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回帰館の呪術師

第1話 第1話

第1話

第1話

廃病院の地下は、死んだ空気で満ちていた。

懐中電灯の光が湿った壁を舐めるたびに、剥がれかけのタイルが白い歯のように浮かび上がる。天井から垂れ下がった配管が影を落とし、その影がまるで何かの手のように床を這っていた。空気は重く、吸い込むたびに肺の奥にカビと錆びた鉄の味がこびりつく。どこかで水が滴る音が一定のリズムで響いていて、それがかえって静寂の深さを際立たせていた。

「レン、足元」

師匠——鷹宮巳影の声が、前方から低く届いた。

言われるまでもなく見えている。床の中央に走る亀裂、その先で崩落した瓦礫の山。配管の位置から構造を逆算すれば、この地下フロアは東西に二十四メートル、南北に十八メートル。元は霊安室と機材庫が並んでいた区画だ。図面なんか見なくたってわかる。建物の骨格が、頭の中に三次元で組み上がる。

俺の唯一の取り柄。除霊師見習いとしては落第点だが、「廃墟の間取りを一瞬で把握する助手」としてなら、かろうじて師匠の役に立てる。

「霊気の残滓はこの奥だ。弱い。D等級がせいぜいだろう」

師匠が歩みを進める。黒い外套の裾が瓦礫を掠めた。俺はその背中を追いながら、いつも通り周囲を観察する。壁の染み。天井の水滴。換気口から微かに流れる外気。

異常なし。

師匠の見立て通り、この廃病院に巣食っているのは低級の残留霊気だ。生前の記憶に縛られた断片が、解体もされずに放置された建物の中で緩やかに腐っている。師匠一人で十分な案件で、俺は懐中電灯係兼荷物持ちに過ぎない。

それでいい。俺の霊感は人並み以下だ。見えるには見える。感じるには感じる。だが、その感度は師匠の十分の一にも満たない。一人で祓えた霊なんて、ここ二年で片手の指ほどしかない。

——だから、それは、おかしかったのだ。

師匠が護符を取り出し、浄化の準備を始めた。俺は定位置で懐中電灯を構え、地下のさらに奥——暗闇が濃く溜まった廊下の先を照らす。

匂いがした。

濡れた髪の匂い。

風呂上がりでもなく、雨でもなく、もっと生々しい。長い髪が水を含んで重く垂れ下がり、その先端から雫が落ちるような——そんな匂い。唾液が口の中に溜まり、咄嗟に飲み込んだ。胃の底がひやりとする。匂いには方向があった。廊下の奥、暗闇の最も深い場所から、まっすぐ俺の鼻腔に向かって伸びてくるような指向性。まるで、俺だけを名指しで呼んでいるような。

「師匠」

「なんだ」

「この奥、何かいませんか」

師匠が手を止めた。目を閉じ、数秒。その間、師匠の呼吸が完全に止まっていた。全神経を感知に集中させている証だ。それから首を振る。

「何もないな。残留霊気はこの部屋に集中している。奥は空だ」

空。師匠がそう言うなら、そうなのだろう。鷹宮巳影は、中堅どころの除霊師の中でも指折りの感知能力を持つ。その師匠が「空」と断じた場所に、霊感の弱い俺だけが何かを嗅ぎ取る。そんなことがあるはずがない。

だが匂いは確かにあった。今も鼻腔の奥にへばりついている。

俺は廊下の闇を見つめた。懐中電灯の光は五メートルほどで壁に突き当たり、左に折れる角を照らしている。その角の向こうに何があるのか、建物の構造からすぐに割り出せた。旧霊安室の冷蔵保管庫だ。

行ってみたい、という衝動が腹の底から湧いた。

行くな、という直感が同時に首筋を掴んだ。

二つの感覚が胸の中で綱引きをしていた。足の裏が床に貼り付いたように動かない。なのに身体の芯だけが、見えない糸で廊下の奥へ引かれている。こんな感覚は初めてだった。恐怖とも好奇心とも違う、もっと根源的な——臓腑の奥が疼くような衝動。

「レン。集中しろ」

師匠の声で我に返った。匂いは——消えていた。まるで最初からなかったかのように。

浄化は二十分で終わった。D等級の残留霊気など、師匠にとっては朝飯前だ。俺は機材を片付けながら、あの匂いのことを頭の隅に追いやった。気のせいだ。疲れていたんだろう。廃墟巡りが続けば、感覚がおかしくなることもある。

