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最強除霊師の檻

第1話 第1話

第1話

第1話

退屈だった。

 目の前で悪霊が断末魔を上げている。かつて人だったものが黒い靄となって渦巻き、畳を焦がし、襖を吹き飛ばし、必死に抵抗している。畳の焦げる匂いが鼻腔を突き、黒い靄が天井板を舐めるように広がっていく。障子に染みた影が、人の形を取ろうとしては崩れ、崩れては取ろうとする。悲鳴は獣のそれに似ていたが、どこか人間の泣き声も混じっている。生前の記憶の残滓だろう。俺はそれを、欠伸を噛み殺しながら眺めていた。

 右手に集めた霊力を、握り潰すように放つ。それだけだ。紫色の衝撃波が座敷を貫き、悪霊の核を砕いた。核が弾ける瞬間、一瞬だけ人の顔が浮かんだ。四十代くらいの男。恐怖と怒りが混じった表情。それも衝撃波に呑まれて散った。断末魔が途切れ、焦げた畳の匂いだけが残る。依頼主の老婆が廊下で泣き崩れる声が聞こえたが、俺の耳にはもう届いていなかった。

 鬼道寺蓮。除霊師。業界では「最強」と呼ばれている——らしい。

 らしい、というのは、自分でそう名乗った覚えがないからだ。ただ、どんな怪異が来ても同じだった。霊力を叩きつければ消える。呪いだろうが祟りだろうが、力の前には等しく無力だ。十五歳で初めて霊を祓い、二十三の今まで、負けたことは一度もない。

 だから、退屈だった。

 どこへ行っても同じ手応え。どの怪異も、拳を振り上げた瞬間にはもう終わっている。恐怖を感じたことがない。感じる暇がない。俺にとって除霊は、日課のように繰り返される作業でしかなくなっていた。最近は夢すら見ない。夢を見るほどの刺激が、日常にないのだ。

 事務所に戻ると、机の上に封書が置かれていた。

 古い和紙の封筒。表書きは筆で「鬼道寺蓮殿」とだけ記されている。墨の匂いが微かにした。乾ききっていない——つまり、つい最近書かれたものだ。裏を返すと、差出人は「朽葉家当主」。聞いたことのない名前だった。

 封を切ると、中から薄い和紙が三枚。指先に触れた紙の感触が妙だった。百年前の紙のように古びているのに、折り目は新しい。時間の流れ方が歪んでいるような、奇妙な矛盾。

 中身は依頼書だった。

 ——百年間、誰にも解けなかった呪いを祓ってほしい。

 報酬の欄に目を落として、俺は思わず笑った。零が多すぎる。桁を数え直しても、やはり多すぎた。命がけの依頼でも、こんな額は見たことがない。

 添えられた手紙には、朽葉家の経緯が簡潔に記されていた。地方の旧家。百年前から家族が代々変死している。死因は様々だった。首を吊った者、池に沈んだ者、笑いながら自らの目を抉った者。共通しているのは、全員が死の直前に「声が聞こえる」と口にしたことだけだった。過去に十二人の除霊師が挑み、全員が失敗した。生存者もいるが、全員が精神を病み、まともに言葉を話せなくなったという。最後の除霊師は、屋敷から這い出てきた時、自分の名前すら忘れていたらしい。

 普通なら警戒する案件だろう。だが俺は、手紙を読み終える前に返事を書き始めていた。

「面白そうじゃねえか」

 退屈を殺してくれるなら、何でもよかった。

 三日後、俺は朽葉家の屋敷の前に立っていた。

 山間の集落から更に奥へ入った場所。最寄りの民家から車で四十分。舗装路が途切れてからは獣道を二十分歩いた。周囲には杉の古木が密集し、四月だというのに陽の光がほとんど届かない。足元の土は黒く湿っていて、踏むたびに靴底が沈んだ。空気が重い。標高のせいだけではない。この山全体が、何かを抱え込んでいるような圧迫感があった。

 屋敷は、思っていたよりも大きかった。

 木造二階建て。だが横に広い。母屋から左右に翼棟が伸び、更にその奥にも建物の影が見える。屋根瓦は苔に覆われ、板壁は湿気を吸って黒ずんでいた。二階の窓はすべて雨戸が閉じられている。ただ一つ、母屋の二階の端の窓だけが開いていた。白いカーテンが風もないのに揺れている。誰かがそこから覗いているような気配がしたが、目を凝らしても人影は見えなかった。玄関の引き戸は半分開いている。まるで、招いているように。

 門をくぐった瞬間、空気が変わった。

 温度ではない。湿度でもない。もっと根本的な何かが、ここから先は違う。呼吸をするたびに、肺の奥にまとわりつくような重さ。吸い込んだ空気が、体の内側に薄い膜を張っていくような感覚。甘い匂いがした。花の香り——いや、違う。腐敗した果実に花びらを押し込んだような、吐き気を誘う甘さだ。その奥に、もう一層。錆びた鉄の匂い。血の匂いだった。百年分の血が、この土に染み込んでいるのだろうか。

