Novelis
← 目次

灰色の墓標《グレイヴ》

第1話 第1話

第1話

第1話

足音が三つ、増えた。

柊一真は地下道の暗がりを走りながら、背後の気配を数えた。さっきまで二人だった追跡班が、合流して五人になっている。靴音の反響でわかる。革靴が二、戦闘靴が三。公安の捜査官に加えて、別の部隊が投入された。革靴組は歩幅が短い——デスクワーク主体の捜査官だ。だが戦闘靴の三人は違う。足音の間隔が均一で、呼吸のリズムが乱れていない。訓練を受けた人間の走り方だった。おそらく機動隊からの増援か、あるいはもっと上の階層から降りてきた部隊か。いずれにしても、追跡の本気度が一段上がったことを意味していた。

息が上がる。三ヶ月前の自分なら、この程度の距離を走っても呼吸は乱れなかった。だが今は違う。まともな食事を最後に摂ったのがいつだったか思い出せない。路上で眠り、残飯で繋いだ九十日間が、かつて特殊部隊員だった身体を確実に削っている。太腿の筋肉が悲鳴を上げている。視界の端がちらつく。低血糖の兆候だ。倒れるなよ、と自分に命じた。ここで倒れたら二度と立ち上がれない。それは身体の話ではなく、人生の話だ。

地下道の分岐。右は行き止まり。三日前に確認済みだ。左に折れ、二十メートル先の排水口を目指す。東京の地下水路は一真にとって最後の逃走路だった。公安が地上の監視カメラを使えないこの空間だけが、わずかな猶予をくれる。天井から染み出した水滴が首筋に落ちた。冷たさに一瞬だけ意識が研がれる。壁面のコンクリートは黴と鉄錆の匂いが染みついていて、指先で触れるとざらついた粉が付着した。この地下道の構造は頭に入っている。九十日間、追われながら覚えた東京の地下地図。それだけが、組織の人員と技術に対抗できる唯一の武器だった。

腹に巻いた防水ポーチが肌に食い込む。中身は一枚のマイクロSDカード。死んだ戦友——南郷誠一が、命と引き換えに残した極秘ファイル。暗号化されていて中身は読めない。それでも手放さない。これだけが、俺が殺していない証拠に繋がる唯一の糸だ。走るたびにポーチが腹の皮膚を擦り、薄い痛みが走る。だがその痛みが、中身が無事であることの証明だった。失くすくらいなら死んだ方がましだ。南郷がそうしたように。

足音が近づく。速い。こちらの体力が落ちていることを見抜かれている。

排水口の鉄格子に手をかけた。錆びたボルトは先週のうちに緩めてある。一本目、二本目。指先が悴んで思うように動かない。ボルトの頭が爪の間に食い込んで、鈍い痛みが指の付け根まで伝わった。三本目を外した瞬間、背後で金属音が弾けた。

警告射撃。コンクリート壁に火花が散る。耳鳴りが頭蓋の中で反響し、一瞬、平衡感覚が揺らいだ。地下道で発砲するとは正気じゃない。跳弾の危険を無視してでも止めたいということだ。つまり、上から「生きて確保」ではなく「逃がすな」に命令が変わった。

「柊一真、停止しろ!」

声が地下道の壁面に反射して二重三重に重なる。若い声だ。緊張で上擦っている。聞こえないふりをした。格子を引き剥がし、身体を押し込む。肩幅ぎりぎりの排水管に上半身が入ったところで、左足首を掴まれた。太い指が骨を圧迫し、引き戻そうとする力が加わる。

蹴った。踵を相手の手首に叩き込む。骨を打つ感触。くぐもった呻き声が背後で弾けた。手が離れる。そのまま管の中を匍匐前進で進んだ。背後から怒号が追いかけてくるが、この口径の排水管に防弾ベストを着た人間は入れない。

膝が水に浸かる。冷たい。四月の雨水が地下に溜まって、錆の匂いと一緒に管の中を流れていた。水温は体温より遥かに低く、膝から下の感覚が急速に消えていく。暗闇の中を腕だけで進む。肘の皮が剥けて、汚水が傷口に沁みた。痛覚はとっくに鈍くなっている。三ヶ月も追われ続ければ、痛みの閾値は嫌でも上がる。管の内壁に頬が擦れるたび、冷たい金属の味が唇に広がった。暗闘の中で自分の呼吸音だけが耳に残る。吸って、吐いて。吸って、吐いて。それだけに意識を集中する。考えるな。進め。

管が合流地点で太くなった。身体を回転させて仰向けになり、天井のハッチを押し上げる。重い。腕が震える。肩関節が軋み、指の関節が白くなるほど力を込めた。錆びた鉄の粉が顔に降りかかり、目を閉じて息を止めた。三度目の力でようやく開いた。雨の匂いが流れ込む。地上の空気は地下とは違う。排気ガスと濡れたアスファルトと、どこか遠くの飲食店の残り香が混ざった、東京の夜の匂いだった。

路地に転がり出た。

膝をついて吐いた。胃液しか出ない。苦い液体が喉を焼き、鼻の奥まで酸が込み上げる。冷たい雨が頬を打ち、こめかみから流れた血を薄めて地面に落とす。四月の東京は底冷えする。濡れた衣服が体温を奪い、歯の根が噛み合わなくなった。両手を地面についたまま、自分の影を見下ろした。街灯の薄い光に照らされた水溜まりに映る顔は、三ヶ月前の自分とは別人だった。頬は削げ、目の下には黒い隈が刻まれ、伸び放題の髪が額に貼り付いている。

