第2話
第2話
朝の光が写真の表面を舐めている。蓮司はデスクに三枚を広げたまま、一睡もしていなかった。コーヒーの残りは冷め切って、もう口をつける気にもならない。カップの縁に茶色い輪染みができている。事務所の空気は澱んでいて、煙草の匂いが壁紙に染みついたまま抜けない。
写真を一枚ずつルーペで確認する。午前二時に事務所を飛び出し、現場周辺を歩き回って戻ってきたのが四時過ぎ。それから五時間、この三枚と向き合っている。目の奥が熱い。瞬きのたびに乾いた痛みが走るが、視線を外すことができなかった。
一枚目。俯瞰の角度。画角から逆算すると、撮影ポイントは現場向かいの雑居ビル——新宿通り沿いの「第三コスモビル」の三階か四階だ。蓮司の記憶では、三階は空きテナント、四階は小さな会計事務所が入っていた。事故当日は土曜日。会計事務所は休みだったはずだ。三階の空きテナント。鍵さえあれば、誰でも入れる。
二枚目に焦点を合わせる。美咲の周囲にいる二人の人影。一人は黒のダウンジャケット、もう一人はグレーのコート。通行人なら立ち止まって助けるか、少なくとも動揺を見せる。この二人には動揺がない。体の重心が安定している。訓練された動き。何かを美咲の手元から回収している。鞄か、あるいは——USBか、書類か。ルーペの倍率を上げた。グレーのコートの男の右手が、美咲のバッグの持ち手に触れている。指の角度が自然ではない。掴むのではなく、探っている。特定の何かを抜き取る動作だ。
三枚目。カメラを見上げる男の顔。雨と暗さに潰れて判別できないが、輪郭から推定して三十代後半から四十代前半。短髪。体格はがっしりしている。そして、笑っている。自分の仕事に満足した人間の顔だ。
蓮司は椅子の背にもたれ、天井を見た。染みの数を数える気にもならない。頭の中で情報を組み立てる。こめかみの血管が脈打っている。怒りではない。もっと冷たい、鉄の味がする感情だった。
撮影者は実行犯とは別にいた。少なくとも三人が関与している。上から撮っていた人間、地上の二人。組織的な犯行。しかも撮影者は記録を残す目的で配置されている。報告用か、あるいは脅迫の材料として。そしてその写真が三ヶ月後に蓮司の元に届いた。組織の内部から漏れたか、撮影者自身が独自に動いているか。
どちらにしても、一つだけ確かなことがある。これは「事故」ではなかった。最初から、計画的に美咲は殺された。
蓮司はスマートフォンを取った。連絡先を一つ選ぶ。三ヶ月間、一度もかけなかった番号。堂島省吾。新宿署刑事課の主任。蓮司が警察にいた頃の相棒だった男。
三コールで出た。
「——蓮司か。朝っぱらから何だ」
低い声。寝起きではない。もう勤務に入っている時間帯だ。
「会いたい。非公式でいい」
「お前と会うのに公式も非公式もねえだろ。何の用だ」
「見せたいものがある」
間があった。電話の向こうで堂島が何かを飲む音がする。缶コーヒーだろう。堂島はいつも缶のブラックを飲んでいた。
「……昼に新宿御苑の裏。いつもの喫茶店」
正午。蓮司は写真のコピーをコンビニで取り、原本は事務所の金庫に入れた。小型の金庫は美咲と暮らしていた頃のもので、暗証番号は二人の結婚記念日だ。金庫の蓋を閉めるとき、指先が小さく震えた。この番号を変えられないまま三ヶ月が過ぎている。それから身支度を整え、事務所を出た。
裏通りの喫茶店は昭和から時間が止まったような店だ。革張りのソファが擦り切れ、壁に煤けた油絵が掛かっている。常連以外は来ない。堂島は奥のボックス席にいた。がっしりした体格。刈り上げた頭に白いものが増えている。蓮司より五つ上の四十八歳。目の下の隈は蓮司以上に深い。
「痩せたな」
堂島が言った。蓮司は向かいに座り、封筒からコピーを抜いて並べた。堂島の目が細くなった。写真を一枚ずつ手に取り、じっくりと見る。表情が変わった。主任刑事の顔になっている。
「誰から来た」
「差出人不明。昨夜、事務所の郵便受けに直接投函されていた」
「原本は」
「金庫にある。手袋で扱った。指紋は期待できないだろうが」
堂島は三枚目を持ち上げ、光に透かした。それからテーブルに戻し、コーヒーカップを握った。握る力が強い。指の関節が白くなっている。
