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引き金の向こう、最後の真実

第3話 第3話

第3話

第3話

三日目の夜。レイは排水溝の中にいた。

膝下まで溜まった汚水が、匍匐前進のたびに腹を濡らす。冷たい、というより重い。体温を奪うのではなく、皮膚に染み込んで肉の内側から鈍く冷やしていく類の冷たさだった。腐った海藻と錆びた鉄の臭気が、呼吸のたびに喉の奥に貼りつく。口で息をしても変わらない。舌の根元に酸味が溜まり、胃が小さく痙攣する。暗視ゴーグル越しの視界は緑一色。排水溝の壁面を這う配管が、巨大な蛇の骨格のように頭上を走っている。時折、どこかの継ぎ目から雫が落ちて首筋を打つ。昨夜確認した経路どおり、北側フェンスの死角から地下に潜り、倉庫の裏手へ回り込んでいた。

通気口まで残り十五メートル。レイは腕時計を見た。〇一時二十三分。護衛の交代は〇一時三十分。引き継ぎに意識が向く約二分間が、侵入の窓だ。

排水溝の出口から身を乗り出す。潮風が汚水の臭いを押し流した。肺の底まで入れ替わるような風だった。塩と夜気の冷たさが気管を満たし、一瞬だけ頭が澄む。倉庫の南壁が目の前にある。通気口のグリルは予想どおり錆びていた。ドライバーを差し込み、四本のネジを外す。一本目と二本目は抵抗なく回った。三本目で手応えが変わる。錆が噛んでいる。力を入れすぎれば金属が軋む。指先の加減だけで回転を維持し、沈黙を守る。最後の一本が軋んだ音を立てたとき、心臓が一拍跳ねた。風に紛れたか確認する。護衛の位置は動いていない。

グリルを静かに外し、開口部に上半身を滑り込ませた。肩幅ぎりぎり。左肩の関節を内側にずらし、体を捻じ込む。金属の縁が防弾ベストを引っ掻く乾いた音。暗い通気ダクトの中を三メートル這い、内部のグリルを外して倉庫の床に着地した。

音を殺す。膝を曲げ、衝撃を吸収する。着地音は自分の呼吸より小さかった。

倉庫の内部は、外観から想像した無機質な空間ではなかった。コンテナを壁代わりに仕切り、生活空間が作られている。簡素だが、人の気配がある場所だった。折りたたみ式のテーブルの上にマグカップ。取っ手の塗装が指の形に剥げている。毎日同じ持ち方で持たれた証拠だ。壁に掛けられたコート。古い型のラジオ。棚に並ぶ缶詰と水のボトル。缶詰のラベルは几帳面に前を向いていて、水のボトルは消費順に並んでいた。長期の潜伏に慣れた人間の、最低限だが整った暮らしの痕跡。几帳面さ。軍人か、あるいは軍人だった人間の習性だ。

レイは銃を構えたまま、足音を消して奥へ進んだ。鷹宮の寝室と思われる区画を避け、まず情報を探る。鶴見の資料にはない、鷹宮の素顔を知るための手がかりを。

——なぜ情報を探る必要がある。

自分に問いかけた。任務は処分だ。寝室に踏み込み、一発で終わらせればいい。それが最も確実で、最も安全な方法だ。三百以上の任務でそうしてきた。迷ったことは一度もなかった。迷う理由がなかった。

だが足が、書斎に向かっていた。

コンテナの一角が書斎として使われている。小さな机、スタンドライト、本棚。本棚には背表紙の焼けた文庫本が二十冊ほど。歴史書が多い。一冊だけ、しおりが挟まったまま伏せられている。読みかけだ。明日また開くつもりで置かれた本。明日が来ると信じている人間の、何気ない仕草。レイはペンライトを咥え、机の引き出しに手をかけた。鍵はかかっていない。一段目。地図と筆記具。二段目。古い手帳と暗号表のような紙束。三段目——。

引き出しの奥に、一枚の写真が裏返しに置かれていた。

レイの指が触れる。写真の紙質は古い。角が僅かに丸くなり、表面に細かい擦り傷がある。何度も手に取られた証拠だ。裏返す。

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ペンライトの白い光が、写真の表面を照らした。

男が笑っている。

鷹宮誠一郎。写真の中の鷹宮は今より若く、白髪はなく、目尻に深い皺を刻んで——笑っていた。資料の盗撮写真にあった鋭い目つきの面影はあるが、表情がまるで違う。顔の筋肉のすべてが、警戒ではなく歓びのために使われている。こんな顔ができる人間だとは、ファイルのどこにも書かれていなかった。

その腕の中に、子供がいた。

小さな女の子。黒い髪。大きな目。鷹宮の首に両腕を回して、カメラに向かって歯を見せて笑っている。前歯が一本足りない。その隙間から覗く舌が、笑い声の名残を伝えている。背景は公園だろうか。桜の花びらが二人の肩に散っている。春の光が柔らかく、鷹宮のジャケットに木漏れ日の模様を落としている。

