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白鷹の雨

第3話 第3話

第3話

第3話

桐生彩香。その名前に聞き覚えはない。

蓮司は警棒を下ろさないまま、壁際のスイッチに手を伸ばした。蛍光灯が点く。白い光が事務所を満たし、女の輪郭が鮮明になった。黒のタートルネックにグレーのジャケット。化粧は薄い。左手の薬指に指輪の跡がうっすら残っている。外してそれほど経っていない。鞄は膝の上。革製。使い込まれているが上質なもの。ファスナーを開けたまま座っている。中にA4サイズのクリアファイルが見えた。

「殺されかけた、と言ったな」

「ええ」

「続けろ」

彩香は蓮司を見上げた。値踏みの目は消え、代わりに何かを測る慎重さがあった。言葉を選んでいる。嘘をつこうとしているのか、真実をどこまで出すか計算しているのか。蓮司は十五年の取調べ経験でその違いを嗅ぎ分けてきた。今の彩香は後者だ。全部は話さないが、嘘はつかない。そういう目をしている。

「私はヘリオスグループの中央研究所に五年間勤務していました。薬理学の研究員として。夫の桐生裕也は同じ研究所の臨床開発部にいました」

ヘリオスグループ。名前は知っている。東証プライム上場の大手製薬企業。新宿に本社ビルがある。CMもよく見る。清潔な白衣の研究者たちが微笑む、あの企業イメージ広告。

「夫は一年半前に死にました。交通事故、ということになっています」

蓮司の指が警棒の上で止まった。

「ということになっている」

「はい。信号無視のトラックに轢かれた。運転手は居眠りだったと供述しました。起訴猶予。捜査終了」彩香の声に感情の波が立った。一瞬だけ。すぐに抑え込まれた。「防犯カメラの映像は——」

「故障で残っていなかった」

蓮司が先に言った。彩香が目を見開いた。

「なぜ——」

「同じだからだ。美咲のときも。カメラ四台、全て故障中」

沈黙が落ちた。事務所の蛍光灯がジジ、と音を立てている。二人の間に、同じ形の穴が空いていた。愛する人間を奪われ、「事故」という蓋をされ、真実を塞がれた穴。蓮司は警棒をデスクに置いた。この女から暴力の気配はない。あるのは、蓮司自身と同じ種類の何か——抑え込まれた怒りと、行き場のない悲しみの残滓だ。

「座ってくれ」

彩香は少し驚いた顔をした。蓮司がデスクの椅子に腰を下ろし、顎でソファを示す。彩香は姿勢を正した。鞄からクリアファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。

「見てください」

ファイルを開く。中に数枚の紙。一枚目はリストだった。手書きではない。表計算ソフトから出力したような整然とした表。七行。各行に名前、年齢、死亡日、死因、そしてヘリオスグループとの関係が記されている。

一行目。村瀬隆三、五十四歳、二〇二四年三月十二日、心不全。ヘリオス中央研究所・元主任研究員。

二行目。安達真由美、三十一歳、二〇二四年六月八日、転落事故。ヘリオスファーマ・品質管理部。

三行目。小野寺剛、四十七歳、二〇二四年九月二十日、交通事故。ヘリオスグループ・法務部顧問弁護士。

四行目。桐生裕也、三十八歳、二〇二四年十月十五日、交通事故。ヘリオス中央研究所・臨床開発部。

蓮司の目が止まった。四行目。彩香の夫。

五行目、六行目と視線を滑らせる。全員がヘリオスの関係者。全員が「事故」か「病死」。二年間で七人。偶然で片づけるには多すぎる。しかし個々の事案を見れば、どれも不審死として立件するには材料が足りない。蓮司には分かる。元刑事として、こういう「きれいな死」がどれほど厄介かを知っている。一件一件は完璧に処理されている。だが七件を並べると、パターンが浮かぶ。

七行目に目が届いた。

神崎美咲、三十五歳、二〇二六年一月九日、交通事故。ヘリオスグループ顧問弁護士の担当案件関係者。

指先が冷たくなった。リストの最後に、美咲がいた。名前の横に赤いアンダーラインが引かれている。彩香が引いたものだ。

「全員がヘリオスに繋がっている」彩香が言った。「そして全員が——」

「白鷹会」

蓮司の口から出た言葉に、彩香の体が強張った。目が鋭くなる。

「その名前を知っているんですか」

「美咲が遺した。最後のメッセージに」蓮司はスマートフォンを取り出し、画面を見せた。『"白鷹"には近づかないで』。「これだけだ。意味は分からなかった。三ヶ月調べて何も出てこなかった」

