第3話
第3話
男の笑いが止まるまで待った。八秒。長い八秒だった。倉庫の天井に反響する笑い声が、錆びた鉄骨の隙間に吸い込まれていく。
「桐生の階級は」
声は自分でも驚くほど静かだった。感情の嵐を、訓練で作った壁の内側に押し込める。今必要なのは情報だ。怒りではない。
男が目を細めた。笑みの残滓がまだ口元にある。
「階級? あの人にそんなもんないよ。ヘルメスは民間だ。肩書きは——作戦部統括。要は、俺たちを動かしてる指揮官だ」
「何人動かせる」
「さあな。俺が知ってるのは三チーム。各四名。でもあの人の直轄はもっと——」
言いかけて、男が口を閉じた。喋りすぎたと気づいたのだろう。顎を引き、視線を床に落とす。
神崎は追及しなかった。十分だ。桐生隼人。ヘルメス・セキュリティ作戦部統括。少なくとも十二名以上の実動部隊を指揮する立場。三期下の後輩は、いつの間にか暗殺チームの長になっていた。
マイクロSDカードをポケットの中で指先に挟む。これと、USB。二つの情報源。だがここで解析する時間はない。桐生が次を送り込むなら、猶予は長くて一時間。短ければ三十分。
三人の拘束を再確認した。結索に緩みはない。意識を失った二人の呼吸も安定している。死なせるつもりはなかった。殺す理由がない。
シャッターの隙間から外を確認。雨脚は変わらない。東側のフェンスの切れ目——侵入経路と同じルートは使えない。監視がいる可能性がある。
北側。工場の裏手に用水路がある。三日前に確認済みだ。幅二メートル、深さは膝まで。そこから住宅街の裏を抜ければ、四百メートルで県道に出る。県道沿いに南下すれば川崎方面。宇佐美のところまで、徒歩で約三時間。
迷う余地はなかった。
リュックに最低限の荷物を詰め、拳銃を腰の後ろに挟む。本来なら銃は捨てたい。所持しているだけで罪が増える。だが丸腰で桐生の部下とやり合う余裕はもうない。
最後に、投降した男に視線を落とした。
「伝言を頼む。桐生に言え。——次は話をしに行く」
男は何も答えなかった。ただ、さっきまでの笑みが消えていた。代わりに浮かんでいたのは、困惑とも恐怖ともつかない曖昧な表情だった。
北側の搬入口から外に出た。雨が顔を打つ。冷たい。だが意識が冴える。用水路に足を踏み入れると、ふくらはぎまで濁った水が浸かった。靴の中が一瞬で冷水に満たされる。歯を食いしばり、水の中を進む。足音が消える。雨音に紛れる。これでいい。水底のコンクリートは苔で滑りやすく、一歩ごとに足裏の感覚を確かめながら歩いた。
住宅街の裏道を抜ける間、三度立ち止まった。一度目は猫。二度目はタクシーのヘッドライト。三度目は、自分の影に驚いた。三日間の逃亡が神経を削っている。過敏になっている自覚はある。だが鈍感よりはましだ。鈍感は死ぬ。
午前四時過ぎ、川崎の旧市街に入った。雑居ビルが肩を寄せ合うように並ぶ一角。飲食店の看板が消灯し、路地には酔い潰れた男が一人、段ボールを被って寝ていた。雨はようやく小降りになっていた。空気が湿っぽく、排水溝の匂いが街全体に漂っている。
宇佐美の住所は五年前のものだ。まだ同じ場所にいる保証はない。だが他に手がなかった。連絡手段は断たれ、かつての仲間はほとんどが消息不明だ。残されたカードは、この住所だけだった。
雑居ビルの四階。鉄の扉にインターホンはない。代わりに小型カメラが二つ、異なる角度で廊下を監視していた。相変わらずだ。宇佐美は部隊時代から偏執的なほどセキュリティに拘る男だった。
扉を三回叩く。間を置いて二回。また間を置いて一回。部隊時代の符丁。今さら通じるかどうかも分からない。
十秒。二十秒。
錠が外れる音がした。三つ。チェーンが一つ。ドアが薄く開き、隙間からディスプレイの青白い光が漏れた。
「——五年ぶりだな」
細い目がこちらを見上げた。宇佐美哲。百六十二センチ、五十キロあるかないか。部隊で一番小さかった男だ。だが通信と電子戦では右に出る者がいなかった。顔色はディスプレイの光のせいか、元から悪いのか判別がつかない。頬がこけ、無精髭が顎を覆っている。五年の歳月は、この男をさらに痩せさせていた。
