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冤罪の狼煙——元特殊部隊員、拳で巨悪を討つ

第1話 第1話

第1話

第1話

三日、眠っていない。

神崎蓮は廃工場の二階フロアに背中を預け、呼吸を殺していた。コンクリートの壁が夜の冷気を吸い込み、剥き出しの鉄骨から雨水が断続的に滴る。ぴちゃん、ぴちゃん。その音だけが、時間が進んでいる証拠だった。天井の隅で何かが軋む。風か、鼠か。どちらでもいい。敵でなければ、今の神崎にとってはすべて同じだ。指先の感覚が鈍い。末端から体温が奪われていく。それでも手だけは動かし続けた。指を握り、開く。握り、開く。いざという時に動かなければ、それは死を意味する。

階下に置いた小型テレビが青白い光を吐いている。音量は最小。それでも、自分の名前は嫌というほど聞こえた。

『——元自衛官・神崎蓮容疑者は現在も逃走中です。連続殺人事件の重要参考人として——』

連続殺人。四人の元隊員が、一週間のうちに殺された。全員、かつて同じ部隊にいた人間だ。そして俺が最後に生き残った。だから犯人にされた。動機も凶器も、きれいに揃えられて。

あまりにも手際が良すぎる。物証の配置、目撃証言のタイミング、報道への情報リークの速さ。すべてが一本の線の上に乗っている。偶然でこうはならない。誰かが——組織的に、計画的に、神崎蓮という人間を犯人に仕立て上げた。

左手の中で、USBメモリが体温を吸っている。長さ五センチほどの黒い筐体。防水・耐衝撃仕様。沢渡が最期に握らせたものだ。

——沢渡。

記憶が、呼んでもいないのに蘇る。

六日前。横浜の埠頭。連絡をよこしたのは沢渡からだった。『蓮、来てくれ。説明する時間がない』。駆けつけた時、沢渡は腹部を撃たれて倉庫の壁にもたれていた。潮の匂いと、それよりもずっと生臭い鉄の匂い。血溜まりが倉庫の床のコンクリートの目地に沿って広がり、黒々と光を反射していた。天井の蛍光灯が一本だけ残って点滅しており、その明滅のたびに沢渡の顔が現れては消えた。頬はすでに土色で、唇の端に血の泡がこびりついていた。止血帯を巻こうとする手を、沢渡が掴んだ。血で滑る指。爪の間にまで赤黒いものが入り込んでいた。それでも握力だけは衰えていなかった。目だけが異様に澄んでいた。痛みを超えた先にある、ある種の諦めと覚悟が同居した眼だった。

『これを……復号しろ。全部入ってる。俺たちが……なぜ殺されるのか』

声はかすれていた。肺まで損傷しているのだと、神崎はその呼吸音だけで理解した。吐く息のたびに胸から湿った音が漏れ、言葉と言葉のあいだに痛みを噛み殺すような沈黙が挟まった。助からない。そう悟った瞬間、視界の端が滲んだ。だが泣いている場合ではなかった。

USBを押し込まれた直後、沢渡の手から力が抜けた。サイレンが近づいてきた。不自然なほど早く。まるで、最初から呼ばれていたかのように。

それが罠だと気づいたのは、三十秒後だった。

神崎は瞼の裏に焼きついた沢渡の顔を振り払い、意識を現在に引き戻す。感傷に浸る余裕はない。今この瞬間も、警察の包囲網は狭まっている。

USBメモリを親指で撫でた。暗号化されている。軍用グレードの256ビットAES。素人には開けない。だが神崎は素人ではないし、心当たりもあった。沢渡が暗号キーに使いそうな文字列。部隊時代の合言葉。作戦コード。隊員の誕生日の組み合わせ。

問題は復号する環境だった。ネットカフェは監視カメラがある。公共端末は論外。必要なのは、クリーンなノートPCと、電源と、最低三十分の安全な時間。

三つとも、今の神崎にはなかった。

立ち上がり、窓の隙間から外を確認する。雨は弱まっていない。工場の敷地を囲むフェンスの向こうに、国道の街灯がぼんやりと滲んでいる。人影はない。車の通行も途絶えている。雨粒がトタン屋根を叩く音が、遠い機関銃の連射のように聞こえた。部隊時代、こういう雨の夜に何度も匍匐前進した。泥と草の匂いの中で、隣には沢渡がいた。あの頃、死ぬのは敵か自分だと思っていた。味方に殺されるなど、考えもしなかった。

