第2話
第2話
闇の中で、目が慣れるのを待った。
普通ならそうなる。人間の目は暗順応する。瞳孔が開き、僅かな光を拾い、やがて輪郭が浮かぶ。だが、この屋敷の闇はそうではなかった。一分経っても、二分経っても、何も見えない。闇そのものに厚みがある。空気を吸うたびに、闇の粒子まで一緒に飲み込んでいるような気がした。肺の中に黒い砂が溜まっていく感覚。
右手に霊力を灯した。紫色の光が指先に宿り、周囲三メートルほどを照らし出す。
玄関の土間。古い板張り。靴脱ぎ石。そこまでは普通の日本家屋だった。ただ、壁が妙だった。土壁の表面に、無数の細い筋が走っている。ひび割れではない。規則的すぎる。よく見ると、それは文字だった。読めない文字。梵字でも古代文字でもない、見たことのない記号が、壁一面を覆い尽くしている。触れてみる。指先に湿り気。壁が汗をかいていた。生温い。体温に近い温度の水滴が、指の腹を伝って手首まで滑り落ちた。拭っても、湿った感触がいつまでも肌に残る。
背後の引き戸を振り返る。
閉まっている。先ほど、自分の意思とは無関係に閉じた戸だ。外に出る気はなかったが、念のため確認しておくべきだろう。手をかけて引く。動かない。押してもみる。微動だにしない。木と木が噛み合っているのではなく、戸そのものが壁と一体化したかのようだった。継ぎ目を指で探る。ない。さっきまで確かにあった引き戸の溝が、消えている。
ポケットから携帯を取り出した。画面は点く。時刻は午後一時十七分。だが、電波を示すアイコンが消失していた。圏外ですらない。電波という概念そのものが、この空間から抜け落ちたかのように、アイコンの表示枠自体が画面上に存在しなかった。GPSも死んでいる。コンパスアプリを開くと、針がゆっくりと回転し続けている。北を見失った羅針盤。この屋敷は、外の世界と切り離されている。
「——上等だ」
むしろ好都合だった。退路がないほうが、集中できる。俺は靴のまま板張りに上がり、廊下へ足を踏み入れた。
廊下は真っ直ぐに伸びていた。霊力の光が届く範囲では、左右に襖が並んでいる。すべて閉じている。天井は高く、梁が太い。立派な屋敷だったのだろう。だが今は、すべてが腐食の途上にある。柱の表面は灰色に変色し、触れれば崩れそうな脆さを湛えていた。足を踏み出すたびに、板張りが湿った音を立てた。靴底を通しても伝わる冷気が、足首から這い上がってくる。
匂いが変わった。
門前で嗅いだ甘い腐臭が、ここでは一段と濃い。花と腐敗が混じり合った甘さに加えて、別の層が乗っている。線香。それも安い線香ではなく、寺院で焚くような重い白檀の香り。誰かが最近焚いたのか、それとも百年前の残り香がこの空間に封じ込められているのか。甘さと聖性と死が、不気味に調和していた。舌の奥に苦味が残る。匂いではなく、味として感じるほど濃密だった。
五歩ほど進んだところで、音が聞こえた。
泣いている。——いや、笑っている。判別できなかった。高い声が細く震えながら、廊下の奥から漂ってくる。子供の声のようでもあり、老人の声のようでもある。一つの声が複数の声に分裂し、また一つに収束する。和音のように重なり、不協和音のように軋む。それが壁の中から、天井の裏から、床板の下から、同時に滲み出してくる。
屋敷全体が、鳴いている。
俺は立ち止まらなかった。立ち止まれば、あの音に耳を傾けてしまう。傾ければ、意味を拾ってしまう。意味を拾えば——。直感が告げていた。この音の中身を理解してはいけない。
廊下の突き当たりに、大きな扉があった。観音開きの板戸。装飾はないが、木目が異様に美しい。霊力の光に照らされた木目が、水面の波紋のように揺らいで見えた。目の錯覚だ——と思いたかったが、確かに動いている。木目の筋が、ゆっくりと、蛇のように這い回っている。
この扉は生きている。屋敷そのものが、生きている。
試してみることにした。
右手に霊力を集中させる。通常の除霊で使う量の、三倍。紫色の光が手首まで駆け上がり、関節が軋むほどの密度で圧縮される。これだけの霊力を叩きつければ、コンクリートの壁でも粉砕できる。
