第2話
第2話
——六十時間前。
四月の夜風はまだ冷たかった。神崎蓮司は捜査一課のデスクでコーヒーの残りを飲み干し、携帯を確認した。三宅和彦からのメッセージ。 『今夜、話がある。いつもの場所で。22時』 いつもの場所。新橋の高架下にある、カウンターだけの焼き鳥屋。三宅が情報を渡すとき、必ずそこを指定した。人の出入りが多く、長居しても目立たない。情報提供者との接触場所としては悪くない選択だった。 神崎はジャケットを引っ掛けて席を立った。隣のデスクは空だった。東條誠一郎。直属の上司であり、十年来の相棒。今日は直帰したと聞いている。 廊下で後輩の刑事とすれ違い、軽く顎を引いた。それだけの挨拶。普段と何も変わらない夜だった。 ——はずだった。 新橋。高架下。焼き鳥屋の暖簾をくぐったのは二十一時五十分。カウンターの端に座り、生ビールを一杯頼んだ。煙が天井に渦を巻いている。隣のサラリーマン二人組が競馬の話で盛り上がっていた。 三宅は来なかった。 二十二時。二十二時十五分。三十分。 携帯に着信はない。メッセージもない。 三宅は時間に正確な男だった。五分の遅刻でも必ず連絡を入れる。それが三十分。嫌な予感が首筋を這い上がる。だが、情報提供者が約束をすっぽかすことは珍しくない。怖気づくこともある。別の用事が入ることもある。 二十三時。一時間待った。焼き鳥を二本食べ、ビールは二杯目の半分で止めた。深追いはしない。明日、改めて連絡を取ればいい。 勘定を済ませて店を出た。領収書をポケットに突っ込む。この領収書が後にアリバイの証拠になるとは、このときは思いもしなかった。 帰宅は零時過ぎ。世田谷のマンション。三階建ての二階、角部屋。玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ、スーツのジャケットを椅子の背に掛けた。冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。テレビはつけなかった。 シャワーを浴びて、ベッドに入った。 携帯のアラームを六時にセットして、目を閉じた。三宅のことが少し引っかかっていたが、疲労が勝った。意識はすぐに沈んだ。
——午前五時十二分。 轟音で目が覚めた。 玄関ドアが蹴破られる音。蝶番が千切れ、木片が廊下に散る。続けて怒号。 「警察だ! 動くな!」 反射的に体が動いた。ベッドから転がり落ち、床に伏せる。暗闇の中、赤いレーザーサイトが三本、天井を舐めるように走った。 「神崎蓮司! 殺人容疑で逮捕する! 両手を頭の後ろに回せ!」 機動隊。完全武装。盾持ちが二人、突入銃を構えた隊員が四人。殺人容疑の被疑者に対する逮捕態勢としても、過剰な人数だった。 殺人。 一瞬、意味が理解できなかった。自分は刑事だ。人を殺してはいない。何かの間違いだ。 だが思考が追いつく前に、体は捜査官としての判断を下していた。 過剰な武装。令状の確認すらさせない突入。これは逮捕ではない。制圧だ。 こちらの弁明を聞く気がない相手に、口で何を言っても無駄だ。 「伏せろと言っている!」 隊員の一人が距離を詰めてくる。 神崎は両手を上げた。抵抗の意思がないことを示す。同時に視界の端で逃走経路を確認していた。寝室の窓。三階建ての二階。下は植え込み。高さは約四メートル。骨折のリスクはあるが、致命傷にはならない。 「動くな!」 「——分かった。落ち着け」 低く、ゆっくりと言った。訓練通り。被疑者を落ち着かせるときの声色。今は自分がそれを使う側にいる。 隊員が手錠を取り出した。もう一人が背後に回り込もうとしている。 「容疑の内容を聞かせてくれ」 「三宅和彦殺害の容疑だ。昨夜二十二時から二十三時の間に——」 三宅が殺された。 頭の中で何かが弾けた。三宅は死んだ。呼び出しておいて現れなかった三宅は、そのとき既に殺されていた——あるいは殺されようとしていた。 「防犯カメラの映像がある」 別の声。寝室のドアの外から、スーツ姿の男が入ってきた。捜査員だ。タブレットを神崎に向けた。 画面の中に、自分がいた。 三宅の自宅マンションのエントランス。タイムスタンプは昨夜二十二時八分。映像の中の神崎がオートロックを通過し、エレベーターに乗り込む。 行っていない。 新橋にいた。焼き鳥屋のカウンターで、来ない三宅を待っていた。領収書がポケットにある。 だが映像は鮮明だった。