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首都高レクイエム

第1話 第1話

第1話

第1話

タコメーターが赤い。 針は七千回転に張りついたまま、シフトアップの一瞬だけ僅かに落ちる。時速二百十キロ。首都高四号線、下り。深夜一時四十七分。バックミラーに八つのヘッドライト。左右二列、間隔は均等。訓練された走りだ。素人のカーチェイスとは違う。速度差を殺しきり、こちらが急ブレーキを踏んでも追突しない距離を保っている。プロだ。組織の教育を受けている。玲司は左手でハンドルを軽く叩いた。指の関節が、鈍く痛む。三年間、毎夜握り続けた痛みだ。 玲司は短く息を吐く。 窓の内側に滲むのは、アスファルトの焦げた匂い、自分の汗、ガンオイル。助手席のシートに一つ、冷たい金属の輝き。プラチナの結婚指輪。妻の左手から外されたそれを、三年間、視界の端に置き続けてきた。 「四号は霞が関で降ろす」 インカムの奥で、女の声が短く言う。協力者の杏。顔は見たことがない。 「罠の位置は」 「三号下り、芝公園ランプ。スパイクとワイヤーは仕込み済み。合図で作動する」 「標的のリムジンは」 「いま大手町。先頭にベンツ二台、後方に四台、中央が本命」 玲司はアクセルをさらに踏む。針がもう一段、右へ振れた。黒塗りのセダン群が追いすがる。これは逃亡ではない。誘導だ。獲物を罠の上に載せるための、長い助走。 ダッシュのモニターに、赤い点が一つ。今夜仕留める男の座標。 「黒瀬」 「なんだ」 「生きて帰れよ」 「帰る理由が、もう家にない」 通信を切る。

三年前の春、朝食のトーストは少しだけ焦げていた。 窓から入る光は柔らかく、キッチンの床に長方形の模様を描いていた。コーヒーメーカーが低く唸り、その蒸気が換気扇の方へ流れていく。冷蔵庫のドアには莉央が描いた家族の絵が磁石で貼ってある。父と母と娘、三人が手を繋ぎ、その上に不格好なハートが一つ。 美咲がキッチンで笑う。彼女はエプロンの紐を結び直しながら、鼻歌を歌っていた。髪をまとめるたび、うなじの小さなほくろが覗く。玲司はそれを見るたびに、何度見ても飽きないと思った。娘の莉央が六歳のろうそくを吹き消す。ケーキは冷蔵庫の中。仕事が終わったら一緒に食べようと決めていた。莉央は小さな手のひらでろうそくの煙を追いかけ、笑いながら、「パパ、ぜったい早く帰ってきてね」と言った。玲司は「絶対だ」と答えた。約束を守れたことは、それが最後になった。 玄関を出た瞬間、背中に熱風。空気が一瞬、固体になった。鼓膜の内側が焼かれるような圧。光と音が一緒に来て、時間が裂けた。振り返るより先に、玲司はアスファルトに叩きつけられていた。鉄の味。耳が遠い。遠く、サイレンのような何かが鳴っていた。自分の喉から出ている声か、街のどこかで鳴っている警報かも分からなかった。指先を動かす。動く。腕を動かす。動く。這うようにして振り返った。目に映ったのは、自宅のあった場所が、なくなっている、という単純な事実だけだった。木材が剥き出しの内臓のように空を向いていた。莉央の自転車のハンドルだけが、玄関のあった位置に転がっていた。美咲の名前を叫んだ気がする。声は出ていなかった気がする。 ろうそくは、吹き消せないまま融けた。 ──その日から、玲司は「黒瀬玲司」という名前の人形を、殺し屋として運用することにした。食事は燃料。睡眠は整備。感情は弾倉。葬儀の記憶はほとんどない。黒い服を着て、頭を下げて、線香の煙を吸い込んだ。周囲が何を言ったか思い出せない。ただ、火葬場の金属製の扉が閉まる、あの低い音だけが、今も耳の奥に残っている。仇の名前を調べるのに、一ヶ月かかった。組織の名前を掴むのに、半年。そこから先は、早かった。元の職場の上司に連絡し、銃を手に入れ、訓練を再開した。人間としての玲司は、トーストと一緒に焼けた。 「左車線、白のGT-R。オロチの先導車だ」 杏の声が戻る。 「無視しろ」 「追突される」 「されない。先導は泳がせる側だ。殺す気があるなら、もう撃ってる」 予想通り、GT-Rが真横に並び、速度を落とす。運転席の男がこちらを見る。無表情。かつて同じ訓練場で銃を撃った男だ。名前は、思い出したくない。玲司は視線を返さない。 「……黒瀬、顔見知りか」 「昔の話だ」 七年前、同じ訓練場の同じ射撃レーンで、あの男と隣同士だった。弾着のリズムが玲司と似ていた。違うのは、彼が引き金を引くときの目だ。躊躇がなかった。玲司にはまだ、あった。今はどうか。分からない。確かめたいとも思わない。 クーペのタイヤが路面のつなぎ目を叩く。継ぎ目ごとに、車体の底が微かに跳ねる。その衝撃が背骨を伝い、後頭部で止まる。三年間、この振動で眠ったことは一度もない。いつも目を開けていた。眠ることは、あの朝を夢に見ることだったから。振動が背骨を通って、脳の奥に響く。ベレッタM9A3のグリップ、薬指の位置。師匠に教わったときのまま、一ミリも変わっていない。 指輪が、シートの上で少し転がる。 玲司は左手を伸ばし、元の位置に戻した。冷たい。体温を持たない金属は、三年間ずっと冷たいままだ。 「芝公園まで、あと二分」 杏が言う。 「後続は」 「八台。編隊を崩してない」 「崩させてやる」

