Novelis
← 目次

首都高レクイエム

第3話 第3話

第3話

第3話

血まみれの手が、夜気を掴み損ねる。 指が震え、親指の爪が割れている。中指の関節が、不自然な角度に折れ曲がっていた。玲司はその手を一瞥したまま、ベレッタの銃口を下げない。罠の可能性は、まだ消えていない。爪の割れ目から滲んだ血が、指紋の渦に沿って、黒く乾き始めていた。 助手席ドアの内側に左足を掛け、右手で銃を、左手でドア枠を掴む。蝶番が軋んだ。金属片が一つ、アスファルトに落ちる。硬い音。掌に伝わる鉄の冷たさが、指先の感覚を研ぎ澄ました。呼吸を、鼻だけで浅く保つ。煙は、肺の奥まで入れない。 車内、血の臭いと尿の臭いが混ざっていた。 男は、ハンドルから横向きに投げ出された姿勢で、天井だった面に背中を預けている。スーツの内ポケットから、折り畳まれた拳銃のホルスターが覗いた。玲司は腕だけ差し入れ、それを抜く。サイレンサー付きのグロック19。弾倉を抜き、薬室の一発を排出。スライドを引き切り、ガラス片の散る路面に投げる。金属が転がる、乾いた音。薬莢が、炎の反射で一瞬だけ金色に光った。 「立て」 男の目が、焦点を合わせられずに揺れた。 「立てないなら、引きずり出す」 玲司は襟首を掴み、一気にドアの外へ引き抜いた。男の右脚がドア枠に絡む。構わず引いた。アスファルトに背中を打ち付ける鈍い音。男が呻く。炎はすぐそこだ。ガソリンの蒸気が、熱で路面の輪郭を歪ませている。奥歯の裏で、鉄の味がした。自分の頬を噛んでいる、と気づいたのは、数秒遅れてからだった。 時間がない。

玲司は男を担ぎ、炎から十メートル離れたコンクリート壁の陰に運ぶ。男は四十代後半、肩幅が広い。重い。担いだ瞬間、腰が鳴った。壁際に落とす。後頭部がコンクリートにぶつかり、うめき声が一段低くなった。 「財布」 ジャケットを引き開ける。内ポケット、ウォレット一つ、携帯二台、封筒一つ。携帯はSIMを抜いて踏みつぶした。踵の下で、プラスチックが軋み、基板が粉になる感触が伝わった。ウォレットを開く。運転免許証、氏名欄「宍戸雅彦」。五十二歳。組織の登録名と一致。八人目、確定。 指先の震えが、免許証の角に伝わった。七人の顔を、順に思い出す。一人目、品川の倉庫。二人目、横浜の港湾。三人目は、自分の手ではなく、別の人間が先に殺した。残り一人。それが、今、目の前にいる。 「宍戸」 男の瞼が、名前に反応して開いた。濁った白目。瞳孔が、夜の中で過剰に開いている。薬か、脳震盪か、どちらでもいい。必要なのは、舌が動くかどうか、それだけだ。 「一度だけ聞く」 玲司は片膝をつき、男の顎をベレッタの銃口で下から支える。金属が前歯の裏に当たる、小さな音。男の下唇に、唾液と血が糸を引いていた。 「三年前の春、南青山、黒瀬邸。お前のチームが仕掛けた」 男は答えない。鼻から荒い息。吐息の湿度が、銃身に薄い曇りを作った。 「覚えてるはずだ。名簿に、お前の名前がある」 ジャケットの内側から、折り畳んだA4を出す。印刷された組織図。宍戸雅彦、爆発物担当課、当時係長。赤線。玲司の字だ。三年間、何度も折り直した紙は、折り目の交差点が既に破れかけていた。 炎が、背中を押す。リムジンの内装が焼け始めた。あと三分で、燃料タンクに火が回る。 「答えろ」 男の顎の下で、ベレッタが一度、浮いた。 「……爆薬を、仕掛けた」 声。低い、割れた声。 「認めるんだな」 「仕掛けた。俺の班が」 「起爆時刻は」 「朝、七時十二分。門扉の圧力センサーで」 玲司の喉の奥が、熱くなった。七時十二分。三年間、時計を見るたび、その数字を避けてきた。駅の時計、電子レンジの表示、車のダッシュ。七時十二分だけは、意識的に視界の端に外してきた。男の口から、その数字が直接出た。左手の指が、一瞬、銃把の上で震えた。引き金が、一ミリ動けば落ちる。 娘の、登校用の靴下。玄関で履かせ直した、左右非対称の柄。妻の、まだ温かかったコーヒー。門扉を開けた、その瞬間の、白い光。全部、一秒で、瞼の裏を通り過ぎた。 「よく、認めた」 玲司は言った。 「殺しやすくなった」 男が、笑った。 笑ったというより、顔の筋肉が不随意に痙攣した、に近い。唇の端から血の泡が零れる。玲司は動かない。 「何が、おかしい」 男は答えない。咳をした。血が飛び、アスファルトに、黒く散る。 「何が、おかしいと聞いている」 自分の声が、低い。炎の音が背後で膨らむ。燃料タンクが、熱で膨張している音だった。内臓が、熱と怒りの間で、区別を失っていく。

