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回帰館の呪術師

第3話 第3話

第3話

第3話

回帰館は、写真よりも小さかった。

いや、違う。小さく見えたのは、記憶の中の館が大きすぎたからだ。

師匠の車を降りた瞬間、秋の乾いた空気が頬を叩いた。午前十時。曇天。灰色の雲が低く垂れ込め、日差しのない空の下で周囲の木々だけが妙に色鮮やかに見えた。旧御影洋館は県道から未舗装の私道を三百メートルほど入った丘の上に建っていた。蔦が外壁を覆い、左右非対称の尖塔が鈍色の空を突いている。玄関ポーチのアーチは崩れかけ、周囲には警察の立入禁止テープが張られていた。テープの端が風に揺れ、乾いた音を立てている。それ以外は静かだった。鳥の声すらしない。丘の上だけが、周囲の森から切り離されたように沈黙していた。

「規制線の中は協会の許可が出ている。触るなと言われたものには触るな」

師匠が装備を確認しながら言った。護符の束、塩、清めの水、記録用のカメラ。一つ一つを手に取り、目視で確かめ、所定の位置に戻す。何度見ても無駄のない手付きだった。俺はいつも通り補助装備を背負い、師匠の半歩後ろにつく。背中のバッグの重みが肩に食い込んだ。その物理的な重さが、かろうじて俺の足を地面に繋ぎ止めている気がした。

近づくにつれて、玄関ポーチの左手に小さな窓が見えた。台所の窓。写真を見たときに確信した通りの位置に、確信した通りの形で、それはあった。窓枠は腐食して歪んでいたが、奥にうっすらと見える調理台の輪郭は、頭の中の映像と寸分も違わない。

足が止まった。

知っている。この建物を、俺の身体は知っている。

来たことはない。来たことはないはずだ。なのに足の裏が、次の一歩で踏む地面の硬さを、砂利の粒度を、既に知っていた。

「レン」

師匠の声に引き戻される。玄関の前に立った師匠が、こちらを振り返っていた。その目には昨日までの怯えはなく、現場に入る除霊師の硬質な集中があった。何かを言いかけて、やめた。代わりに俺の目を数秒見つめ、それから小さく頷いた。行けるな、という意味だと理解した。

「中に入るぞ」

師匠が玄関の扉に手をかけた。錆びた蝶番が軋み、重い木の扉が内側に開く。黴と埃と、かすかに甘い腐敗の匂い。廃墟特有の空気だ。冷たく、湿っていて、肺の底に張り付くような重さがあった。

俺は師匠に続いて、敷居を跨いだ。

右足が館の床に触れた瞬間——世界が、裏返った。

音が消えた。師匠の足音も、風の音も、自分の呼吸さえも。代わりに全身の皮膚が沸騰するような感覚が走り、視界が二重になった。現実の廃洋館と、その上に重なるもう一つの層。埃まみれの壁の表面に、青白い光の線が浮かび上がっていく。

呪術陣だった。

壁一面を覆う紋様。SNSの写真で見たあれと同じ——いや、写真に写っていたのは全体のほんの一部に過ぎなかった。紋様は壁から天井へ、天井から床へ、途切れることなく館全体に張り巡らされている。円弧と直線が交差し、結節点で脈動する青白い光が、まるで血管のように館の隅々まで伸びていた。

床を見た。板張りの床の下を、光の導線が走っている。太い幹線が廊下の中央を貫き、そこから枝分かれした細い線が各部屋へ流れ込んでいる。配管ではない。呪力の経路だ。建物そのものが一つの巨大な術式として設計されている——その構造が、空間認識と同じ精度で頭の中に組み上がっていく。

一階の廊下は右に折れて大広間に繋がる。階段は二箇所、東翼と西翼。地下への入口は厨房の奥。あの日スマートフォンの画面越しに「思い出した」構造と、呪術陣の配置が完全に一致している。導線の太さ、分岐の角度、結節点の間隔——すべてに意味がある。すべてが読める。

膝が震えていた。恐怖ではない。情報量だ。今まで霞がかかっていた世界から、いきなりフィルターが剥がされたような感覚。見えすぎる。感じすぎる。五感の全てが際限なく鋭敏になっていて、壁の向こうの部屋の気配さえ肌で捉えている自分がいる。奥歯を噛み締めた。歯の根が痺れるほど強く。そうしないと膝から崩れ落ちそうだった。

「師匠、これ——壁の、この紋様が見えますか」

声が掠れた。自分の声が、妙に遠くから聞こえた。師匠が壁を見た。目を細め、掌をかざし、数秒。指先が微かに動いたのは探査の術式だろう。それから首を振る。

「何も感じない。残留霊気はあるが、微弱だ。紋様と言ったか」

「壁一面です。天井にも床にも。導線が走ってる。館全体に——」

師匠の顔から表情が消えた。観察でも分析でもない、完全な空白。この人がこんな顔をするのを、俺は見たことがなかった。三年間、どんな現場でも冷静だったこの人の目に、一瞬だけ走ったのは——動揺ではない。覚悟だ。何かを覚悟した人間の目だった。

