第3話
第3話
銃口は下ろさなかった。
SUVが首都高の側道を抜け、湾岸沿いの産業道路に入った。片側二車線、街灯は三本に一本が切れている。工業地帯の夜は暗い。倉庫と倉庫の間に闇が溜まり、雨がその闇を厚くしている。タイヤが路面の水を巻き上げる音が、車体の底から低く響いていた。鷹城は定期的にバックミラーを確認しながら、制限速度をきっちり守って走っていた。速すぎず、遅すぎず。目立たない運転。追われる人間の走り方だ。
一真の腕が限界を訴え始めていた。銃を構えて四十分。三ヶ月の消耗は筋力を根こそぎ奪っている。かつてなら片手で八時間構え続けられた。今は両手でも腕が震える。肩から肘にかけて鈍い痺れが広がり、手首の関節が熱を持っている。だが下ろせない。下ろした瞬間に、自分の中の何かが崩れる。それは銃口の問題ではなく、判断の問題だった。鷹城を信じるか、信じないか。銃を下ろすことは前者を選ぶことを意味する。一真にはまだ、その覚悟がなかった。
「コンビニに寄る」
鷹城が言った。唐突な言葉に一真の指が引き金に触れた。
「何のために」
「お前が最後に食事をしたのはいつだ」
答えなかった。答えられなかった。昨日の残飯の記憶すら曖昧だ。
「倒れられると困る。横須賀で使い物にならない人間を連れていく余裕はない」
感情のない声。だがその言葉の選び方に、一真は鷹城の意図を読んだ。「心配している」とは言わない。「作戦に支障がある」という言い方をする。それが鷹城のやり方だった。七年前から変わっていない。
SUVが産業道路沿いのコンビニに滑り込んだ。駐車場には長距離トラックが二台。白い蛍光灯の光が雨粒を照らし、アスファルトの上に無数の光点を散らしていた。鷹城がエンジンを切らずにドアを開けた。
「二分で戻る。撃ちたければ撃て」
背中を向けて店に入っていく。銃口の先から標的が消えた。一真は銃を膝の上に下ろし、深く息を吐いた。腕の筋肉が痙攣している。車内の時計が午前二時十七分を示していた。
バックミラーに映る自分の目。充血して、窪んで、光がない。頬骨が浮き出て、顎のラインが鋭角になっている。三ヶ月前の自分を知る人間が見たら、別人だと思うだろう。この目で何を見極められる。この頭で何を判断できる。三ヶ月間、生存本能だけで動いてきた身体に、人間を信じる機能がまだ残っているのか。
鷹城が戻ってきた。ビニール袋を後部座席に放り込む。おにぎり四つ、ペットボトルの水、カロリーバー。一真は手をつけなかった。
「毒は入っていない」
「そういう問題じゃない」
「知っている」
SUVが再び動き出す。鷹城は何も言わなかった。一真もおにぎりには手を伸ばさなかった。ビニール袋が座席の上で揺れる音だけが、雨音に混じって車内に響いた。
沈黙が十五分続いた。産業道路から県道に入り、街灯がさらに減った。雨脚は弱まらない。ワイパーが一定のリズムで視界を拭う。
「お前に一つ見せるものがある」
鷹城が左手でジャケットの内ポケットに手を入れた。一真の銃が跳ね上がる。鷹城の動きが止まった。
「身分証だ。撃つな」
ゆっくりと取り出されたのは、黒い革のケース。鷹城が片手でそれを開き、バックミラー越しに一真に見せた。公安調査庁の身分証明書。顔写真、氏名、階級。鷹城玲。調査官。発行日は一年前。
「部隊解散後、公安に移った。《グレイヴ》を内部から追うためだ。南郷と同じことを、別のルートでやっていた」
一真の思考が加速した。公安。つまり鷹城は今、国家の側にいる。追う側だ。一真を追っている組織の一員だ。それが味方だと言っている。矛盾だ。罠の匂いがする。
「公安が俺を追っている。お前は公安だ。なら——」
「俺の捜査対象はお前じゃない。《グレイヴ》だ。だがお前を追っている連中の中にも、《グレイヴ》の息がかかった人間がいる。公安は一枚岩じゃない。お前の逮捕状を出した判事が誰の推薦で就任したか、調べてみろ」
