第2話
第2話
懐中電灯の光が、床の油染みを舐めるように這った。黄ばんだ光の輪が、割れたコンクリートの亀裂を一本ずつなぞっていく。錆びた機械油と、雨に濡れた埃の匂いが鼻腔にまとわりついた。
神崎は二階の手すり越しに息を殺して見下ろす。指先が冷たい。三日間まともに食っていない体は、末端から熱を手放し始めていた。シャッターの隙間から侵入してきたのは三人。四人目はいない——外周で聞こえた四つ目の足音は陽動か、あるいは退路を塞ぐ監視役だ。
三人の動きを観察する。先頭がライトで前方を照射し、残り二人が左右に展開する。クリアリングの手順。だが微妙に雑だ。軍の正規訓練を受けた人間なら、ライトは壁側に向ける。正面を照らすのは素人に近い。つまり、軍の基礎は叩き込まれているが、実戦経験が浅い。元軍人の民間転用。傭兵崩れ。
三人とも拳銃を構えている。サプレッサー付き。近隣への配慮ではない。事後処理を簡単にするためだ。死体を回収し、痕跡を消す。最初からそういう手筈で来ている。
神崎はナイフを握り直した。掌の汗で柄が滑る。親指の腹でグリップの溝を確かめ、握りを深くした。
正面の男が階段に足をかけた。古い鉄骨階段が、体重を受けて低く軋む。二段目で止まり、ライトを上に向ける。光の円が二階フロアの天井を撫でた。神崎は柱の影に体を滑り込ませる。背中がコンクリートの冷たさに触れた。呼吸を浅く、細く。肺が酸素を求めて騒ぐのを意志で押さえつける。光が通過する。一秒。二秒。男が階段を上がり始めた。
今だ。
神崎は柱の影から踏み出し、階段の手すりを掴んで一気に飛び降りた。二階から一階へ。約三メートルの落差。落下の瞬間、内臓が浮く感覚。着地と同時に膝を曲げて衝撃を吸収し、そのまま前方に転がる。肩から背中へ。受身の型が体に染みついている。コンクリートの硬さが全身を打ったが、痛みは後回しにした。
背後で怒声。ライトが乱れる。
最初の標的は左側面の男。振り返ろうとする相手の右手首を掴み、内側に捻る。システマの原則——関節の可動域の限界点を超えさせる。手首が軋み、拳銃が手から落ちた。金属が床を打つ乾いた音。そのまま手首を極めたまま体を回転させ、男の背後に入る。男の体から洗剤と煙草の混じった匂いがした。頸動脈を圧迫する裸絞め。四秒で意識が落ちる。
腕の中で男の体が弛緩していく。最初は抵抗し、爪が神崎の前腕を引っ掻いた。やがて力が抜ける。三秒。
右側面の男が銃口をこちらに向けた。だが撃てない。同僚の体が盾になっている。一瞬の躊躇。銃口が僅かに揺れた。撃ちたい。だが撃てない。その葛藤が手元の震えに出ていた。
その一瞬で十分だった。
意識を失った男の体を右側面の男に向かって押し出す。崩れ落ちる同僚を受け止めようとする本能的な反応——その隙に距離を詰めた。左手で銃を持つ腕を外側に逸らし、右手のナイフの柄頭を顎に叩き込む。刃は使わない。殺すためではなく、黙らせるためだ。顎先への打撃は脳を揺らす。衝撃が拳を通じて腕に伝わった。男の目が裏返り、膝から崩れた。
二人。所要時間、約七秒。
階段の男が駆け下りてくる。足音が荒い。冷静さを失っている。神崎は倒れた男の拳銃を拾い、弾倉を確認した。9ミリパラベラム、装弾数十五。安全装置を外し、階段に向ける。銃把はまだ前の持ち主の体温を帯びていた。
「武器を捨てろ」
声は低く、平坦に出した。感情を乗せない。交渉ではなく、通告。
階段の男は三段目で立ち止まった。ライトが神崎の顔を照らす。眩しい。網膜が灼けるような白い光。だが銃口はぶらさない。照準はライトの発生源——男の胸の中心に据えたままだ。
沈黙が五秒続いた。雨音だけが工場内に反響する。天井のどこかから水滴が落ち、錆びた機械の上で弾けた。
男が銃を下ろし、ゆっくりと床に置いた。金属が冷たいコンクリートに触れる音が、やけに大きく聞こえた。膝をつく。両手を頭の後ろに回す。投降の姿勢。
「賢明だ」
神崎は拳銃を構えたまま距離を詰め、男を腹這いにさせた。靴紐——予備のものではなく、倒れた二人の靴から抜き取った紐で三人の手首を後ろ手に縛る。結び方は部隊時代に使った拘束結索。片手でも解けない。