霞が関ジャンクション。三号線下りへ合流する。標識に「芝公園」。白く光る。 バックミラーの八つは、寸分違わずこちらに追従してくる。指揮官は後方の六号車。経験上、そう読める。 「杏、標的中央車、位置確認」 「リムジン、ベンツの最後尾。車間十五メートル」 「護衛は」 「前後合わせて八名。運転手含め十名」 玲司は右ウインカーを短く二回、左に一回。暗号。杏のモニターで、芝公園ランプのスパイク展開が予約される。 「展開、三十秒後」 「三十秒」 鼻から吸って、口から吐く。四カウント、六カウント。心拍が七十を切る。視界が広がる。 アクセルを踏み込む度に、座席のスプリングが僅かに軋む。その音を玲司は耳に集める。集中しているとき、細部が濃く見えてくる。タコメーターの針の震え、インカムのノイズの底にある杏の呼吸、指輪が助手席の布地の上を転がる、ほんの小さな音。そのすべてが、均等に遠く、均等に近い。 ランプが見える。 「黒瀬、一つ確認したい」 「なんだ」 「あんた、本当に今夜で終わらせる気か」 「終わらせる気はない」 「は」 「末端を一人ずつ潰していく。今夜の男は、八人目だ。全部で三十七人いる。三十七人目が組織の副頭だ。そこまで行けば、首が見える」 「三年で八人。遅いな」 「遅い。急ぐ」 玲司はギアを落とす。エンジンブレーキ。タイヤが軽く鳴く。標的のリムジンが、こちらの走行を読んで距離を詰めてくる。そう誘導した。スパイクは、リムジンの真下で作動するように計算してある。 ランプ入口、残り百メートル。 助手席の指輪が、振動で小さく跳ねる。玲司はそれを指で押さえた。 「美咲」 返事はない。 「あと少しだ」 ランプへ切り込む。タイヤが悲鳴を上げ、車体が遠心力で外へ流れる。玲司はカウンターを当てる。追随してきた八台のうち、六台はそのままランプへ。二台は本線に残った。編隊が割れた。本線に残った二台は、ランプへ進んだ味方を見捨てた。指揮官の判断が、この瞬間に露出する。こちらを追うか、仲間を助けるか。彼らは前者を選んだ。訓練された判断だ。訓練された判断は、予測できる。 「杏、スパイク」 「作動」 「三、二、一」

耳をつんざく破裂音が連続した。 四輪のタイヤが同時に裂ける、あの低く重い破裂。続いて金属がアスファルトを削る音。横滑り。傾き。白い火花。リムジンが横に倒れ、滑りながらガードレールに衝突する。ガラスが散る。護衛のベンツ二台が後続車に追突される。炎。黒煙。玲司はクーペを路肩に寄せ、エンジンを切らないまま降りた。 助手席の指輪を、胸ポケットに入れる。 ベレッタのスライドを引く。弾倉、十五発。 横転したリムジンの中から、呻き声。 ガソリンの匂いが、焦げたゴムの匂いに混じって流れてくる。炎の向こうで、誰かが何かを叫んでいる。日本語か、別の言語か、区別がつかない。玲司には必要のない音だ。必要なのは、標的の体温が、まだあるかどうか、それだけだ。 玲司は、夜の中へ歩き出した。バックミラーの八つのライトは、六つになっていた。まだ、終わっていない。

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