男は、咳を止めた。口元を自分の袖で拭う。その仕草だけが、奇妙に整っていた。まるで、商談の前に、ネクタイの結び目を直すような動きだった。 「黒瀬さん」 名前で呼ばれた。玲司は瞬きしない。 「あんたを、待ってた」 「何の話だ」 「三年、待ってた。あんたの名前が、いつ俺の所に辿り着くか。ずっと、待ってた」 男の声は、独り言に近かった。視線はアスファルトの一点を、見ているようで見ていない。自分の掌の中の、見えない時計を、まだ読んでいるような目だった。 「爆薬を仕掛けたのは、俺だ。それは、間違いない」 「だろうな」 「だが」 男は、ゆっくりと顔を上げた。初めて、玲司と視線が合う。濁った瞳の奥に、別の色があった。恐怖ではない。諦念でもない。もっと古い、疲れた色だった。長く隠し持った秘密が、ようやく誰かの手に渡る、その直前の表情。 「殺したのは、俺じゃない」 玲司の指先が、引き金の上で、止まった。 空気の密度が、一段、変わった気がした。炎の熱が、一瞬、遠のいて聞こえた。耳の奥で、自分の血の巡る音だけが、やけに大きい。喉が、乾く。唾を飲もうとして、飲めなかった。舌の根が、上顎に張り付いている。 「……なに、を言ってる」 「仕掛けただけだ、俺は。起爆スイッチは、別の人間が押した」 「同じことだ」 「違う」 男の声は、弱いのに、真っ直ぐだった。血の泡が、言葉の輪郭を少しだけ濁らせている。 「仕掛ける場所も、時刻も、センサーの位置も、全部、上から降ってきた指示だ。俺の上司じゃない。本部からの、直接命令書だ。──あんたの顔写真と、家の見取り図と、奥さんと娘さんの行動表まで、全部、ついてた」 玲司の指の腹が、銃把の溝に食い込んだ。握力が、無意識に強まる。掌に、冷たい汗が滲んでいた。行動表、という三文字が、耳の内側で、何度も反響する。妻が火曜の朝に寄るパン屋、娘の水曜のピアノ、土曜の朝の家族の散歩道。日常の、どの一頁も、知らない誰かの手で、既に写されていた。 「あんたの事を、よく知ってる人間が書いたんだ。ずっと、近くにいた人間だ」 近くにいた、という言葉が、耳の内側を、ゆっくりと裏返していく。誰だ。妻の葬儀に並んだ顔、娘の担任、黒瀬家に出入りしていた運転手、古参の秘書、顧問の会計士──顔が、次々と、夜空に浮かんで、消えた。どの顔も、あの朝、玲司の肩を抱いて、悔やみの言葉を口にした顔だった。 「誰だ」 「名前は、言えない」 「言え」 ベレッタの先端が、男の眉間を押す。金属が皮膚を凹ませた。白い額に、赤い円が刻まれる。 「言えば、俺はここで死ぬ。言わなくても、どうせ、死ぬ」 男は、目を閉じた。睫毛の縁に、汗か涙か、区別のつかない滴が溜まっていた。 「だが──あんたには、今、知っておいてほしい」 炎が、後ろで一段、高く上がった。熱風。男の額の汗が、赤く反射する。 「黒瀬さん。あんたは、三年間、泳がされてた。末端だけを、一人ずつ、安全に消せる位置に置かれてた。あんたがここまで辿り着くのを、誰かが、ずっと、上から見てた」 「誰が」 「……」 男の唇が、何かの形に動いた。 子音が一つ、母音が一つ、確かに、形になろうとした。玲司の耳は、それを拾うために、炎の音を、意識の外へ押しのけた。 音は、出なかった。

遠く、夜の向こうで、低い音が生まれた。 ローター音。 まだ、距離はある。だが、確実に、こちらへ向かって近づいている。 玲司は顔を上げない。男の唇を、見ている。唇の形だけが、音を失ったまま、まだ何かを言おうとして、震えていた。 「もう一度、言え」 男の口は、もう動かなかった。胸が一度、大きく上下し、そこで止まった。ベレッタの銃口の下で、顎の重みが、ふっと増す。 「……おい」 頸動脈に、指。脈、なし。 玲司は、銃を下ろした。 初めて、銃口を、標的から外した。 胸ポケットの指輪が、心臓の真上で、三年間と同じ温度で、冷たい。 空の音が、近づいてくる。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!