「ニュースは見た」
それだけ言って、宇佐美は扉を開けた。
室内は異様だった。ワンルームの壁一面にモニターが四枚。サーバーラックが二つ。床にはケーブルが這い回り、足の踏み場を慎重に選ぶ必要があった。エアコンの温度設定は十八度。機材の排熱と釣り合ってちょうどいいのだろう。空気にはんだと缶コーヒーの匂いが染みついていた。
「助けてほしい」
単刀直入に言った。回りくどい前置きをする余裕はなかった。宇佐美は椅子に座ったまま振り返らない。モニターの一つに、神崎の指名手配情報が表示されていた。
「知ってる。殺人犯にされた元同僚が、午前四時にノックしてきた。状況は理解してる」
「俺はやっていない」
「それも分かってる」
宇佐美が初めて振り返った。レンズの奥の目が、神崎を見据えた。
「お前は人を殺す時に証拠を残すような間抜けじゃない。——で、何を持ってきた」
USBメモリをテーブルに置いた。小さな黒い筐体が、モニターの光を受けて鈍く光った。
「沢渡の遺品だ。暗号化されてる。軍用グレードのAES-256」
宇佐美がUSBを手に取り、端子を確認した。目の色が変わった。技術者の目だ。
「沢渡が? あいつがこのレベルの暗号を使ったのか」
「中に、俺たちが殺されている理由が入っている」
宇佐美は数秒間USBを見つめ、それからサーバーラックの横に設置された隔離端末に差し込んだ。ネットワークから切り離されたスタンドアロン環境。ここなら外部から追跡される心配はない。
キーボードを叩く音が部屋に満ちた。宇佐美の指は細く、だが驚くほど速かった。画面に暗号解析のプログレスバーが表示される。
「鍵長256ビット。ブルートフォースは論外。だが沢渡のことだ、完全なランダム鍵じゃないはずだ。パスフレーズベースの派生鍵を使ってる可能性が高い」
「合言葉がある。部隊時代の作戦コード」
「言え」
「Operation Foxglove」
宇佐美の指が止まった。
「ジギタリス作戦か。あの時の——」
「ああ」
画面が動いた。パスフレーズの照合。ハッシュの計算。プログレスバーが一気に進む。だが途中で止まった。
「二重暗号化だ。外層はパスフレーズで通った。中にもう一段ある。こっちは——少し時間がかかる。構造を解析する」
宇佐美がコーヒーの缶を押しやり、キーボードに向き直った。画面にディレクトリ構造が展開されていく。まだ中身は読めない。だがファイル名だけが、暗号の隙間からぼんやりと浮かび上がっていた。
神崎の目が、画面に釘付けになった。
ファイルは三十以上あった。日付順に並んでいる。最も古いものは四年前。最も新しいものは沢渡が死ぬ二日前だ。四年間。沢渡は四年もの間、何かを記録し続けていた。誰にも言わず、一人で。あの無口な男の執念が、フォルダの数だけ静かに積み上がっていた。
ディレクトリのルートフォルダに、名前がついていた。
『鬼灯』
宇佐美の手が止まった。振り返り、神崎と目が合った。
「……鬼灯?」
「知ってるのか」
「いや。だが——」
宇佐美が画面をスクロールした。ファイル名の一つが拡大表示される。復号は完了していない。文字の半分は化けている。だがいくつかの単語だけが、ノイズの隙間から読み取れた。
『処分リスト_v3_最終.xlsx』
処分リスト。
最終。
部屋の空気が、一度に五度下がったような気がした。エアコンの駆動音だけが低く唸っている。モニターの光が宇佐美の眼鏡に反射し、レンズの奥の表情が読めない。
神崎はUSBを見つめた。沢渡が命と引き換えに守ったもの。四年分の記録。そしてその中心にある二つの言葉。
鬼灯。処分リスト。
誰が、何を、処分するのか。
宇佐美が静かに言った。
「内層の復号、あと二時間くれ。全部読めるようにする」
神崎は頷いた。拳を握り、開く。指先はまだ冷たかったが、震えはなかった。
二時間後、すべてが変わる。その予感だけが、腹の底で確かな重さを持っていた。