「お前に見えて、俺に見えない」

独り言のような声だった。師匠は壁に手を触れ、指先で表面をなぞった。物理的には何もない。だが俺の目には、師匠の指先が呪術陣の線を横切るたびに、青白い光が微かに揺れるのが見えた。

「……始まったか」

師匠が呟いた言葉の意味を問い返す間もなく、左腕に灼熱が走った。

袖をまくった。

腕の内側に、紋様が浮かび上がっていた。

青黒い線が皮膚の下から滲み出すように、手首から肘にかけて広がっている。壁の呪術陣と同じ幾何学模様。円弧、直線、結節点。だがそれは刺青でも火傷でもなく、もっと深い場所——骨の表面に刻まれたものが、皮膚を透かして見えているような。指で触れると、表面は平らだった。凹凸もなく、熱もない。ただ指先だけが、皮膚の下で何かが蠢いているのを感じ取っていた。

紋様が脈動していた。心臓の鼓動とは異なるリズムで、壁の術式と同期するように明滅を繰り返す。館が息を吸えば紋様が光り、館が息を吐けば紋様が沈む。まるで臍の緒だった。この館と俺が、見えない管で繋がれているような。

「これ、何ですか」

師匠に腕を見せた。師匠の目が紋様を捉え、瞳孔が収縮するのが見えた。唇が薄く開き、何かの名前を形作りかけて——止まった。飲み込んだのだ。今ここで口にすべきでない言葉を。

知っている。この人は、これが何か知っている。

「師匠」

「……触るな。掻くな。意識を向けすぎるな」

質問に答えていない。答える気がないのではなく、答えられないのだと、師匠の声の微かな震えが告げていた。師匠の右手が無意識に護符の束に伸び、それから力なく下がった。護符では対処できない。その動作が、そう言っていた。

紋様の脈動が強くなった。壁の術式と共鳴するように、腕の中で何かが膨張していく。痛みはない。だが存在感がある。腕の中にもう一つの心臓が生まれたような、異質な鼓動。脈を打つたびに、館の構造がより鮮明に頭の中に流れ込んでくる。二階の間取り。各部屋の広さ。窓の数。知るはずのない情報が、呼吸するように自然に染み込んでいく。

そしてその鼓動が、方向を持っていた。

上。

紋様が指し示している。館の上層、最上階の方角を。導線の流れを辿れば分かる。呪力の本流は全て上へ向かっている。この館の術式の中枢は、最上階にある。

「師匠。上に、何かあります。紋様が——」

言いかけた瞬間、館の奥から音が聞こえた。

人の声だった。低い、くぐもった叫び。言葉にならない呻き声が、廊下の奥の暗がりから這うように伝わってくる。壁の呪術陣が、その声に反応するように一斉に明るさを増した。行方不明者だ。七人のうちの誰かが、まだこの館の中にいる。

師匠が護符を構えた。俺の前に半歩出て、廊下の奥を睨む。その背中は広く、硬かった。俺を庇う位置。それは信頼ではなく、保護だった。俺が何であるか分からない今、師匠は俺を守っているのか、それとも俺から館を遠ざけているのか。

呻き声が止んだ。

沈黙が、水のように満ちた。耳鳴りがするほどの静寂の中で、自分の心臓の音だけが異様に大きく響いていた。いや——心臓ではない。腕の紋様の鼓動だ。二つの拍動がいつの間にか重なり、どちらが自分の心臓でどちらが紋様なのか、区別がつかなくなっていた。

俺の左腕の紋様が、一際強く脈打った。壁の呪術陣が呼応するように明滅し、青白い光が廊下の奥へ向かって流れていく。光の導線を目で追った先に——暗闇の中で、何かが動いた。

人影ではない。人影よりももっと曖昧で、輪郭のない黒い靄のような何かが、廊下の角の向こうからこちらを覗いていた。見ている。あれは、俺を見ている。俺だけを。師匠ではなく、壁の術式でもなく、俺の腕に浮かんだ紋様を——見ている。

「師匠」

「黙れ。動くな」

師匠の声が、初めて聞くほど低かった。

廊下の奥の靄が、ゆっくりと後退した。角の向こうに消えていく。それを追うように、呻き声が再び聞こえた。今度はもっと奥から。もっと深い場所から。声は壁に反響し、どこから聞こえているのか正確には掴めなかった。だが腕の紋様は知っていた。地下だ。声の主は、地下にいる。

俺の腕の紋様が、まだ脈打っている。壁の術式と繋がったまま、上を指し続けている。

この館は生きている。そして俺の身体は、その一部として目を覚まし始めている。

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