「このアングル、第三コスモビルの三階だな」
「そう読んだ。当日は空きテナント」
「管理会社に当たれば鍵の貸出記録が——いや」堂島は首を振った。「まともな連中なら記録なんか残さない」
沈黙が落ちた。喫茶店のマスターがカウンターの奥で食器を洗う音だけが聞こえる。水が陶器を叩く、規則的な音。どこか遠い世界の出来事のように聞こえた。
「堂島。これで十分だろう。美咲の件を再捜査する根拠になる」
堂島の目が蓮司を射抜いた。そこにあったのは同情でも怒りでもなく、恐怖に近い何かだった。蓮司はその目を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。堂島省吾は怖がる男ではない。暴力団の事務所に二人で踏み込んだことがある。発砲された現場で、背中を預けた男だ。その堂島の瞳の奥に、蓮司が見たことのない種類の影が落ちていた。
「蓮司、聞け。一度だけ言う」
堂島は声を落とした。店内に他の客はいないが、壁に耳があるかのように。
「この件からは手を引け」
蓮司の顎が引き締まった。
「理由を言え」
「言えない。だから手を引けと言っている」
「美咲が殺されたんだ。この写真がその証拠だ。それでも手を引けと言うのか」
堂島は目を閉じた。三秒。五秒。目を開けたとき、その中に何かが揺れていた。蓮司には読めた。堂島は何かを知っている。知っていて、黙っている。
「鑑定してくれ。せめてそれだけでいい。撮影に使われた機材の特定。プリンターの機種。紙の種類。非公式で構わない」
「……お前は昔からそうだ。引き際を知らない」
「知ってる。だから刑事を辞めた」
堂島は長い溜息を吐いた。テーブルの上のコピーを見下ろし、それからゆっくり一枚を手に取った。
「一週間だ。それ以上は無理だ。俺にも立場がある」
「十分だ」
「蓮司」堂島の声が変わった。重くなった。「俺はお前の味方だ。それは変わらない。だがこの先にあるものは——お前が思っているより、ずっと深い」
蓮司は答えなかった。深かろうが浅かろうが、美咲を殺した人間がいる。その事実は変わらない。
喫茶店を出ると、春の陽射しが眩しかった。雨は上がっている。蓮司は事務所に向かって歩いた。堂島の言葉が頭の中で回っている。「ずっと深い」。堂島が何を知っているのかはまだ分からない。だが、あの恐怖の目は本物だった。
ビルの階段を上がり、事務所のドアの前で足が止まった。
鍵が開いている。
蓮司は今朝、確実に施錠して出た。それは習慣であり、元刑事としての本能だ。鍵を閉め忘れることは絶対にない。右手が自然にジャケットの内側に伸びる。警棒の感触を確かめる。冷たい金属の重みが掌に馴染む。呼吸を整え、ゆっくりとドアを押した。蝶番が小さく鳴る。
事務所の中は薄暗い。ブラインドが下ろされている。朝出たときは上げていた。空気の質が変わっている。微かに——香水の残り香。甘さを抑えた、柑橘系の。ベルガモットに近い。この事務所に三ヶ月間、蓮司以外の人間の気配はなかった。それが今、明確に別の誰かの存在を告げている。
奥のソファに、人影があった。
女だ。脚を組んで座っている。蓮司が入ってきても動かない。暗がりの中で、白い顔だけがぼんやりと浮かんでいる。三十代半ばか。黒髪をひとつに束ねている。目が大きい。その目が蓮司を真っ直ぐに見ている。怯えはない。むしろ、蓮司を値踏みするような静かな光がある。
「鍵は壊していません。ピッキングです。弁償が必要なら言ってください」
落ち着いた声だった。低すぎず高すぎず、はっきりとした発音。場慣れしている人間の喋り方。蓮司は警棒を握ったまま、一歩も動かなかった。ドアは背中で開けたままにしてある。退路の確保。基本だ。
「名前は」
「あなたに依頼があって来ました。神崎蓮司さん——元新宿署刑事課、現在は私立探偵。奥様を三ヶ月前に亡くされた」
蓮司の目が細くなった。
「質問に答えろ。名前は」
女は一瞬だけ迷うような間を置いて、口を開いた。
「桐生彩香。あなたの奥様と同じものに——殺されかけた人間です」
事務所の空気が、一度凍った。