に思った。雨は痕跡を流してくれる。今夜は、追い風だ。 玲司はクーペの方へは戻らず、リムジンと反対側の路肩、コンクリートの低い壁に背中を寄せた。壁は冷たい。背骨が、その冷たさを一瞬で吸い上げる。 焦げた木材の匂いは、消えない。 玲司は一度、目を閉じた。閉じても、消えない。三年間、何度も試した。逆に、深く吸い込んでみる。喉の奥が灼ける。肺の底に、見えない錆が沈殿していく感覚があった。 記憶のフィルムが、勝手に回りはじめる。
──三年前の春。 玄関のドアノブが、握ったときに少しだけ温かかった。前夜、莉央が手のひらで握りしめた残熱だ。「行ってきます」を言う前に、玲司は廊下の鏡で襟を直した。アイロンの折り目。美咲が朝のうちに当てたものだ。シャツの繊維が、首筋にまだ熱を持っている。 キッチンから、コーヒーの匂い。豆は昨日、商店街の焙煎屋で買った中煎り。美咲は深煎りを好まなかった。朝の苦みは、一日の輪郭をぼかす、と言って笑った人だった。 ろうそくは、冷蔵庫の奥に立てかけたまま。六本。莉央の年齢の数だけ。仕事を終えたら帰って、あの六本に火を灯す。約束。 玄関の鍵を閉めるカチリ、その音まで覚えている。 門扉を出て、三歩。 背中で、世界が割れた。 最初に来たのは光ではない。圧だった。空気が一瞬、固体になって背骨を突く。次に音が遅れて来た。低く、長く、地面の下から押し上げてくるような咆哮。三歩目の足が、どこにあるのか分からなくなった。 気がつくと、アスファルトに頬がついていた。 口の中に砂利。鉄の味。耳の奥で、何かの周波数だけが鳴っている。視界の右半分が灰色に詰まっている。それが煙だと気づくのに、たぶん十秒。十秒は、長い。 振り返った。 家が、なかった。 正確には、家のかたちをした瓦礫の山があった。屋根の梁が一本、空に向かって突き出している。莉央の自転車のハンドルが、玄関のあった位置に転がっている。前カゴに入れていたぬいぐるみのウサギが、半分だけ焼け焦げていた。片耳だけが、無傷のまま、風にわずかに揺れていた。その揺れ方が、莉央が眠るときの寝息のリズムに、よく似ていた。 美咲、と言った気がする。 莉央、とも。 声は出ていなかった。喉がうまく動かない。指を動かす。動く。腕を立てる。動く。膝を立てる。動かない。膝の皿が割れていた。それでも立った。立たないと、近づけない。近づかないと、二人がそこにいるかどうか、分からない。 炎の中に、踏み込んだ。 誰かが後ろから羽交い締めにした。近所の男だ。名前は知らない。男は何かを叫んでいた。サイレンが近づいていた。玲司は男の腕の中で、一度だけ、犬のような声を出した。それから、出さなかった。 火葬場の鉄扉が閉まる音。 低く、長い、あの咆哮と、よく似ていた。 ──翌週、玲司は元の上司の事務所のドアを叩いた。 「銃をくれ」 「やめておけ」 「銃をくれ」 「お前は、もう抜けたんだぞ」 「銃を、くれ」 三度目で、上司は黙って引き出しを開けた。ベレッタM9A3。スライドの動きが、油の馴染んだ良い音をしていた。 それからの三年、玲司は人間をやめた。 朝はランニング十二キロ。雨でも雪でも止めない。射撃場での弾着は一日三百発。脱包の癖、リロードの動線、左手のバランス、すべて新人時代に師匠・神楽坂が叩き込んだ手順を、もう一度ゼロから組み直した。神楽坂の癖を残す部分と、捨てる部分。三年かけて選別した。 食事は燃料。睡眠は整備。感情は、薬室に込めて、撃つたびに排莢した。 末端の名前を、一人ずつノートに書いた。三十七人。線で繋いだ組織図は、ピラミッド型ではなく、蜘蛛の巣に近かった。中央に、副頭。更に上に、頭目。三年で、八人を消した。遅い。それでも、神楽坂が褒めるはずだ、と一度だけ思って、自分で自分の頬を打った。 今夜の獲物は、八人目だ。