帰りの車の中で、師匠は黙っていた。いつものことだ。必要なこと以外は話さない人で、俺もそれに慣れていた。

助手席でスマートフォンを開く。深夜一時のSNSは、いつも通り雑多な情報が流れている。ゲームの実況。猫の動画。誰かの愚痴。

親指が止まった。

トレンドに上がっている単語。

「回帰館」。

——【速報】都市伝説の心霊スポット「回帰館」で七人目の行方不明者か。地元警察が捜索を開始。

記事を開いた。Loss Seven Hall。正式名称は旧御影洋館。明治期に建てられた洋風建築で、数十年前に所有者が不審死を遂げてから放置されている。近年はSNSで心霊スポットとして拡散され、肝試しに侵入する者が後を絶たない。そして、この一年で七人が行方不明になった。

都市伝説がある。「七人揃うと、館が目を覚ます」。

馬鹿げている。除霊師見習いとして二年、その手の与太話がいかに的外れかは嫌というほど知っている。本物の心霊現象は、都市伝説のような分かりやすい形をとらない。もっと静かで、もっと陰湿で、もっとじわじわと日常を侵食してくるものだ。

だが——記事に添付された写真を見た瞬間、指先が冷えた。

旧御影洋館の外観。蔦に覆われた洋風建築。左右非対称の尖塔。玄関ポーチの崩れたアーチ。

知っている。

この建物を、知っている。

写真の中の廃洋館が、頭の中で三次元に組み上がっていく。いつもの空間認識——ではない。初めて見る建物の構造を推測しているのではなく、すでに知っている構造を思い出しているような感覚。一階の廊下は右に折れて大広間に繋がる。階段は二箇所、東翼と西翼。地下への入口は——

指が画面の上で震えていた。スクロールしようとして、うまく操作できない。写真を拡大した。玄関ポーチの左手に小さな窓がある。そこが台所だと、なぜか確信があった。窓枠の形、その奥に見えるはずの調理台の配置まで、鮮明に浮かぶ。一度も行ったことのない場所の記憶が、写真という鍵で次々と開錠されていく。

「レン」

師匠の声に、二度目の覚醒。スマートフォンの画面が白く光っている。

「どうした。顔色が悪い」

「いえ——」

何でもありません、と言いかけて、言葉が喉に詰まった。顔色が悪いのは当然だ。心臓が異常な速さで打っている。手が震えている。そして鼻腔の奥に、また、あの匂いが蘇っていた。

濡れた髪の匂い。

廃病院の地下で嗅いだのと同じ、あの生々しい水の気配。

「何でもありません」

嘘をついた。師匠はハンドルを握ったまま、ちらりとも俺を見なかった。だがバックミラー越しに映ったその目は、車内の暗がりの中でも分かるほど鋭く細められていた。

車は夜の国道を走り続ける。街灯が等間隔に流れ、その光が師匠の横顔を断続的に照らした。

俺は画面を消したスマートフォンを膝の上に置き、窓の外を見た。

五歳より前の記憶がない。

物心ついたときには施設にいて、十二歳で師匠に引き取られた。それ以前のことを訊いても、師匠は「知らん」としか言わなかった。施設の職員も、記録上は「身元不明の保護児童」としか残っていないと言った。

気にしていなかった。思い出せないものを思い出そうとしても仕方がない。今の生活がある。師匠がいる。半人前でも、除霊師見習いという居場所がある。それで十分だった。

——十分だった、はずだ。

なのに今、あの廃洋館の写真を見ただけで、身体が覚えている。脳ではなく、骨が、血が、皮膚の下の何かが、あの建物を知っていると叫んでいる。

車が赤信号で止まった。

師匠が、小さく息を吐いた。何か言いかけて、やめたような間があった。フロントガラスの向こうで信号の赤が滲み、師匠の指がハンドルの上で一瞬だけ強張るのが見えた。この人が言葉を飲み込むのは珍しい。普段は必要なことだけを、必要なだけ言う人だ。言いかけて止めるということは、言うべきかどうか迷っている——つまり、俺にとって重い何かを知っているということだ。

信号が青に変わる。車が再び走り出す。

匂いは、まだ消えなかった。

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