頭が痛い。情報が多すぎる。三ヶ月間、考えることを極限まで減らして生き延びてきた脳が、急に負荷をかけられて軋んでいた。こめかみの奥で血管が脈打ち、視界の端がちらついた。組織の中の組織。裏切りの中の裏切り。誰が味方で誰が敵か、境界線が溶けている。
「信用できない」
一真は言った。それが今の自分にとって唯一確かなことだった。
「当然だ」
鷹城がハンドルを切り、路肩にSUVを寄せた。エンジンが止まる。雨音だけが残った。鷹城が運転席から身体をひねり、初めて一真と正面から向き合った。その目には、路地で見たのと同じ静かな覚悟があった。だが今はそこに、もう一つ別のものが加わっている。決意。何かを捨てる人間の目だった。
鷹城が身分証を両手で持った。革ケースの背を一真に向け、顔写真が見えるように開いた。
「見ていろ」
鷹城の指が革ケースに力を込めた。ゆっくりと、だが確実に。革が軋み、中のプラスチックカードが曲がり始める。カードが白く変色し、鷹城の親指の爪が表面に筋をつけた。力が加わり続ける。パキ、と音がした。プラスチックが割れた。顔写真の上を亀裂が走り、鷹城の顔を二つに分断した。鷹城はそのまま力を込め続けた。バキン。カードが真っ二つに折れ、破片が鷹城の膝に落ちた。
「これで俺も追われる側だ」
鷹城の声は平坦だった。だが膝の上に落ちたIDの破片——公安調査官としての身分、国家から与えられた権限、法の内側に立つ資格。それを自分の手で折った男の目は、もう後戻りしない人間の目だった。
「お前と対等だ、一真。帰る場所はもうない。俺にも」
一真の指から力が抜けた。銃口が下がる。意志ではなく、身体が勝手に判断した。三ヶ月の逃亡で磨かれた生存本能が、目の前の人間を脅威ではないと分類した。論理ではない。説明もできない。ただ、IDを折る鷹城の指に嘘がなかった。その一点だけが、一真の中で錘になった。
銃を座席に置いた。金属が革に触れる乾いた音。
おにぎりのビニール袋に手を伸ばした。フィルムを剥がし、一口齧る。海苔と米の味が口に広がった瞬間、胃が痛いほど動いた。三ヶ月間忘れていた飢餓感が一気に押し寄せてきて、視界がぼやけた。噛みながら息をついた。こんなものが、こんなにうまいはずがない。ただの塩むすびだ。だが身体が覚えていた。人間の食事の味を。塩の粒が舌の上で溶け、米の甘さがその後を追った。喉が勝手に飲み込み、胃が軋むように受け止めた。
「横須賀の施設に行く」
一真は二つ目のおにぎりを開けながら言った。
「復号キーを取る。ファイルを開く。真実を見る。その先のことは——その先で考える」
鷹城は頷いた。エンジンが再び静かに唸る。SUVが車道に戻った。
一真は三つ目のおにぎりを頬張りながら、窓の外を見た。雨が弱まり始めていた。東の空の端が、ほんの僅かに白んでいる。夜明けが近い。三ヶ月間、一真にとって夜明けは恐怖だった。暗闘という味方を失う時間。光は監視カメラを生かし、顔認証を起動させ、逃走者を丸裸にする。
だが今は違った。夜明けの白さが、別のものに見えた。
逃げるだけの三ヶ月が終わる。
鷹城がカーナビの画面を消した。目的地を電子機器に残さない。代わりに紙の地図を膝に広げ、赤ペンで一点を指した。横須賀。かつて海軍の施設だった場所。今は廃棄データセンターに偽装された《グレイヴ》の拠点。その地下二階に、南郷が命と引き換えに隠した復号キーがある。
一真は水を一口含んだ。冷たい水が乾いた喉を通り、胃に落ちた。久しぶりに、身体が前に進もうとしていた。逃走ではなく、突入へ。
「到着まで一時間半。仮眠を取れ」
鷹城が前を向いたまま言った。一真は首を横に振ろうとして——やめた。握り拳を緩めた。拳の中に、折れたIDの音がまだ残っていた。あの音は、鷹城が自分の退路を断つ音だった。バキン。あの乾いた破壊音が、三ヶ月間固く閉じていた何かを、一真の中でも割った。
目を閉じた。三ヶ月ぶりに、背中を預けて。