「黒瀬、二台、来てる」 杏の声が、回想を切る。 玲司は瞬きを一つ。視界が現在に戻る。横転したリムジンのフレーム、炎、煙、ガソリン、焦げたゴム。記憶の匂いと、現場の匂いが、ようやく分離した。分離したが、完全にではない。境界線の上で、二つの時間が薄く重なったまま、揺れていた。 「位置は」 「芝公園出口の、五百メートル手前。速度百八十」 「予定通りだ」 玲司はコンクリート壁から背を離す。脚に血液が戻る。痺れていた左の太ももを、軽く叩いた。三年前、爆風で割った膝の皿は、ボルトで繋いである。寒い夜には、その金属が脈打つ。今夜は、脈打っていた。 「鋼線のテンションは」 「正常。トリガーは赤外線。車高一メートル二十で発火」 「セダンの車高は」 「一メートル四十五。当たる」 「運転手は」 「先頭が田島、後続が室田。両方、神楽坂門下」 玲司は一瞬、口の動きを止めた。 神楽坂、と、杏は今、言ったか。 「……同期か」 「お前さんの、二期下」 「顔は」 「見る必要、あるか」 「ない」 ある。本当はある。だが、ないと言わなければ、引き金が重くなる。三年前から、玲司は「ある」を「ない」と言い換えて生きてきた。 炎の影に身を寄せ直す。煙が黒幕になる。視線を切る。バックミラー越しに見えていたあの八つのライトが、今は二つに減って、こちらへ滑り込んでくる。 玲司は左手で、胸ポケットの指輪を、布の上から押さえた。金属の輪郭が、心臓の真上で、ほんのわずかに冷たい。 「美咲」 返事はない。三年前から、ない。 「あと少しだ。今夜じゃない。だが、あと少しだ」 ヘッドライトが、ランプの奥から二対、近づいてくる。エンジン音が二つ、重なって、低く唸る。先頭のセダンが、出口の照明を受けて、車体の黒が一瞬だけ青く反射した。 速度、落とさない。 追走モードのまま、ランプに突っ込んでくる。 玲司は炎の影で、息を止めた。心拍、六十八。呼気を止めたまま、横隔膜の下に空気を押し込む。射撃場で繰り返した呼吸の型だ。 ベレッタの安全装置を、親指で外す。カチリ。指の腹が、その小さな振動を確かに拾った。 「三、二、一」 杏の声。 ランプの路面が、白く跳ねた。 鋼線が、二台のフロントタイヤを同時に切断した。 最初は、音がない。コンマ五秒後に、金属の悲鳴が遅れて届いた。タイヤのゴムが、ホイールから引き剥がされる。アスファルトを、車軸が直接削る。火花。先頭車が、左に流れる。後続車が、追突する。重なる。横転する。フロントガラスが、割れる前に、一瞬、月光を反射した。 それから、割れた。 ガラスが空中で粉になる音は、雨の音に似ていた。
二台が、もつれ合って炎の手前で止まる。 八台のうち、八台。 完全に、止まった。 玲司は炎の影から、ゆっくりと歩み出る。胸ポケットの指輪が、心臓の鼓動と一緒に、布の下で震えている。横転した本命のリムジンから、また呻き声。中の男は、まだ生きている。 ベレッタのスライドを、もう一度引いた。 弾倉、十五発。使うのは、たぶん、一発。 焦げた木材の匂いは、もう、しない。 代わりに、鉄の匂いがした。三年前と、同じ匂いだ。 玲司は、リムジンの方へ歩き出した。 一歩、一歩、約束に近づく足音だった。 助手席のドアが、内側から、軋んで開いた。 血まみれの男の手が、夜の空気を掴むように、伸びてくる。