レイの呼吸が止まった。

この子供を、知っている。

写真の中の女の子の笑顔が、記憶の底にある映像と重なった。鏡の前で髪を結ぶ自分。前歯が一本抜けて、笑うと隙間が見える。母がよく「レイは笑うと誰かさんにそっくりね」と言っていた。誰かさん。母はいつも名前を言わなかった。少しだけ寂しそうに、少しだけ嬉しそうに、どちらとも取れない顔で笑って、話題を変えた。

手が震えた。写真を落としそうになり、もう片方の手で押さえる。銃を持つ手がグリップから離れたことに、気づいてすらいなかった。

裏返す。

写真の裏面に、万年筆の几帳面な文字が並んでいた。インクは青黒く、時間の経過で僅かに褪せている。だが一字一字が判読できた。

『レイの七歳の誕生日に』

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膝が、床を打った。

音を殺すことも忘れていた。コンクリートの冷たさが膝蓋骨を通じて脳まで突き抜けるのに、痛みを感じなかった。写真を両手で握ったまま、レイは動けなくなっていた。

七歳の誕生日。六歳の夜に家族を失い、路上で拾われた。つまりこの写真は——あの夜の前に撮られたものだ。家族がまだ生きていた頃。自分がまだ笑い方を知っていた頃。鷹宮の腕の中で、何の疑いもなく歯を見せて笑えていた頃。

鷹宮が、その時代の自分を知っている。

復讐の標的が、自分を抱き上げて笑っていた。

頭の中で、十一年分の前提が音を立てて崩れていく。組織が「処分しろ」と命じた男は、かつて自分を腕に抱いた人間だった。行動パターンの既視感——あれは父の歩き方に似ていたのではない。父と同じように、子供を守る人間の歩き方だったのだ。護衛たちの忠誠。鷹宮を信じ、命を預ける覚悟。あの目の奥にあった、名前のつけられない色。悔恨。届かない場所にいる誰かへの、声にならない呼びかけ。

全部、繋がった。

繋がってしまった。

銃が手から滑り落ちた。金属がコンクリートに当たる硬い音が、倉庫の空気を裂いた。レイは反射的に拾おうとして——指が、動かなかった。十一年間、一度も裏切らなかった右手が、銃を拾うことを拒否している。

写真の中の鷹宮が笑っている。自分を抱き上げて、桜の下で。その笑顔は偽造できるものではなかった。これほどの温度を作り物で再現することは、誰にもできない。レイにはわかる。本物の感情と偽物の感情を見分けることだけは、殺し屋としての十一年が教えてくれた。あの腕の強さ。子供が落ちないように、けれど痛くないように加減された力。あの目の細め方。レンズ越しでも伝わる、溢れて抑えきれない類の感情。

鷹宮は——この男は、自分にとって何だ。

なぜ組織はこの男を殺させようとしている。

足音が聞こえた。

奥の区画から。重く、しかし落ち着いた歩調。急いでいない。怯えてもいない。侵入者がいると知った上で、武器を構えずに歩いてくる人間の足音。レイは顔を上げた。涙は出ていない。泣き方は十一年前に忘れた。だが視界が歪んでいた。何か別のものが目の奥を灼いている。

コンテナの仕切りの向こうから、影がひとつ現れた。スタンドライトの逆光で輪郭だけが浮かぶ。長身。短髪。肩幅の広い、写真より十一年分の疲労を背負った体躯。

鷹宮誠一郎が、そこに立っていた。

銃声を聞いて来たのではない。銃が落ちた音で来た。この距離で侵入者に気づいていたはずだ。それでも撃たなかった。待っていた。レイが写真を見つけるのを。あの引き出しに鍵をかけなかったのは、無防備だったからではない。いつか開けられることを、望んでいたからだ。

鷹宮の目が、レイを捉えた。暗がりの中で、あの写真と同じ色をしていた。十一年分の悔恨と、まだ届くかもしれないという微かな祈りを湛えた目。唇が震えるのを、鷹宮自身が抑えようとして、抑えきれていなかった。

「——大きく、なったな」

声が震えていた。殺し屋としての直感が告げている。この声は本物だ。作れない。練習できない。十一年という時間の重さそのものが、声帯を軋ませている。

レイの唇が開いた。問いたいことが百はあった。なぜ自分を知っている。なぜ写真を持っている。あの夜、何が起きた。母は何を隠していた。なぜ組織は——。だが喉から出たのは、かすれた一語だけだった。

「——誰、なの」

鷹宮が一歩、近づいた。その瞬間、レイの腰のイヤピースが鳴った。

鶴見の声。冷たく、平坦な、十一年間聞き慣れた無機質な音。

「まだ終わっていないぞ、レイ」

倉庫の外で、複数のエンジン音が重なった。タイヤが砂利を噛む音。ドアが開く金属音。足音。一つ、二つ——数え切れない。

包囲されている。

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