第3話
第3話
足音が近づいてくる。
俺は霊力を右拳に集め、構えた。紫の光が廊下を照らし、闇を数メートル先まで押し返す。足音は止まらない。俺と同じ歩幅、俺と同じリズム。だが一歩ごとに微かにずれていく。半拍早くなり、やがて半拍遅れる。同期しようとして、しきれない。模倣の精度が揺らいでいる。それが逆に不気味だった。完璧な模倣よりも、僅かにずれた模倣のほうが、人の神経を逆撫でする。
十メートル先。五メートル先。霊力の光の縁に、何かの輪郭が浮かびかけた。
——消えた。
足音が止まった。同時に、左手の襖の向こうから、別の音が聞こえた。
衣擦れ。布が床を擦る音。それから、呼吸。浅く、速い呼吸。人間の呼吸だった。怪異の気配とは違う。生きた肺が空気を出し入れしている、確かな生命の音。
襖に手をかけた。建て付けが悪く、引くと軋んだ音を立てて半分だけ開いた。中は六畳ほどの和室。霊力の光が室内を舐めるように這い回る。畳は黒ずんで、ところどころ穴が空いていた。床の間には掛軸がかかっているが、墨が滲んで何が描かれていたのか判別できない。部屋の隅に、古い箪笥が一棹。
箪笥の影に、何かが蹲っていた。
小さい。子供だ。膝を抱えて顔を伏せている。長い黒髪が肩から垂れ、畳に散っている。白い服——寝間着のようなものを着ていた。裸足だった。足の裏が黒く汚れている。素足でこの屋敷を歩き回っていた証拠だ。
「——おい」
声をかけた。反応がない。呼吸だけが続いている。浅く、速く。過呼吸一歩手前の呼吸。
「聞こえてるか。俺は除霊師だ。お前、ここの人間か」
ゆっくりと顔が上がった。
少女だった。十四、五歳。顔色は病的に白い。唇は乾いてひび割れ、目の下に深い隈が刻まれている。何日もまともに眠っていない顔だ。だが、瞳は生きていた。黒い瞳の奥に、微かだが確かな光がある。怯えの光。俺の姿を認めて、少女の目が大きく見開かれた。
「——人?」
掠れた声だった。声帯が干上がっている。水を長く飲んでいないのだろう。
「本物の、人?」
「見ての通りだ。鬼道寺蓮。依頼を受けて来た」
少女の目に涙が溜まった。が、流れなかった。涙を流すほどの水分が、もう体に残っていないのかもしれない。
「……澪」
「は?」
「名前。朽葉、澪」
朽葉。依頼主の姓だった。この少女が、朽葉家の人間。依頼書には当主としか書かれていなかった。家族の生存者がいるとは思っていなかった。
俺はポケットからペットボトルを出して差し出した。澪は一瞬躊躇い、それから奪うように受け取って口をつけた。喉が上下するのを見ながら、俺は周囲の気配を探った。怪異の濃度は廊下より薄い。この部屋だけ、僅かに浄化されている。澪自身の生命力がそうさせているのか、あるいは別の理由があるのか。
水を飲み終えた澪が、ペットボトルを両手で握りしめたまま口を開いた。
「どれくらい、ここに」
「三日……いえ、わからない。時計が動かなくなったから」
俺は携帯の画面を見た。午後一時十七分。さっきと変わっていない。止まっている。
「家族は」
澪の表情が固まった。感情が消えたのではない。感情が多すぎて、どれを表に出せばいいのかわからない、という顔だった。指がペットボトルを軋ませた。薄いプラスチックが凹む音が、静かな和室に響いた。
「死にました」
その声は平坦だった。
「お父さんが最初でした。ある朝、急に怒り出して。理由なんかなかったんです。朝ごはんを食べてたら、突然箸を折って、お母さんを殴って。その日から、お父さんは別人になりました。知らない人の悪口を叫んだり、壁を叩いたり。三日目の夜に、笑い始めました。何がおかしいのか聞いても、ただ笑ってるだけで。朝になったら、死んでました。——笑ったまま」
淡々と語っていた。だが、その淡々さが不自然だった。あまりにも整理された語り口。何度も反芻した記憶を、既に使い古した言葉で並べている。心を守るために、事実を物語に変換している。そういう喋り方だった。
「お兄ちゃんが次でした。お父さんが死んだ翌日から、急に優しくなったんです。異常なくらい優しくなって。お母さんに花を摘んできたり、私の髪を梳いてくれたり。でもその優しさが、全部——」
澪の声が揺れた。
「——ぜんぶ嘘みたいだった」
嘘みたいだった、と言った時、声の質が変わった。
一瞬だった。澪の口から出た声が、少女のそれではなくなった。もっと低い、もっと太い、成人男性の声。兄のものだったのかもしれない。あるいは父のものだったのかもしれない。澪の唇は動いていた。音は確かに澪の喉から出ていた。だが声帯の振動が、一瞬だけ別人のそれに切り替わった。
澪は気づいていなかった。
