第1話
第1話
雨が窓を叩いている。三ヶ月間、同じ音を聞いている。規則的なようで不規則な、あの叩きつけるリズム。最初の頃は気が狂いそうだった。今はもう体の一部みたいに馴染んでいる。それが余計に怖い。慣れるということは、この生活を受け入れ始めているということだ。
神崎蓮司は事務所の椅子に沈み込み、デスクの上の写真立てを見つめていた。写真の中で美咲が笑っている。去年の春、二人で行った鎌倉。風に髪を押さえながら、こっちを振り返った瞬間。シャッターを切ったのは自分だ。あのとき美咲は「撮るなら言ってよ」と口を尖らせて、それから「でも、いい写真だったら許す」と笑った。いい写真だった。きっとこれからもずっと、蓮司が撮った中で一番いい写真であり続ける。
デスクの端にウイスキーの瓶がある。封は切ってある。琥珀色の液面が蛍光灯の光を鈍く反射している。グラスに手を伸ばしかけて、止めた。指先がグラスの縁に触れた冷たさだけが残った。飲んだら眠れる。眠ったら朝が来る。朝が来たら、また何もできない一日が始まる。
飲まない。まだ終わっていない。
蓮司は椅子を軋ませて身を起こし、引き出しからファイルを取り出した。自分で作った調査記録。三ヶ月分の矛盾が、付箋だらけの紙束に詰まっている。黄色、青、ピンク——色分けには意味がある。黄色は未確認情報、青は裏が取れた事実、ピンクは矛盾点。ファイルを開くたびにピンクの付箋が増えていく。
事故現場の防犯カメラは「故障中」だった。四台中四台。全部が同時に壊れる確率を計算する気にもならない。所轄の捜査は二週間で打ち切り。交通事故処理係の若い刑事は「これ以上調べようがない」と電話口で言った。声に申し訳なさはあったが、それだけだった。検死報告書には右側頭部の裂傷と頸椎損傷が記載されているが、蓮司が遺体を見たとき、左の鎖骨の下に拳大の打撲痕があった。紫と黄色が混じった、生々しい変色。交通事故の衝突パターンとは明らかに異なる、局所的で深い打撲。報告書にその記載はない。
元刑事の眼は腐っていない。これは事故じゃない。
スマートフォンを開く。画面の光が暗い事務所で白く浮かぶ。メッセージアプリの画面に、美咲から最後に届いたテキストが残っている。死の六時間前。既読にしたのは、すべてが終わった後だった。あのとき蓮司は別の案件の張り込み中で、スマートフォンを見る余裕がなかった。もし見ていたら何か変わっていたのか。その問いに答えは出ない。一生出ないだろう。
『蓮司、お願い。"白鷹"には近づかないで』
白鷹。人名か、組織名か、コードネームか。三ヶ月調べて何も出てこない。警察のデータベースにも、暴力団の系譜にも、企業名にも引っかからなかった。美咲は弁護士だ。守秘義務の壁の向こう側に何かがあったのか。だが美咲はもういない。壁の向こうを覗く手段は、蓮司には残されていなかった。美咲の事務所の同僚にも当たった。誰もが口を揃えて「聞いたことがない」と言った。嘘をついている様子はなかった。白鷹は美咲だけが知っていた何かだ。
雨脚が強まる。窓の外、歌舞伎町のネオンが滲んでいる。赤、青、紫。色が雨粒を通して混じり合い、アスファルトの上に水彩画のように広がっている。どこかの店から低い重低音が漏れてくる。この街は午前二時でも息をしている。
蓮司はファイルを閉じ、首の後ろを揉んだ。筋が張っている。肩から首にかけて、鉄板でも入っているんじゃないかという硬さだ。午前二時。眠気はない。この三ヶ月、まともに眠れた夜は数えるほどしかない。美咲の顔が浮かぶたびに、胸の奥で何かが軋む。怒りなのか悲しみなのか、もう区別がつかなくなっている。時々それは後悔の形をしている。あのメッセージにすぐ返信していたら。弁護士の仕事に口を出していたら。もっと早く異変に気づいていたら。元刑事が身内の異変を見落とした。その事実は、何度反芻しても喉に骨が刺さったように痛む。
ただ一つ確かなのは、真実が隠されているということだ。
誰が美咲を殺した。なぜ殺した。「白鷹」とは何だ。
答えのない問いが頭の中で回り続ける。蓮司は立ち上がり、小さなキッチンでコーヒーを淹れた。インスタント。湯気が立ち上る。安っぽい人工的な香りが鼻をつく。マグカップは美咲が選んだやつだ。持ち手のところに小さな猫の絵が描いてある。白猫が毛糸玉で遊んでいる、ゆるい絵柄。元刑事が猫のマグカップでコーヒーを飲む。美咲はそのギャップが好きだと笑っていた。「蓮司って怖い顔してるのに、こういうの嫌がらないのがいいよね」。嫌がらないんじゃない。お前が選んだから使ってるだけだ。そう返したら、美咲はもっと笑った。