時刻は午前二時十七分。

「あと四時間」

声に出したのは、自分を保つためだった。三日間、誰とも会話していない。自分の声が他人のように聞こえる。掠れて、乾いて、低い。夜が明ければ動ける。川崎の旧市街に、かつて世話になった元通信兵がいる。宇佐美。除隊後はフリーのセキュリティエンジニアをやっている。腕は確かだ。あいつなら復号できる。あいつなら、まだ——

信じられるか。

その問いが、喉に刺さった棘のように引っかかる。沢渡は信じられた。沢渡は死んだ。四人の仲間も信じていた。四人とも殺された。

信頼は、この一週間で最も高くついた通貨だ。

『俺を嵌めたのは、内側の人間だ』

沢渡の言葉が反響する。内側。つまり部隊の関係者。あるいは、もっと上。

神崎は首の後ろを揉み、思考を切り替えた。首の筋が石のように硬い。三日間、まともに横になっていない体が悲鳴を上げている。だが痛みは味方だ。痛みがある限り、意識は保てる。今は推測しても仕方がない。USBの中身が全てを教えてくれる。沢渡はそう言った。だから、まずは復号。それだけに集中する。

階下のテレビが番組を切り替えた。深夜のニュースが終わり、通販番組の甲高い声が響く。神崎はテレビの電源を切りに降りようとして、足を止めた。

腹が鳴った。

最後に食べたのはいつだ。昨日の朝、コンビニで買ったおにぎり二個。それも防犯カメラを避けるために帽子を目深にかぶり、セルフレジで済ませた。梅と昆布。味など覚えていない。ただ胃に押し込んだだけだ。金は沢渡が残した現金がまだ少しある。だがカードは使えない。ATMも使えない。携帯は電源を抜いて捨てた。

元特殊部隊員。三十二歳。現在の所持品——USBメモリ一個、現金四万七千円、折りたたみナイフ、ペンライト、予備の靴紐。それが神崎蓮の全財産だった。

笑えない冗談だ。一週間前まで、民間の警備会社で真っ当に働いていた。朝起きて、コーヒーを淹れて、電車に乗って。殺人犯として追われる未来など、想像もしていなかった。

だが訓練は嘘をつかない。逃亡の三日間、体は自動的に動いた。監視カメラの死角を選び、人混みに紛れ、痕跡を消す。部隊で叩き込まれたサバイバルと偵察回避の技術が、皮肉にも今、自分の命を繋いでいる。

テレビを切るために階段を降りかけた時、足裏にかすかな振動が伝わった。

神崎は凍りついた。

振動ではない。足音だ。

コンクリートの地面を踏む、規則的な足音。一人ではない。複数。等間隔。訓練された歩調。

工場の東側——フェンスの切れ目がある方角から近づいてくる。

神崎は反射的にテレビの電源コードを引き抜き、光源を消した。暗闇が落ちる。雨音の隙間に、足音を数える。

三人。いや、四人。

展開の仕方に覚えがあった。二人が正面、残りが側面に回り込む。挟撃の基本陣形。

警察じゃない。

警察ならもっと大人数で来る。投光器を焚き、拡声器で投降を呼びかける。だがこの足音には、そういった手続きの気配が一切ない。

音を殺して接近する四つの影。目的は逮捕ではなく——排除。

足音がさらに近づく。ブーツの底がコンクリートの破片を踏み砕く、硬い音。聞き馴染みのある音だ。民間の靴底じゃない。

軍用ブーツ。

神崎の背筋を、冷たいものが走った。だが同時に、腹の底に熱い塊が生まれる。恐怖ではない。三日間溜め込んだ怒りだ。仲間を殺し、俺を犯人に仕立て、それでもまだ足りないのか。

ナイフを抜き、逆手に構える。刃渡り九センチ。銃を持った四人に対してナイフ一本。数字だけ見れば絶望的だ。だが暗闇と、この建物の構造と、三日間で頭に叩き込んだ逃走経路がある。それだけあれば十分だ。左手でUSBメモリをジャケットの内ポケットに押し込み、ジッパーを閉じた。

暗闇の中で、呼吸を整える。心拍を落とす。視界が研ぎ澄まされていく。瞳孔が開き、闇の中の輪郭が浮かび上がる。錆びた機械の残骸。崩れかけた壁。階段の位置。窓の位置。すべてが頭の中の見取り図と重なる。

歯を食いしばった。奥歯の奥で、鋼の味がした。三日分の疲労が一瞬で燃料に変わるのを感じる。生き延びろ。沢渡が命と引き換えに託したものを、ここで終わらせるわけにはいかない。

工場の一階入口——錆びたシャッターの隙間から、懐中電灯の光が一筋、差し込んだ。

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