振り返り、閉ざされた玄関の引き戸に向けて放った。
衝撃波が廊下を逆走し、引き戸に激突する。轟音。床板が跳ね、天井から埃が降る。空気の壁が頬を叩き、髪が後ろに靡く。
埃が晴れた後、引き戸を見た。
傷一つなかった。
跡すらない。衝撃波が命中した場所を指で撫でる。滑らかな木の表面。先ほどと寸分違わぬ手触り。霊力が消えたのではない。確かに命中した。だが、吸い込まれたのだ。この屋敷が、俺の霊力を呑んだ。
——嘘だろ。
もう一度。今度は五倍の出力で。全身の霊力を右腕に集め、拳を叩きつけた。紫の閃光が廊下を焼く。眩い光の中で、俺は確かに見た。衝撃波が引き戸に触れた瞬間、木の表面に無数の口が開くのを。小さな口が一斉に開き、霊力の奔流をごくりと飲み下す。そして閉じる。何事もなかったように。
拳を下ろした。息が荒い。右腕全体が痺れていた。指の感覚が鈍い。過剰な霊力行使の代償が、末端神経を灼いている。二連続の全力行使で、霊力の残量が目に見えて減っていた。だが損傷は零。出口はない。壁も同じだろう。試すまでもなかった。
檻だ。
この屋敷は最初から、獲物を逃がすつもりなどなかった。門をくぐった瞬間から——いや、もしかすると依頼書を開いた瞬間から、俺はもう捕らわれていたのかもしれない。退屈だと嘯き、面白そうだと笑い、自ら足を踏み入れた。蜘蛛の巣に飛び込む羽虫と何が違う。
背筋を、冷たい汗が一筋伝った。
だが——口の端が、また持ち上がった。怖い。確かに怖い。だが、この恐怖は昨日までの退屈より、遥かにましだ。
「いいぜ」
声に出していた。屋敷に向かって。この闇の奥に潜む何かに向かって。
「出口がねえなら、奥に進むだけだ」
踵を返し、廊下の奥へ向かう。一歩ごとに、泣き声と笑い声の音量が上がっていく。近づいている。何かに。
十歩。二十歩。三十歩。廊下が終わらない。さっき見た突き当たりの観音扉は、歩いても歩いても近づかない。距離が伸びている。あるいは、俺が縮んでいる。感覚が狂い始めていた。自分の足音が、半拍遅れて聞こえる。残響ではない。音と動作の同期がずれている。この空間の時間は、一様に流れていないのだ。
——その時だった。
廊下の奥の暗闇から、声が聞こえた。
泣き声でも笑い声でもない。明瞭な、人間の声。
「——蓮」
名前を呼ばれた。
足が止まった。止めたのではなく、止まった。体が勝手に反応していた。聞き覚えのある声だったからだ。聞き覚えがあるどころではない。毎日聞いている声。自分が喋るたびに骨伝導で聞こえてくる、あの声。
俺の声だった。
「——蓮。こっちだ」
闇の奥で、俺の声が俺を呼んでいる。
抑揚まで同じだった。声の掠れ方、語尾の落とし方、息継ぎの癖。完璧に俺だ。録音を再生しているのとは違う。生きた声だ。今、この瞬間に、俺の喉を使って喋っている人間の声。だが俺は口を開いていない。
霊力の光を強める。廊下の奥を照らす。
何もいなかった。長い廊下が続いているだけで、人影はない。声の出所がわからない。壁からでも天井からでもなく、空気そのものが俺の声帯を持っているかのように、声はどこからともなく響いてくる。
「——楽しいだろ」
その声が言った。俺の声で。俺の口癖で。
心臓を鷲掴みにされた気がした。楽しい。確かに俺は、この屋敷に入ってから——楽しんでいた。恐怖を。未知を。自分の力が通じない事態を。退屈から解放された喜びを。
それを、この屋敷は知っている。
俺の内側を、既に覗かれている。
「……ああ、楽しいよ」
返事をしたのは、虚勢ではなかった。本心だった。だからこそ、指先が震えた。自分の本心を、自分の声で、自分以外の何かに代弁される。それがどれほど気味の悪いことか、言葉にできなかった。喉の奥が乾いていた。唾を飲み込んでも、渇きは消えない。体の内側から水分を奪われているような、じわりとした脱力感が膝まで降りてきている。
廊下の闇が、一層深くなった。
奥から、足音が聞こえてくる。俺と同じ歩幅。俺と同じリズム。
——何かが、こちらへ歩いてくる。