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引き金の向こう、最後の真実

第1話 第1話

第1話

第1話

スコープの十字線が、男の側頭部に吸いつく。

風速二・三メートル。湿度七十四パーセント。工業地帯の夜風が、屋上のコンクリートを舐めていく。風に混じる油と錆の匂いが鼻腔を刺した。三百二十メートル先、ターゲットはオフィスビルの裏口で煙草を吸っている。紫煙が街灯の光を受けて白く漂い、やがて闇に溶けた。レイは呼吸を止めた。心拍の谷間。全身の筋肉から力が抜け、意識が指先の一点に収束する。引き金に添えた人差し指が、〇・三ミリだけ沈む。

乾いた破裂音。減音器を通した銃声は、遠くの工場が吐き出す金属音に紛れて消えた。

スコープの中で、男が崩れ落ちる。膝が折れ、壁に肩をぶつけながら地面に沈んだ。コーヒーカップが宙を舞い、アスファルトに黒い染みを広げた。湯気がまだ立っている。数秒前まで生きていた人間の体温が、夜気に奪われていくのが見えるようだった。ターゲットKー〇七三。本名も顔も、三十分前にファイルで初めて見た。組織が「処分」と言えば処分する。それだけだ。

レイは狙撃銃を分解し始めた。手が覚えている。十七歳の手は細いが、この作業に関しては誰より正確だった。指の腹がグリップの擦り傷に触れる。この銃を初めて握った夜のことを思い出しかけて、すぐに記憶を閉じた。余計なことを考える暇があるなら、手を動かす。

バレル、ボルト、ストック。専用ケースに収めるまで四十七秒。ビルの非常階段を降りながら、イヤピースに指を当てる。

「完了」

一言で十分だった。

---

回収地点の地下駐車場。蛍光灯が一本切れかけて、不規則に明滅している。コンクリートの壁に反射する光が、駐車場全体を病室のように青白く染めていた。排気ガスと埃の混じった空気が、肺の底に沈む。黒いセダンの助手席に、ハンドラーの鶴見が座っていた。五十代半ば、痩せた顎、感情の読めない薄い目。レイが知る限り、この男は十一年間まったく同じ表情をしている。怒りも、安堵も、嫌悪も見せない。任務完了を報告しても、失敗を報告しても、おそらく同じ顔をするのだろう。

「綺麗な仕事だ」

鶴見がタブレットを操作し、処分完了の報告を送信する。画面の青い光が、鶴見の頬骨の影を深くした。レイは後部座席に滑り込み、ケースを足元に置いた。革のシートが体温を吸い取るように冷たい。車内に沈黙が落ちる。いつものことだ。任務の後に交わす言葉など、互いに持ち合わせていない。

「次の資料だ」

鶴見が封筒を差し出す。マニラ紙の封筒は厚みがあった。通常の処分案件より情報量が多い。レイは受け取り、中の写真を引き抜いた。四十代後半の男。鋭い目つき、短く刈った白髪混じりの髪。どこかの屋外で撮られた盗撮写真。背景にはコンテナヤードのクレーンがぼやけて写っている。

「鷹宮誠一郎。元公安の非公式オペレーター。現在は独自のネットワークで地下に潜っている」

鶴見の声は淡々としていたが、いつもより僅かに低かった。それが何を意味するのか、レイには判断がつかない。

レイは写真を見つめた。任務説明はいつも同じ流れだ。名前、経歴、行動範囲、推定戦力。興味はない。処分すべき対象の情報を頭に入れ、最適な手段を選び、実行する。それが自分という道具の使い方だ。

六歳のあの夜から、ずっとそうだった。

炎の記憶がよぎる。家の中に広がる煙。熱風が頬を焼く感覚。母の手が自分を押し出した感触——骨ばった指が背中を突き飛ばすように、強く。振り返ったとき、玄関が炎に呑まれるのを見た。父の叫び声。妹の泣き声。ガラスが割れる甲高い音。それきり、何も聞こえなくなった。記憶はそこで途切れている。途切れたまま、十一年が過ぎた。

路上で膝を抱えていたレイを拾ったのが、組織だった。泣き方すら忘れた子供に、銃の握り方を教えた。お前の家族を殺した人間がいる。復讐したいなら、力をつけろ。その言葉だけが、レイの心臓を動かし続けてきた。