 俺は足を止めなかった。霊力の膜を全身に張り巡らせ、玄関へ向かう。靴を脱ぐ必要はない。ここは住居ではなく、戦場だ。

 敷地に入ってから、音が消えていた。鳥の声がない。風の音もない。自分の足音だけが、じゃり、じゃりと砂利を踏む。それすらも、屋敷に近づくほど遠くなっていくように聞こえた。まるで耳と足の間の距離が引き伸ばされているかのように。十歩ほど歩いた時、ふと気づいた。砂利の上に、俺以外の足跡がない。依頼書を送ってきた当主は、この屋敷のどこにいるのだ。

 玄関の前に立つ。半開きの引き戸の向こうは、昼間だというのに真っ暗だった。闇が詰まっている、と思った。比喩ではなく、物理的にそう見えた。光が、あの敷居から先へ進むことを拒んでいるかのように。闇の境界線がくっきりと床板の上に引かれていて、半開きの戸から差し込むはずの光が、まるで壁にぶつかるように、そこで止まっている。

 ——来い。

 声ではなかった。音ですらなかった。ただ、脳の奥に直接触れるような感覚。誰かが俺を呼んでいる。温かくも冷たくもない、ただ圧倒的に古い意志が、俺の名前を知っているかのように手招いている。

 いや。

 何かが、俺を待っている。

 口の端が持ち上がるのを感じた。ようやくだ。この八年間、ずっと求めていたものが、この闇の奥にあるかもしれない。退屈を殺してくれる何かが。心臓が鳴っていた。高鳴りではない。警鐘だ。体の奥底にある本能が、逃げろと叫んでいる。だが、その警鐘の音すら心地よかった。こんなに体が騒ぐのは、いつ以来だ。

「百年待ったんだろ。もう少しだけ待ってろ」

 俺は引き戸に手をかけた。木の感触が妙に温かい。生き物の体温に似ていた。指の下で、微かに脈打っているようにすら感じる。木目が指紋に吸いつき、離そうとすると一瞬だけ抵抗があった。構わず、一気に開け放つ。

 闇が俺を見た。

 そうとしか表現できなかった。真っ暗な屋内から、巨大な視線のようなものがこちらを舐め回す感覚。頭の天辺から足の爪先まで、一本の舌で舐め上げられるような。品定めされている。値踏みされている。お前は何者だ、と問われている。肌が総毛立つ。腕の産毛が一本残らず逆立ち、背筋を氷の指がなぞった。霊力の膜が、一瞬だけ揺らいだ。

 ——ああ、これは。

 この感覚を、俺は知らなかった。

 知らなかったのに、体が覚えていた。心臓の鼓動が速くなる。指先が冷たくなる。喉の奥が渇く。瞳孔が開くのが自分でわかった。視界が鮮明になり、暗闇の中の微かな輪郭まで拾い始める。体が戦闘態勢に入っている。これが何なのか、名前をつけるのに数秒かかった。

 恐怖だ。

 生まれて初めて感じる、正真正銘の恐怖。

 だが、足は止まらなかった。止まるはずがなかった。退屈よりも恐怖のほうが、ずっといい。唇が乾いていた。舌で湿らせる。笑っていた。自分でも驚くほど、自然に笑っていた。

 一歩、踏み出す。靴底が古い板張りの床を踏んだ。床板が軋む音が、屋敷の奥まで長く響いた。

 背後で、引き戸が閉まった。自分で閉めたのではない。風もなかった。ただ、当然のように閉じた。外からの光が細い線になり、やがて消えた。

 完全な闇。

 振り返る。

 闇の中に、自分の影だけがあった。光源がないのに、影だけがある。それ自体がもう、この屋敷の理が外界と違うことの証明だった。

 ——影が、笑っていた。

 俺は笑っていない。拳を握り、歯を食いしばっている。なのに足元の影は、口を三日月のように裂いて、嗤っている。歯が並んでいるのが見えた。俺の歯ではない。もっと細く、もっと多く、鋸の刃のように隙間なく並んだ歯が、影の中で白く光っている。

 数秒後、影は元に戻った。何事もなかったかのように、俺の足元に静かに伏している。

 廊下の奥から、何かが聞こえた。泣き声のような。笑い声のような。あるいは、歓迎の拍手のような。幾つもの手が打ち鳴らされる音が重なり合い、やがてひとつの律動になる。心臓の鼓動に似たリズム。いや——俺の心臓が、その音に合わせ始めていた。

 屋敷が、俺を迎え入れた。

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