コーヒーを一口含む。苦い。砂糖を切らしていた。舌の上に広がる苦味が、頭を少しだけ冴えさせる。
そのとき、階下で音がした。
郵便受けの蓋が閉まる金属音。薄い鉄板が弾むような、甲高い響き。午前二時に郵便は来ない。
蓮司の体が自動的に動いた。十五年間の習慣は体に染みついている。マグカップを音を立てずにデスクに置き、二段目の引き出しを開けた。奥に仕舞ってある護身用の特殊警棒を掴む。冷たい金属の感触が掌に馴染む。足音を殺して階段を降りた。階段は古い木製で、三段目と七段目が軋むことを知っている。そこを避けて壁際を踏む。事務所は雑居ビルの三階。一階の共用エントランスに郵便受けが並んでいる。
エントランスに人影はなかった。蛍光灯が一本切れかかっていて、明滅を繰り返している。消毒液と埃が混じった匂いがする。ガラス扉の向こう、雨に濡れた路地を誰かが歩き去る背中が見えた気がしたが、暗くて判別できない。黒っぽい上着。それ以上の情報はない。蓮司は数秒間、路地の闇を睨んでから視線を郵便受けに移した。
郵便受けに白い封筒が一通。差出人の記載はない。切手もない。直接投函されたものだ。
蓮司は封筒を摘まみ上げた。薄い。中身は紙が数枚。封筒の表面に指紋を残さないよう端を持つ。元刑事の癖だ。事務所に戻り、デスクライトの下で封を切った。
写真が三枚、滑り出た。
呼吸が止まった。
一枚目。雨に濡れた交差点。美咲が倒れている。アスファルトの上に広がった髪が雨水に浮いている。見覚えのある現場だ。だが、このアングルは知らない。公式の記録写真は地上から撮られていた。この写真は高い位置から——おそらく向かいのビルの三階か四階から撮影されている。俯瞰。まるで獲物を見下ろすような構図だ。
二枚目。同じ角度。美咲の周囲に人影が二つ。事故直後なら通行人か救急隊員だろう。だが二人とも美咲に背を向けている。助けようとしていない。何かを拾い上げている。美咲の鞄の中身か、あるいは手に持っていた何か。その動作には明らかな目的がある。慌てた様子がない。手慣れている。
三枚目。人影の一人がこちら——つまりカメラの方向を見上げている。顔は雨と暗さでぼやけているが、口元が見える。笑っている。
蓮司の指先が震えた。写真を持つ手に力が入る。紙の端が微かに撓む。こめかみの奥で血が脈打っている。
これは事故現場の記録じゃない。誰かが「事前に」あの場所にいて、起きることを知っていて、カメラを構えていた。そしてその写真を、三ヶ月後の今、蓮司に送りつけてきた。
なぜだ。
挑発か。警告か。それとも——協力の申し出か。
封筒を裏返す。何もない。写真の裏も確認する。三枚目の裏に、小さな文字が一行だけ書かれていた。手書きではない。プリントされた明朝体。感情を排した、事務的な書体。
『彼女は事故で死んだのではない。あなたは正しい。』
蓮司は写真をデスクに並べた。三枚を横に。デスクライトの丸い光の中に、美咲の最期が並ぶ。手の震えが止まった。代わりに、腹の底から何かが這い上がってくる。三ヶ月間、凍りついていた感情の塊。それが熱を持ち始めている。凍土の下のマグマが地表を押し上げるように、じわりと、確実に。
窓の外で雷が鳴った。一瞬、事務所が白く照らされる。デスクの上の三枚の写真が、フラッシュのように浮かび上がって消えた。
蓮司はスマートフォンを取り、美咲の最後のメッセージをもう一度見た。
『"白鷹"には近づかないで』
「悪いな、美咲」
声に出していた。誰もいない事務所に、低い声が落ちる。雨音がその声を吸い込んで消す。
「近づくなと言われて引き下がれるほど、俺はできた人間じゃない」
写真を封筒に戻し、ファイルに挟んだ。コーヒーを飲み干す。砂糖なしの苦さが、今は丁度いい。口の中に残る苦味が、意識を鋭く研いでくれる。
差出人が誰であれ、これは最初の手がかりだ。三ヶ月間閉ざされていた扉に、誰かが鍵を差し込んできた。罠かもしれない。だが罠だとしても、動くしかない。撮影場所を特定する。向かいのビルの三階か四階。テナントを調べ、当日誰が出入りしたかを洗う。元刑事にはそのくらいの伝手がまだある。何人かには嫌な顔をされるだろう。辞め方が辞め方だ。だが、頭を下げることに躊躇はない。
デスクの上の写真立てに目を落とす。美咲が笑っている。鎌倉の風が、写真の中で永遠に吹き続けている。
「待ってろ。必ず辿り着く」
雨は止まない。蓮司は上着を掴み、事務所を出た。午前二時半。階段を降りる足取りは、三ヶ月ぶりに確かだった。眠れない夜が、ようやく意味を持ち始めていた。