そのまま話を続けた。元の声で。
「お兄ちゃんも五日目に笑い始めました。お母さんは——お母さんは一番長く持ちました。二週間。でも最後は同じでした。笑って、笑って、笑いながら——」
また、声が変わった。
今度はもっと長かった。二秒ほど。「笑いながら」という言葉を、中年女性の声が言った。柔らかくて、温かくて、だからこそ背筋が凍るような声。母親の声だ。澪の口が、澪の母の声で「笑いながら」と言っている。喉仏のない少女の細い喉から、明らかに別の人間の音色が滲み出している。
澪は、やはり気づいていない。
平然と——いや、気づかないのではなく、気づけないのだ。声が混じることが、もう日常になっている。自分の喉を通る他人の声を、自分の声だと認識している。境界が溶けている。この少女の中で、朽葉家の死者たちの残響が、まだ鳴り続けている。
「お前だけ、なぜ生きてる」
聞くべきだった。答えを急かすつもりはなかったが、聞かなければならなかった。
澪はペットボトルを見つめた。透明な容器の中で、残った水が微かに揺れている。
「わかりません。みんな死んだのに、私だけ——何もならなかった。怒りも、優しさも、来なかった。ただ、ここにいるだけで。おかしくならなかった代わりに、何も感じなくなりました。お母さんが死んだ時も、泣けなかった。悲しいのかどうかも、わからなくなってました」
感情を喰われなかったのではない。感情ごと凍結されたのだ。喰うに値しないほど深く閉じた心は、怪異の食指が届かない。だが、それは生き延びたとは言い難い。体が生きているだけで、心は既に檻の中にある。朽葉家の呪いは、殺すことだけが目的ではない。心を壊し、感情を歪め、最後に笑わせて終わらせる。澪は壊すための猶予をまだ残されているだけだ——保存食のように。
俺は立ち上がり、部屋の中を見回した。箪笥の裏、床の間の下、天井板の継ぎ目。怪異の気配は薄いが、完全には消えていない。壁の中に、微かな脈動がある。鼓動。この部屋もまた、屋敷の一部であり、屋敷は生きている。澪がここにいることを、屋敷は許容している。逃がさず、殺さず、ただ置いている。
「除霊師は、前にも来ました」
澪が言った。
「何人も来ました。お父さんが依頼した人。お兄ちゃんがお父さんの死後に呼んだ人。お母さんが最後に頼んだ人。みんな——」
言葉が途切れた。
「みんな、どうなった」
「——逃げた人は外で発狂しました。逃げなかった人は、この屋敷のどこかにいます。たぶん、まだ」
まだ、という言葉が引っかかった。死体がある、ではなく、まだいる。生きているのか。それとも、死んでもなお屋敷に留められているのか。どちらにしても碌な話ではなかった。
「あんたは——どうするんですか。戦えるんですか。あれと」
「戦う。それしか能がねえからな」
半分は本心で、半分は自分に言い聞かせていた。玄関の引き戸が傷一つつかなかった時の感触が、まだ右拳に残っている。力で押し通せない相手。初めてだった。だが、選択肢は前に進むことしかない。
俺は襖を開け、廊下に戻った。澪は立ち上がらなかった。振り返ると、箪笥の影で膝を抱え直している。ここから動くつもりはないのだろう。この六畳が、彼女にとっての最後の砦だ。
「ついて来なくていい。でも、ここを動くな。何があっても、ここにいろ」
澪が顔を上げた。
無感情だった。恐怖でも安堵でも諦めでもない、何も浮かんでいない目。硝子玉のように透明な瞳が、霊力の紫色を映して揺れた。
「あなたも、ここで死ぬの?」
その声には、問いかけの抑揚がなかった。天気の話をするように。明日の朝食を聞くように。当然の帰結を確認するだけの、平坦な音。
俺は答えなかった。答える前に、廊下の奥から別の音が聞こえたからだ。
足音ではなかった。何かを引きずる音。重くて、湿っていて、長い。壁に沿って何かが移動している。壁の中を。音は右から左へ、ゆっくりと通り過ぎ——俺の真横で、止まった。
壁の向こう側に、何かがいる。呼吸すら聞こえる。深く、長い呼吸。だが吐く息だけだ。吸う音がない。吐いて、吐いて、吐き続けている。終わらない吐息が、壁板一枚を隔てた向こう側から、俺の耳を湿らせた。
そして——壁の表面に、顔が浮かんだ。壁板の木目が歪み、膨らみ、人の顔の輪郭を形成していく。目。鼻。口。最後に瞼が開く。その目は虚ろで、瞳がなかった。白い眼球だけが、壁の中からこちらを覗いている。
一つではなかった。二つ、三つ、四つ。廊下の壁面に次々と顔が浮かぶ。男。女。老人。子供。すべて瞳のない目でこちらを見ている。口が開き始める。一斉に、同じ言葉を。
声にはならなかった。だが、唇の動きは読めた。
——おかえり。