第2話
第2話
翌朝、目覚めた瞬間に匂いを探した。
布団の中で息を吸い、鼻腔の奥に意識を集中させる。——何もない。洗濯洗剤の微かな残り香と、畳の乾いた匂いだけ。昨夜のあれは、やはり疲労が見せた幻だったのだろう。そう結論づけて身体を起こすと、障子の隙間から差し込む朝の光が眩しかった。
師匠の事務所兼住居は、築五十年の日本家屋だ。除霊師という職業の割に、霊的な防護は最低限しか施されていない。「本物の結界は金がかかる。D等級の依頼報酬じゃ割に合わん」というのが師匠の持論で、実際この家は経年劣化のほうがよほど深刻だった。
台所に降りると、師匠はすでにコーヒーを淹れていた。テーブルの上にトーストが二枚。俺の分も用意されている。この人は感情表現の九割を省略するが、こういう細かい気遣いだけは正確だ。
「おはようございます」
「ああ」
それだけの朝の挨拶。いつも通りだ。昨夜の車内での沈黙も、今朝には日常の中に埋もれている。俺はトーストを齧りながらスマートフォンを開いた。
回帰館の記事は、一晩で爆発的に拡散されていた。
トレンドの上位に「回帰館」「Loss Seven Hall」「七人目」の文字が並んでいる。まとめサイトが乱立し、過去の行方不明者の情報が時系列で整理され、航空写真から割り出したという館の位置情報まで晒されていた。心霊系のインフルエンサーが「突撃配信」を予告している投稿には、三万を超えるいいねがついている。
そして、繰り返し引用されているのが、あの都市伝説だ。
「七人揃うと、館が目を覚ます」。
コメント欄を流し読みする。大半は面白がっているだけだ。怖い怖いと言いながら楽しんでいる。それが普通の反応で、俺だって一年前ならそちら側にいただろう。だが今は違う。除霊師見習いとして現場を踏んだ身には、この無邪気な好奇心が薄い膜の上を歩いているように見える。膜の下に何があるか知らずに。
ある投稿が目に留まった。匿名掲示板からの転載で、画質の粗い写真が添付されている。回帰館の内部を撮影したものらしい。暗がりの中にフラッシュの光が白く弾け、廊下の壁と、その壁に刻まれた何かが写っていた。
拡大した。
壁に刻まれているのは——文字ではない。紋様だ。円と直線を組み合わせた幾何学的な図形が、壁の一面を覆うように彫り込まれている。落書きにしては精緻すぎる。しかも線の一本一本に迷いがない。
写真を見つめていると、頭の奥で微かな耳鳴りがした。高い、金属的な音。それと同時に、昨夜の記憶が蘇る。写真を見ただけで頭の中に組み上がった廃洋館の立体構造。行ったことのない場所の間取りを、なぜか知っている感覚。あれが単なる錯覚なら、なぜ今も、この紋様の続きが壁の角を曲がった先にもあると確信できるのか。
「師匠」
声が自分のものとは思えないほど平坦だった。
「この写真、見てもらえますか」
師匠がコーヒーカップを置き、差し出されたスマートフォンの画面を見た。三秒。五秒。師匠の喉仏が小さく上下した。飲み込んだのはコーヒーではない。
「どこで拾った」
「SNSです。回帰館の内部写真だそうで——」
「消せ」
短く、硬い声だった。
「見るな。拡散するな。関わるな」
師匠がそこまで明確に禁止の言葉を使うのは珍しかった。普段は「好きにしろ」が口癖の人だ。俺が危険な判断をしそうなときでさえ、止めるのではなく情報を与えて自分で考えさせる方針を取る。それが鷹宮巳影という人間の教育方針であり、美学でもあった。
だから、この反応は異常だった。
俺が返事をする前に、師匠の携帯電話が鳴った。固定電話ではなく、師匠が仕事用に使っている旧式の携帯だ。画面を見た師匠の表情が、一瞬だけ凍った。唇が微かに開き、すぐに引き結ばれる。その間、おそらく一秒もない。だが俺は見逃さなかった。
「……鷹宮です」
師匠が席を立ち、廊下に出た。襖が閉まる。声は聞こえない。師匠は電話のときは意図的に声量を落とす。
俺はトーストの残りを咀嚼しながら、閉じた襖を見つめていた。
七分後、師匠が戻ってきた。テーブルの前に座り直し、冷めたコーヒーを一口飲む。それからしばらく、何かを組み立てるように沈黙した。
「依頼が入った」
「回帰館ですか」
師匠の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「なぜわかる」
