第2話
第2話
動かなかった。
鷹城の声が雨に溶ける前に、一真は左足を半歩引いた。逃走経路の確認。背後の路地は十二メートルで行き止まり——排水口に戻るしかない。だが追跡班がそこまで来ている。前方はSUVが塞いでいる。詰みに近い。
「乗れ、と言った」
鷹城が繰り返す。声のトーンは変わらない。七年前と同じだ。作戦開始三十秒前の、あの平坦な声。感情を排した、純粋な情報伝達。一真の身体が反射的に従おうとする。四年間叩き込まれた服従反射。それを理性で押し殺した。右手の拳を握り締める。爪が掌に食い込む痛みだけが、今この瞬間の自分を繋ぎ止めていた。
「なぜ俺の居場所がわかった」
声が掠れていた。三ヶ月ぶりにまともな会話をする喉は、自分の言葉すらうまく通さない。
「お前の逃走パターンは俺が教えた」
鷹城は一歩も動かない。雨がジャケットの肩を叩き、水滴が生地を伝って落ちる。「地下水路を使い、地上に出たら六ブロック以内の死角に潜伏。お前はそうするように訓練された。俺がそう訓練したからだ」
否定できなかった。事実だ。一真の逃走技術の基礎は、すべて鷹城から叩き込まれたものだ。つまり鷹城にとって、一真の動きを予測することは自分の教材をなぞるのと同じだった。
背後の無線音がさらに近づく。雨に混じって靴音が聞こえた——アスファルトを蹴る、統率された複数の足音。あと二分もすればこの路地に追跡班が到達する。選択肢が削られていく。
「ファイルの中身、見た」
鷹城の言葉に一真の呼吸が止まった。
「何を——」
「南郷が死ぬ前に、コピーを俺にも送ってきていた。暗号化されたまま一年間放置していた。先月、部分的に復号できた」
鷹城の目が一真を捉える。雨粒がまつ毛に溜まっているのに、瞬きもしない。
「お前の無実は分かってる。お前は南郷を殺していない」
その言葉が鳩尾を殴った。三ヶ月間、誰にも言ってもらえなかった言葉だ。聞きたくて、だが聞けば判断が鈍ると知っていた言葉。膝の力が一瞬抜けた。壁に肩をつけて堪えた。コンクリートの冷たさが濡れたシャツ越しに背中を刺す。弱みを見せるな。まだ信用するには早い。
「乗れ。話は車内でする。九十秒後にここは包囲される」
鷹城が後部ドアを開けた。車内灯は消されている。一真は暗い車内を見た。罠かもしれない。だが路地に留まれば確実に捕まる。最悪の選択肢と次善の選択肢。一真は走った。三歩でSUVに飛び込み、ドアを閉めた。鷹城が運転席に滑り込む。エンジンが目覚める音はほとんどしなかった。電動だ。SUVが静かに路地を抜け、表通りに滑り出した。
バックミラーに青い光が映る。パトカーが一台、路地の反対側に停まったところだった。十秒の差。
「……ぎりぎりだな」
鷹城が呟いた。独り言のような声。一真は後部座席で身体を沈め、窓の下に頭を隠した。表通りの信号が車内に赤い光を流し込んでは消える。心臓が肋骨を殴り続けている。
「《グレイヴ》という名前に聞き覚えは」
鷹城が前を向いたまま言った。信号が青に変わる。SUVが加速する。
「ない」
「防衛省内部に存在する非公式の処理班だ。暗号名《グレイヴ》——墓。不都合な人間を消す。経歴を消し、信用を消し、必要なら物理的に消す。南郷はこの組織の存在を掴んで、証拠を集めていた」
一真の頭の中で断片が繋がり始めた。南郷が最後の数ヶ月、異様に慎重になっていたこと。連絡手段を何度も変えたこと。使い捨ての端末を一週間で廃棄し、会話は必ず雑踏の中でしか交わさなかった。あれは偏執ではなかった。実在する脅威に対する合理的な防衛だった。
「南郷のファイルには《グレイヴ》の指揮系統が記録されている。だが完全な復号には鍵が要る。ファイル本体とは別の物理キーだ」
「どこにある」
「横須賀。海軍施設の跡地に偽装された廃棄データセンター。地下二階の金庫に保管されている。南郷が復号前に隠した」
鷹城がハンドルを切る。首都高の入口が近づいていた。料金所のカメラを避けるように、手前で側道に逸れた。この男も追われているのか。あるいは、追われることを前提に動いている。
一真は防水ポーチの中からマイクロSDカードを取り出した。指の間に挟んで、天井の微かな光に透かす。二センチ四方の板。南郷の命の重さがこの中に圧縮されている。
