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引き金の向こう、最後の真実

第2話 第2話

第2話

第2話

三日のうち、最初の一日を情報の精査に充てた。

レイは安全な拠点——Loss地区の廃アパート三階——でファイルを広げた。窓はベニヤ板で塞がれ、唯一の光源は床に置いた電池式のランタンだった。黄色い光が壁の染みを浮かび上がらせ、部屋全体に琥珀色の陰影を落としている。湿気を含んだ空気が重い。階下から排水管の軋む音が断続的に響いていた。鷹宮誠一郎。元公安非公式オペレーター。十二年前に公安を離脱し、以後の公的記録はない。鶴見が渡した資料には、直近三ヶ月分の行動記録が添付されていた。盗撮写真が八枚。移動経路の概略図。推定される協力者のリスト。

レイは写真を一枚ずつ床に並べた。冷たいコンクリートの上に、鷹宮の生活が断片的に浮かぶ。港湾エリアのコンテナ倉庫。埠頭沿いのカフェ。旧市街の古書店。行動範囲は半径二キロ圏内に収まっている。狭い。元公安の人間にしては、あまりにも狭い。逃げる気がないのか、それとも守るべきものがこの圏内にあるのか。

行動パターンを時系列に並べ直す。火曜と金曜にカフェ。月曜に古書店。不定期に倉庫。移動はすべて徒歩。車両は使わない。尾行を意識した動きはあるが、過度な警戒ではない。むしろ——。

レイの指が止まった。

この動き方を、知っている。

六歳より前の記憶は曖昧だ。だが身体が覚えている感覚がある。誰かが自分の手を引いて歩く。小さな掌を包む大きな手の温度。乾いていて、硬くて、それでいて力加減だけは驚くほど優しかった。角を曲がるたびに背後を確認する。横断歩道では必ず立ち止まり、周囲を見渡してから渡る。あれは——父だったか。記憶の輪郭が煙のように揺れて掴めない。掴もうとするほど指の間をすり抜けていく。残るのは手の温度だけだ。それすらも本物の記憶なのか、自分が作り上げた幻なのか、もう区別がつかない。

レイは頭を振った。ファイルに集中する。鷹宮の推定戦力。近接戦闘の技術は高い。銃器の扱いにも精通。だが組織が恐れているのは戦闘力ではなく、情報だった。鷹宮が公安時代に構築した情報網。それが今も生きている。

鶴見の声が脳裏に蘇る。「鷹宮を処分しろ。それで終わりだ」

終わりにする。レイはファイルを閉じた。

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二日目の夜。レイは港湾エリアにいた。

鷹宮の拠点とされるコンテナ倉庫から三百メートル。廃棄された監視塔の上に伏せ、暗視スコープで周辺を観察する。潮の匂いが強い。腐食した鉄と海藻の混じった、港湾特有の饐えた空気が鼻腔の奥に張りつく。波が防波堤を叩く音が、規則正しく夜を刻んでいた。監視塔の床面は錆と埃に覆われ、伏せた胸元からじわりと冷気が染み込んでくる。四月の夜風が首筋を舐めるように通り過ぎた。

倉庫の外観に不審な点はない。錆びたシャッター。積み上げられた空のドラム缶。埠頭に係留された小型ボートが二隻。一見すれば放棄された施設に見える。だがレイの目は、その「自然さ」の裏側を読んでいた。

ドラム缶の配置。無造作に見えるが、倉庫の入口に対して死角を作らない並びになっている。接近する人間は必ずどこかの角度から視認される。ボートの係留ロープは新しい。白いナイロン繊維が暗視スコープの緑色の視界の中でくっきりと浮かんでいる。いつでも離岸できる状態だ。

スコープを左に振る。倉庫から五十メートル、コンテナの陰に人影。黒いジャケット、耳にイヤピース。護衛だ。さらに百メートル先のクレーンの基部にもう一人。二人とも倉庫の方を向いている。

レイは護衛の立ち位置を頭の中でマッピングした。北東と南西。倉庫を挟んで対角線上。互いの死角を補い合う配置。これ自体は標準的だ。問題はその視線の向きだった。

通常、要人の護衛は外側を向く。脅威は外から来るからだ。だがこの二人は違った。外側への警戒はしている。しかし視線の帰着点が、常に倉庫の入口に戻る。中にいる人間を——守っている。