立ち上がる。壁に手をついて。

「……まだ動ける」

声に出したのは自分に言い聞かせるためだ。嘘でもいい。身体が動く限り、止まるわけにはいかない。止まった瞬間に全てが終わる。南郷の死が無駄になる。冤罪が確定する。誰かが——南郷を殺し、一真に罪を着せた誰かが、何食わぬ顔で生き続ける。それだけは許せなかった。怒りが身体を動かす最後の燃料だった。

ビルとビルの隙間、幅一メートルにも満たない路地。頭上には非常階段の鉄骨が雨を遮り、足元はひび割れたアスファルトに水溜まりが点々と光る。ここは新宿の裏手——繁華街の喧噪は通り二本向こうで鳴っているのに、この路地には人の気配がない。酔客の笑い声と低音の効いた音楽がくぐもって聞こえるだけで、自分がいるこの数メートルの空間だけが、夜の街から切り取られたように静かだった。追跡班がこの出口を把握しているかどうか。賭けだった。

防水ポーチを確認する。浸水なし。SDカードは無事だ。指先でカードの輪郭をなぞり、存在を確かめる。二センチ四方の薄い板。この中に何が入っているのか、一真自身にもわからない。だがこれのために南郷は死に、これのために一真は九十日間逃げ続けている。

三ヶ月前の夜を思い出す。南郷から届いた最後のメッセージ。『ファイルを託す。俺に何かあったら、中身を世に出せ』。あの夜、画面に浮かんだ文字を見たとき、冗談だと思った。南郷は昔からそういう男だった。大袈裟に言って笑いを取る。だが今回は違った。その六時間後、南郷は頭を撃たれて死んだ。自宅マンションの書斎で、椅子に座ったまま。まるで誰かと向かい合って話していたかのような姿勢で。そして現場に残されていたのは、一真の指紋と偽造された通話記録。完璧な冤罪の構図。一真が知らせを受けたのは現場検証の三十分後で、その時点で既に逮捕状が出ていた。準備されていたのだ。最初から。

誰がやったのかはわからない。だがファイルの中に答えがある。南郷はそう確信していた。暗号化を解く鍵さえ見つかれば——

無線の音。遠い。だが確実に近づいている。追跡班が地上ルートで回り込んできた。休んでいる時間はない。

一真は路地の奥へ歩き出した。右足を引きずっている。排水管で膝を打ったらしい。痛みは感じない。感じている余裕がない。壁に右手を這わせながら、一歩ずつ進む。指先が触れるレンガの凹凸が、暗闇の中で唯一の道標だった。

雨脚が強まる。四月の冷雨が視界を白く煙らせる中、一真は角を曲がった。次の隠れ場所まで六ブロック。地下鉄の始発まであと三時間。それまで身を潜める場所を——

足が止まった。

路地の出口を、黒いSUVが塞いでいた。

エンジン音はしない。ヘッドライトも消えている。雨の中に黒い塊がただ在る。フロントガラスを叩く雨粒だけが、車体が実在する物であることを証明していた。一真は反射的に半歩下がり、背後を確認した。まだ追跡班は来ていない。だがこのSUVは——追跡班の車両じゃない。公安はセダンを使う。民間にしては停め方が異常だ。路地の幅ぴったりに、一センチの隙間もなく出口を塞いでいる。偶然ではない。待ち伏せだ。

全身の筋肉が戦闘態勢に切り替わった。疲労が一瞬だけ遠のく。アドレナリンが最後の備蓄を放出しているのがわかった。長くは持たない。

運転席のドアが開いた。

降りてきた人影は、一真より頭半分高い。黒いジャケットに短く刈った髪。顔に見覚えがあった。いや、見覚えどころじゃない。この歩き方、この間合いの取り方。重心を低く保ちながら、相手の射線に体の正面を晒さない動き。全身が記憶している。

鷹城玲。

元上官。かつて「最強の盾」と呼ばれた男。

七年前、一真が特殊部隊に配属されたとき、最初に敬礼した相手だ。訓練で何度も地面に叩きつけられた。実戦で背中を預けた。部隊が解散するまでの四年間、一真にとって鷹城は「上官」という言葉の定義そのものだった。だが部隊解散後、鷹城は消えた。除隊届も出さず、連絡先も変えて。一真も南郷も、鷹城の行方を追えなかった。

その男が、今ここにいる。

一真の拳が無意識に握られた。味方か敵か。三ヶ月の逃亡で、その判断を間違えれば死ぬと学んだ。信じた相手に裏切られたことも、疑った相手が本当に敵だったことも、どちらも経験した。鷹城がどちらなのか、今の一真には判断する材料がない。

鷹城は雨の中に立ったまま、一真を見た。その目には、追う者の色がなかった。憐れみでもない。懐かしさでもない。ただ、状況を正確に把握している人間の、静かな覚悟があった。

「——乗れ、一真」

低い声が雨音を切った。命令でも懇願でもない。かつて作戦前に聞いた、あの淡々とした指示の声だった。一真は動かない。鷹城も動かない。雨が二人の間に降り続ける。路地の奥で、無線の音がまた一つ、近づいた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