顔も体格も、着ていたジャケットも同じだった。 「凶器のナイフから、お前の指紋も出ている」 指紋。触ったことのないナイフ。映像の偽造だけでなく、指紋の転写まで。 仕組まれている。完全に。 誰が。なぜ。——今それを考えている時間はない。 「今から弁護士を——」 言いかけた瞬間、背後の隊員が掴みかかってきた。神崎はその腕を取り、回転するように体を入れ替えた。柔道の崩し。投げはしない。ただ位置を変えただけだ。 隊員の体が壁にぶつかる。 その一秒で、神崎はベッドサイドのキャビネットを開けていた。中にあるのは捜査資料のファイル。三宅の事件に関する全ての記録。これだけは持ち出す。 窓に向かって走った。 「撃つな!」 誰かが叫んだ。スーツの捜査員だ。射殺命令は出ていない。当然だ。殺人容疑の被疑者であって、テロリストではない。 窓ガラスに肘を叩き込んだ。ジャケットを着ていない。素肌にガラス片が食い込む。痛みが走ったが構わなかった。 跳んだ。 四メートルの落下。植え込みの低木が体を受け止めた。枝が背中を引っ掻く。衝撃で肺から空気が押し出された。だが足は無事だ。立ち上がる。走る。 裸足だった。Tシャツとスウェットパンツ。四月の夜明け前、気温は八度。足の裏にアスファルトの冷たさが突き刺さる。 背後で怒号が上がる。追ってくる。だがマンションの階段を降りる時間がある。十五秒。それだけあればいい。 路地に入った。住宅街の狭い路地。ブロック塀の隙間、勝手口の陰、駐車場のフェンス。捜査一課で十年培った土地勘が、足を導く。世田谷のこのエリアは過去に三件の事件を担当した。路地の構造は頭に入っている。 三分走った。追手の気配が遠のく。 民家のガレージに滑り込み、壁に背をつけた。呼吸が荒い。腕から血が滴っている。ガラスの破片がまだ刺さっていた。一本ずつ抜く。指が震えた。寒さか、アドレナリンか。 手元の資料を確認する。ファイルは無事だ。血で少し汚れたが、読める。 考えろ。 三宅は殺された。自分は嵌められた。映像は偽造。指紋は転写。これだけの工作ができる人間は、捜査機関の内部にいる。あるいは、内部に手が届く位置にいる。 三宅は何を話そうとしていた。武器密輸ルートの上流。まだ名前が出ていなかった元締め。三宅は元締めの正体を掴んだのか。だから消された。そして、三宅に最も近かった捜査官——神崎も、同時に消される。 一石二鳥。情報源と捜査官を同時に潰す。 完璧な筋書きだ。完璧すぎる。 空が白み始めていた。東の空に薄い紫色の光が滲んでいる。鳥が一羽、電線の上で鳴いた。世界は何事もなかったように朝を迎えようとしている。 ガレージの奥にあった作業用のサンダルを借りた。サイズが合わない。だが裸足よりはましだ。 路地を抜け、商店街に出た。シャッターが並ぶ早朝の通り。まだ人通りはほとんどない。コンビニの明かりだけが白く光っている。 そのコンビニの前を通り過ぎようとしたとき、足が止まった。 店頭の新聞スタンド。朝刊の一面はまだ間に合っていない。だが、その横——店の軒先に設置された小型モニターにニュース速報のテロップが流れていた。
『【速報】警視庁捜査一課・神崎蓮司巡査部長を殺人容疑で全国指名手配』
自分の顔写真が画面に映っている。警察手帳の写真だ。髪を短く刈り込んだ、無表情の顔。 通行人はまだいない。だがあと一時間もすれば、この顔は東京中の目に晒される。全ての交番に、全ての駅に、全てのコンビニに。逃げ場が時間とともに狭まっていく。 神崎はフードのないTシャツの襟元を引き上げ、顔を伏せた。 歩け。止まるな。考えながら動け。 商店街を抜けた先に公園があった。トイレの水道で腕の血を洗い流す。水が傷口に沁みた。歯を食いしばる。鏡に映った自分の顔は、三日後に首都高で追われることになる男の顔だった。まだそれを知らないだけで。 資料を腹に巻きつけ、Tシャツの下に隠した。 必要なものを整理する。服。靴。金。連絡手段。潜伏場所。身分を証明できない人間が、東京で生き延びるために必要な全て。 名前が、また一つ浮かんだ。 桐生彰人。 二年前に所轄に異動した元同僚。内部の動きを探れる唯一の人間。だが接触すれば桐生を巻き込む。指名手配犯との接触は、それだけでキャリアの終わりを意味する。 迷っている余裕はなかった。公園の時計塔が午前六時を指している。東京が目覚める。八百万の目が開く。その全てが、神崎蓮司を探し始める。