「一つ聞く」
一真は座席の下に手を伸ばした。指先が触れたのは冷たい金属。座席下に固定されていた拳銃——鷹城が置いたものか、あるいは元からあったものか。グリップを握り、安全装置を外した。乾いた金属音が車内に響く。銃口を鷹城の後頭部に向ける。鷹城はバックミラー越しにそれを見ていた。表情は変わらない。
「三ヶ月前、俺を売ったのがお前じゃない証拠は」
声は平坦だった。感情を殺した。震えさせてはいけない。銃を持つ手が震えれば、それは撃てない合図だ。
鷹城は速度を落とさなかった。側道の街灯が一定間隔で車内を照らしては翳る。明、暗、明、暗。鷹城の横顔がストロボのように断片的に浮かぶ。
「証拠はない」
鷹城が言った。
「俺がお前を売っていないという証拠は、今この時点では存在しない。三ヶ月間消えていた人間の潔白を、言葉だけで証明する方法を俺は知らない」
正直な答えだった。嘘をつく人間の答え方ではない。だがそれは、嘘をつくのが上手い人間の答え方でもある。一真はグリップを握る力を緩めなかった。
「だが一つだけ言える」
鷹城がバックミラーから目を切り、前方に視線を戻した。
「お前を消したい人間が、お前を車に乗せて横須賀の情報を渡す理由がない。俺が敵なら、路地で撃てば済んだ話だ」
論理は通る。だが論理で人を信じた結果が、三ヶ月の逃亡だった。南郷を信じた。上層部を信じた。組織を信じた。全部裏切られた。信じるという行為そのものが、一真の中で壊れていた。
銃口は鷹城の後頭部に据えたまま、一真は問うた。
「横須賀に行って、復号キーを手に入れる。それからどうする」
「ファイルを復号する。《グレイヴ》の全貌を暴く。お前の冤罪を晴らす。それから——」
鷹城が一瞬、言葉を切った。首都高の高架が頭上を覆い、雨音が消えた。エンジンの微かな唸りだけが車内に満ちる。
「それから、中身次第では、もっと大きな問題が出てくるかもしれない」
「もっと大きな問題」
「南郷が命を懸けた理由だ。単なる冤罪の証拠なら、ここまでの隠し方はしない」
沈黙。車が高架下を抜け、再び雨が屋根を叩き始めた。一真は銃を下ろさなかった。だが引き金にかけた指の力が、わずかに緩んだ。自分でも気づかないほど微かに。
鷹城がウインカーも出さずに車線を変えた。バックミラーを確認している。尾行を警戒する目の動き。プロの動作だ。視線の移動に無駄がない。かつて一真が何百回と見た、あの正確さだった。
「横須賀まで二時間。その間、銃はそのまま構えていろ。信用できないなら、それが正しい」
一真は答えなかった。
窓の外を雨が流れていく。東京の灯りが水滴に歪んで、赤と白の光が溶け合っている。三ヶ月ぶりに座った柔らかい座席が、身体の奥に溜まった疲労を一気に引き出そうとしていた。地下水路の湿った床と、公園のベンチと、ビルの屋上。この三ヶ月で眠った場所はすべて硬く冷たかった。眠るな。目を閉じるな。この男を信じるな——まだ。
だが銃口の先にある後頭部に、かつて背中を預けた男の輪郭が重なる。七年前、最初の実戦で一真が凍りついたとき、鷹城は何も言わずに前に出た。敵の銃弾を三発受けて、それでも立っていた。「最強の盾」。その異名は伊達ではなかった。あの背中を、一真は一度も疑ったことがなかった。
鷹城が静かに言った。
「復号キーの保管場所には、《グレイヴ》の実働部隊が先に展開している可能性がある。二十人規模。全員が特殊戦闘訓練済みだ」
銃を握る手に力が戻った。戦闘。それなら一真の領分だ。信用の問題は棚上げできる。目の前の敵を倒す。それだけなら、壊れた信頼は必要ない。
「一人で突入するつもりだったのか」
「お前が来なければ、そうするしかなかった」
鷹城の声に、初めてわずかな感情が混じった。安堵ではない。覚悟の輪郭が少しだけ変わった、その程度の揺れ。だがその微かな揺れを、一真は聞き逃さなかった。この男がどれほど感情を押し殺すかを、誰よりも知っている。
雨が叩く。SUVは南へ走る。一真は銃を構えたまま、暗い車窓に映る自分の目を見た。三ヶ月前とは違う目だ。何かを信じる目ではない。何かを確かめに行く目だった。