「鶴見」

「何だ」

「これで何人目だ」

鶴見の指がタブレットの上で止まった。レイがこの種の質問をすることは、まずない。蛍光灯が一度消え、また点いた。鶴見の表情が闇に沈み、再び浮かび上がる。その一瞬の空白で何かが変わったのか、変わらなかったのか、レイには分からなかった。

「業務に不要な情報だ」

「そうだな」

レイは写真を封筒に戻した。何人殺したかなど、本当にどうでもいい。知りたいのは一つだけだ。家族を奪った人間の名前。それさえ手に入れば、この道具としての人生に意味が生まれる。いや——終わりが来る。

鶴見がエンジンをかけた。低い振動がシートを通じて背骨に伝わる。蛍光灯の明滅が、フロントガラスに白い縞模様を落とす。

「レイ」

鶴見の声に、かすかな抑揚があった。十一年で初めて聞く響きだった。バックミラー越しに鶴見の目を見た。薄い虹彩の奥で、何かが揺れている。

「これが最後の任務だ」

レイの呼吸が、一瞬止まる。心臓が跳ねた。抑え込んできた何かが、胸骨の裏側で暴れるように脈打つ。

「鷹宮を処分しろ。それで終わりだ。お前の——家族を殺した人間の名前を教える」

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指先が震えていた。

レイは自分の右手を見下ろした。狙撃の直後でも揺れなかった指が、封筒を握る力を制御できていない。爪が紙に食い込み、マニラ紙が微かに軋んだ。十一年。三千九百五十八日。その全部が、この一言のためにあった。

車窓の外を、工業地帯の無機質な風景が流れていく。錆びた配管。稼働を止めた煙突。オレンジ色のナトリウム灯が、等間隔に夜道を切り分ける。光と影が交互に車内を横切り、レイの膝の上の封筒を明滅させた。

終わる。

やっと、終わる。

封筒の中の写真をもう一度引き抜いた。鷹宮誠一郎。この男を殺せば、すべてに決着がつく。レイは男の顔を凝視した。鋭い目つき。だがその奥に、何か——違和感が引っかかる。写真の中の目が、こちらを見返している気がした。冷徹な目だ。だが殺意はない。もっと複雑な色をしている。

既視感だ。

この顔を、どこかで見たことがある。六歳より前の記憶は霞がかかっている。断片しか残っていない。だが鷹宮の目が、記憶の底にある何かに触れた。思い出せない。焼け落ちた家の前で見た誰かの顔が、煙の向こうで滲んでいる。手を伸ばせば届きそうで、指が触れる前に崩れる。あの夜の熱気と、この写真の冷たい紙の感触が、矛盾したまま指先で重なった。

レイは写真を封筒に戻し、目を閉じた。

関係ない。誰であろうと、処分する。それが最後の任務であり、十一年分の対価を受け取る条件だ。

「準備期間は三日だ。鷹宮のアジトは港湾エリアの——」

鶴見の説明が続く。レイは目を閉じたまま、一語も漏らさず頭に刻んだ。場所、動線、護衛の推定人数、脱出経路。すべてをインプットし終えた頃、車は高速道路に合流していた。タイヤが継ぎ目を踏むたびに、小さな衝撃が規則正しく体を揺らす。

三日後、鷹宮誠一郎を殺す。

そして——名前を手に入れる。

「ひとつ聞く」

レイは目を開けた。フロントガラスに、対向車のヘッドライトが白い線を描いて流れていく。

「仇の名前を知ったあと、私はどうなる」

鶴見は答えなかった。

バックミラー越しに、薄い目がレイを映している。十一年間変わらなかったはずの無表情に、レイは初めて、読み取れない何かを見た。後悔なのか、憐憫なのか、あるいはそのどちらでもない、もっと厄介な感情なのか。鶴見の唇が微かに動いたが、声にはならなかった。

沈黙が車内を満たす。エンジンの低い振動だけが、二人の間に残った。

レイは視線を窓の外に戻した。工場の煙突が一本、夜空に向かって白い煙を吐いている。煙は闇に溶けて消えた。跡形もなく。

——自分も、あの煙と同じだろうか。

三日。あと三日で、十一年越しの答えが手に入る。レイの右手は、もう震えていなかった。代わりに胸の奥で、名前のつかない感情が脈を打ち始めていた。期待でも恐怖でもない。もっと深い場所にある、得体の知れない何か。

レイはそれを無視した。感情は要らない。必要なのは正確な照準と、最後まで止まらない意志だけだ。

ナトリウム灯のオレンジが、レイの横顔を繰り返し照らしては消えた。

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