「今の電話の前に、わざわざ俺に『関わるな』と言った。あれは予防線です。依頼が来ることを、予想していたんでしょう」
師匠は否定しなかった。コーヒーカップの縁を親指でなぞりながら、視線をテーブルの木目に落としている。
「依頼主は」
「県の除霊師協会。行方不明者の件で警察が動いているが、現場に異常な霊的反応があり、通常の捜索では対応できないとの判断だ」
「それで、師匠に白羽の矢が」
「協会の持ち回りだ。特別なことじゃない」
嘘だ、と直感が告げた。持ち回りなら迷わない。この案件を師匠が受けることに、何か個人的な事情が絡んでいる。
「俺も行きます」
師匠の視線が上がった。
この人の目は普段、感情を映さない。濃い茶色の虹彩は観察と分析のための道具で、喜怒哀楽はその奥に格納されている。だが今、その目の奥に、俺は見慣れないものを見た。
怯え。
鷹宮巳影が——あの冷静で、合理的で、D等級の浄化を朝飯前と片付ける師匠が——怯えている。俺に対してではない。俺が回帰館に行くということ、その事実に対して。
「見習いの同行は認められない案件だ」
「でも、俺には空間把握があります。廃墟の構造調査なら——」
「必要ない」
遮るように言って、師匠は立ち上がった。コーヒーカップを流しに置く背中は、いつもより少しだけ強張っていた。
「今日は休め。明日の伏見邸の清祓いの準備をしておけ」
それだけ言って、師匠は事務所に引っ込んだ。
残されたテーブルの上で、俺のスマートフォンが無音で光っていた。画面には、さっき閉じ損ねた回帰館の写真がまだ表示されている。あの壁の紋様。精緻な幾何学模様。
——見るな。
師匠の声が耳に残っている。だが目は勝手に写真を追っていた。紋様の線を辿る。円弧。直線。交差点。その配置には、建築図面を読むときと同じ種類の秩序がある。構造がある。意味がある。
そして俺は、その意味が読めそうな自分に気づいて、スマートフォンの画面を伏せた。
心臓が痛いほど脈打っている。
これは——俺の、何の能力なんだ。
昼過ぎ、師匠が外出した。行き先は言わなかった。車のエンジン音が遠ざかるのを確認してから、俺は事務所の書棚の前に立った。依頼関連の資料は鍵付きのキャビネットに保管される。鍵は師匠が持っている。だが、キャビネットの上に無造作に積まれたファイルの中に、今朝の電話の後で師匠が引っ張り出したらしい古い封筒があった。
封は開いている。中を覗くつもりはなかった。触れるつもりもなかった。だが、封筒の表面に書かれた文字が、否応なく目に入った。
『御影洋館 調査報告書——十年前』
指先が冷たくなった。
十年前。
俺の記憶が途切れている時期。五歳以前の、何もない空白。
封筒に手を伸ばしかけて、やめた。やめた、はずだった。なのに指先が封筒の縁に触れた瞬間、鼻腔の奥にあの匂いが蘇った。濡れた髪の、生々しい水の匂い。昨夜よりも近い。すぐそばにいるような濃度で、俺の呼吸に絡みついてくる。
振り返った。
事務所には誰もいない。午後の陽光が障子を通して白く満ちている。物音一つしない。
だが匂いは消えなかった。そして匂いの中に、微かに、声が混じっていた。
——おいで。
女の声だ。低く、甘く、耳の奥ではなく頭蓋の内側で響くような声。聞き覚えはない。ないはずだ。なのに身体が反応している。鳥肌が両腕を駆け上がり、背筋を走り抜け、後頭部で弾けた。恐怖ではない。もっと原始的な何か。呼ばれている、という確信。あの廃洋館から。回帰館から。十年間の空白の底から。
玄関の鍵が開く音がした。
師匠が戻ってきた。事務所の入口に立った師匠と、封筒の前に立つ俺の目が合った。
師匠の目が、封筒を、そして俺の顔を見た。
何も言わなかった。何も問い詰めなかった。ただ靴を脱ぎ、事務所に入り、俺の横を通り過ぎてキャビネットの前に立ち、封筒を手に取って中に仕舞い、鍵をかけた。
その一連の動作が終わるまで、俺たちの間に言葉はなかった。
師匠が鍵をポケットに入れ、ようやく口を開いた。
「明後日の回帰館——お前も来い」
朝と真逆の指示だった。俺が驚いて顔を上げると、師匠は窓の外を見ていた。
「目の届かない場所にいられるほうが怖い」
その声は、師匠のものとは思えないほど小さかった。