彩香は画面を見つめ、それからゆっくりと頷いた。

「白鷹会。ヘリオスグループの——裏の顔です。表に出ない。どこにも登記されていない。私が知ったのは、夫が死ぬ二週間前でした」

蓮司の胸の中で、何かが砕けた。音もなく。三ヶ月間、暗闇の中を手探りで歩いていた。壁にぶつかり、行き止まりに突き当たり、同じ場所を何度も回った。白鷹という二文字だけを握りしめて。それが今、目の前の女の口から、実体を持って現れた。美咲の最後の言葉と、このリストが一本の線で繋がった。

偶然ではない。美咲は知っていたのだ。この七人のうちの誰かの——おそらく法務部の小野寺か、あるいは別の被害者の遺族の相談を受ける中で、白鷹会の存在に触れた。だから殺された。

蓮司は椅子の背にもたれた。天井の染みが視界に入る。数えない。今はそんな余裕がない。腹の奥で、三ヶ月間凍っていたものが完全に溶けた。怒りではない。もっと静かで、もっと危険なもの。覚悟だ。

「神崎さん」彩香が身を乗り出した。声が低くなる。「警察は動きません。夫の件でも、村瀬さんの件でも、私は何度も訴えました。全て門前払いです。証拠不十分。捜査の必要なし。まるで——」

「上から止められているように」

彩香が頷いた。

「あなたしかいないんです。元刑事で、捜査の技術を持っていて、そして——同じものを奪われた人間」

蓮司は彩香を見た。大きな目の奥に必死さがある。だが、それだけではない。何かを隠している層がある。全てを話してはいない。蓮司の直感がそう告げている。この女は信用しきるには早い。だが、リストは本物だ。白鷹会の名前は本物だ。美咲の名前がそこにある。それも本物だ。

「一つ聞く」

「何でしょう」

「この写真を送ってきたのは、あなたか」

彩香の眉が動いた。困惑。演技ではない。

「写真?」

「昨夜、ここの郵便受けに届いた。美咲の事故現場を上から撮った写真だ」

「いいえ。私ではありません」彩香の声に動揺が混じった。「そんな写真が存在するなら——撮影者は現場にいた人間です。白鷹会の、実行に関わった人間」

蓮司は黙った。封筒の差出人と彩香は別。ならば、蓮司に接触しようとしている人間が少なくとも二人いる。彩香と、写真の送り主。それぞれの目的が一致しているのか、別なのか。まだ分からない。

「依頼を受けてくれますか」

蓮司は立ち上がった。窓際に歩き、ブラインドの隙間から外を見た。午後の新宿。人の流れ。車の列。この街のどこかに、美咲を殺した人間がいる。七人を殺した組織がある。白鷹会。ヘリオスグループ。でかい。個人探偵が突っ込んでいい相手じゃない。堂島の声が蘇る。「お前が思っているより、ずっと深い」。分かっている。深いことは分かっている。

だが、美咲の名前があのリストにあった。

蓮司は振り返った。彩香がソファから蓮司を見上げている。

「考えさせろ」

彩香の目に落胆が走った。だがすぐに消えた。予想していた反応だったのかもしれない。

「いつまで——」

「明日の朝。ここに来い。同じ時間でいい」

彩香は立ち上がり、鞄を抱えた。クリアファイルはテーブルの上に残したままだ。

「資料は置いていきます。確認してください」

蓮司は頷いた。彩香がドアに向かう。その背中に声をかけた。

「桐生。一つだけ言っておく」

彩香が振り返った。

「俺に隠し事をするな。嘘をついたら、その瞬間に降りる。相手が誰であろうと」

彩香の唇が微かに震えた。何かを言いかけて、飲み込んだ。小さく頷き、事務所を出ていった。ヒールの音が階段を降りていく。三段目が軋んだ。

蓮司は一人になった事務所で、リストをもう一度見た。七つの名前。七つの死。そして末尾に、美咲。

デスクの引き出しを開けた。奥に、美咲の写真と並んで、古い警察手帳が入っている。もう効力はない。ただの革の塊だ。その隣に、封筒に入った三枚の写真がある。

二つの手がかりが揃った。写真と、リスト。点と点が線になり始めている。

窓の外で、街が動いている。何も知らない顔で。蓮司はブラインドを閉め、デスクに向かった。リストの七人を、一人ずつ洗う。朝までに終わらせる。

明日、彩香が来たとき、答えは決まっているだろう。最初から決まっていたのかもしれない。美咲の名前を見た瞬間に。

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