呼吸を整える。心拍が少しずつ平常に戻っていく。全身に汗が滲んでいた。こめかみを伝う雫が顎先から落ちる。三日間の睡眠不足と空腹が、一気に体に圧し掛かってきた。胃の奥が鳴った。視界の端がわずかに暗くなる。低血糖の兆候だ。だが、まだ終わっていない。
外周の四人目。
神崎はシャッターの隙間から外を窺った。雨。暗闘。水溜まりに街灯の光が滲み、路面が黒く光っている。フェンスの向こうに人影はない。エンジン音もない。四人目は離脱したか、あるいは最初からいなかったか。反響した足音を数え間違えた可能性もある。
いずれにせよ、長居はできない。
倒れた三人を改めて観察する。全員、黒のタクティカルウェア。軍用ブーツ。装備は統一されている。個人で集まった傭兵ではない。組織の人間だ。
最初に絞め落とした男の右腕に視線が止まった。袖がまくれ、前腕の内側にカードホルダーが見えた。腕章型の社員証。引き抜く。
プラスチックのカードに顔写真と名前。そして社名。
ヘルメス・セキュリティ株式会社。
聞いたことがある。防衛省との随意契約で急成長した民間軍事会社。表向きは施設警備と要人護衛。だが業界内では別の噂が絶えない。海外での非公式作戦への人員供出。反政府組織への武器輸送の護衛。軍と闇を繋ぐ灰色の存在。
こいつらが来たということは、警察の捜査とは別のレイヤーで動いている勢力がいる。冤罪を仕掛けたのと同じ連中か、あるいはその上。いずれにしても、ただの揉み消しではない。殺す気で来ている。
階段から降りてきた男——最後に投降した男に近づいた。意識はある。縛られた姿勢のまま、冷たい床に頬をつけている。頬の肉がコンクリートに押し潰され、呼吸のたびに白い息が床を這った。
「誰の指示だ」
男は答えない。目だけが神崎を見上げている。恐怖はあるが、口を割るつもりはないという目だ。訓練されている。瞳孔が開いているのはアドレナリンのせいだろう。だが視線は揺れていない。覚悟を決めた人間の目だった。
神崎は男の足首を掴み、軍用ブーツを脱がせた。靴底にGPSトラッカーが埋め込まれていないか確認する。なかった。だが靴の中敷きの裏に、小さなマイクロSDカードがテープで貼り付けてあった。行動記録か、作戦指示書か。
ポケットに収める。後で確認する。
「聞き方を変える。ヘルメスの誰が、この作戦を組んだ」
沈黙。雨が屋根を叩く。男の呼吸だけが近い。
神崎は男の拘束を一段きつく締めた。痛みではなく、圧迫。血流が止まる手前まで締め上げ、そこで止める。
「時間がない。お前にも俺にも」
男の唇が動いた。乾いた唇が割れ、薄く血が滲んだ。だが出てきたのは答えではなかった。
笑い声だった。
低く、押し殺したような笑い。腹這いの姿勢のまま、肩を震わせている。神崎の背筋に、別種の緊張が走った。毛穴が総立ちになる感覚。これは恐怖ではない。警告だ。身体が何かを察知している。
「何がおかしい」
男が顔を上げた。口元が歪んでいる。血と泥で汚れた顔に、場違いな笑みが浮かんでいた。
「あんた、強いな。三人まとめてやられるとは思わなかった」
世辞ではない。純粋な感想だった。それが余計に不気味だった。感嘆と諦めが混じった声音には、自分の敗北を客観視できる冷静さがあった。
「だけど無駄だよ。俺たちは先遣だ。桐生さんが次はもっと多く寄越しますよ」
桐生。
その名前が鼓膜を叩いた瞬間、神崎の指が止まった。
桐生——桐生隼人。元第一空挺団。神崎の三期下の後輩。七年前、演習中の事故で崖から滑落した桐生を、神崎が片腕で引き上げた。あの時、桐生は泣いていた。泥だらけの顔に涙の筋をつけて、子供のように震えていた。『先輩、ありがとうございます。一生忘れません』。そう言って、震える手で敬礼した二十三歳の若い隊員。握り返した桐生の手は驚くほど冷たかった。
その桐生が、暗殺チームを送り込んでいる。
胃の底に鉛が沈む感覚があった。裏切りへの怒りではない。もっと深い場所にある、名前のつかない感情だった。
男はまだ笑っている。神崎の動揺を、正確に読み取っている。
「知ってる名前みたいだな」
神崎は男の顔から目を逸らさなかった。表情を消す。感情を殺す。声を平坦に保つ。
だが心臓が跳ねていた。
桐生。お前もか。
雨音が一段と強くなった。トタン屋根を叩く音が、まるで秒読みのように工場内に響いていた。