殺し屋を雇うような人間の護衛は、こうはならない。彼らの動きには忠誠がある。金で雇われた傭兵の動きではない。主人を信じ、命を預ける覚悟を持った人間の立ち方だ。足の開き方、体重の掛け方、顎の角度。すべてが「ここを動かない」という意思を表明している。組織の駒にはない、自分の判断でそこに立っている人間の佇まいだった。

レイは二時間、動かなかった。

その間に護衛の交代が一度あった。交代の所作も見た。声を掛け合い、引き継ぎを丁寧にやっている。交代する側が去り際に倉庫へ軽く頭を下げたのが見えた。無意識の所作だろう。だがその一瞬の動きに、この場の空気のすべてが凝縮されていた。緊張感はあるが、殺気はない。組織の人間が見せる冷たい効率性とは質が違う。

違和感が、胸の奥で膨らんでいく。

鷹宮誠一郎。組織が「処分」と命じた男。だが護衛の動きが語っているのは、この男が守られる価値のある人間だということだ。少なくとも、近くにいる人間たちはそう信じている。

処分対象にこれほどの忠誠が集まるものだろうか。

——関係ない。

レイはスコープから目を離した。誰に忠誠を向けられていようと、任務は変わらない。鷹宮を殺す。名前を手に入れる。それだけだ。

だが「関係ない」と切り捨てるために、わざわざ自分に言い聞かせなければならないこと自体が、異常だった。これまでの標的に、こんな逡巡はなかった。スコープ越しに見て、撃つ。それだけで完結していた人間が、今は動けずにいる。

監視塔を降りる。非常階段の錆びた手すりが、手袋越しにざらつく。一段降りるごとに金属が軋み、その音が塔の骨格を伝って夜気に溶けていく。地上に降り立ち、来た道を戻りながら侵入経路を頭に描いた。北側のフェンスに死角がある。排水溝を伝えば護衛の視界を避けて倉庫の裏手に回れる。シャッターの南端に通気口。体格的に通れる。

明日の夜、ここから入る。

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帰路、旧市街の路地を歩いた。深夜二時。人通りはない。街灯の光が湿ったアスファルトに反射し、レイの影を長く引き伸ばす。どこかで野良猫が鳴いた。細く鋭い声が路地の壁に跳ね返り、二重三重に反響して消えた。

ポケットの中で、鷹宮の写真に指が触れた。何度も見返した顔。脳裏に焼きついている。鋭い目。白髪混じりの短髪。口元に刻まれた深い皺。厚い唇は引き結ばれ、何かを飲み込んだまま長い年月を過ごしてきた人間の形をしている。

あの目だ。

レイの足が止まった。路地の行き止まり、ブロック塀の前。自分の影が壁に落ちている。

写真の中の鷹宮の目が、何かを訴えている気がした。殺意でも敵意でもない。もっと古い——十一年以上前から存在していたかのような、深い感情。それは悔恨に似ていた。あるいは、もう届かない場所にいる誰かへの、声にならない呼びかけのようにも見えた。

レイは壁に背を預け、夜空を見上げた。星はない。都市の光害が空を灰色に染めている。後頭部に触れるブロック塀の冷たさだけが、今の自分を現実に繋ぎ止めている。

行動パターンの既視感。護衛たちの忠誠。そして写真の目の奥にある、名前のつけられない色。三つの違和感が一つの線に繋がりそうで、繋がらない。頭の中で何度も端と端を突き合わせるのに、最後の一片がいつも欠けている。その欠落した一片が何なのかすら分からない。分かりたいのかどうかも。

明日、鷹宮のアジトに入る。そこに答えがあるかもしれない。あるいは、答えなど必要ないのかもしれない。任務を完遂すれば、すべて終わる。

レイは壁から背を離し、歩き出した。足音が路地に反響する。規則正しく、機械的に。

だが胸の奥では、あの護衛たちの目が消えなかった。倉庫の入口を見つめるまっすぐな視線。あれは——誰かを「殺す側」にいる人間の目ではない。

鷹宮は、何者だ。

レイの歩調が、わずかに乱れた。すぐに元のリズムに戻す。明日の夜まで、あと二十二時間。最後の任務が、最も長い準備時間を要求している。これまで感じたことのない重さが、狙撃銃のケースとは別の場所に——胸骨の裏側にのしかかっていた。

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