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狩人の転身

第1話 第1話

第1話

第1話

ヘッドライトが三つ、バックミラーの中で扇状に広がった。

 深夜一時の首都高C1。神崎蓮司はハンドルを握り直し、アクセルを踏み込んだ。白いワゴンのエンジンが悲鳴を上げる。百二十キロ。百三十。メーターの針が震えている。ステアリングを通じて路面の継ぎ目が振動となって伝わってくる。ボンネットの下で何かが軋む音がした。この車のエンジンは、こんな速度で走るようには設計されていない。  左車線から黒塗りのセダンが一台、並走してくる。助手席の窓が下がった。  公安か。組対か。どちらでもいい。どちらにしろ、止まれば終わる。  三日前まで、この追跡をかける側にいた。警視庁捜査一課。組織犯罪対策の最前線。あの席に座っていた人間が、今は殺人容疑で全国指名手配されている。  笑えない冗談だ。  助手席に目をやる。捜査資料の束が、カーブのたびにずり落ちそうになっている。逃走の直前、自宅から掴み取ったのはこれだけだった。財布も、携帯も、バッジも置いてきた。  右車線からもう一台。挟まれた。  三台目はまだ後方にいる。距離は百メートル。縮まっている。  「——くそ」  声が車内で反響した。自分の声が、他人のもののように聞こえた。  料金所の緑の電光表示が前方に見えた。あそこを通過すれば車両ナンバーが読み取られる。通過しなくても、すでに読まれているかもしれない。この車は三時間前にコインパーキングで拝借したものだ。盗難届はまだ出ていないはず——だが確信はない。  選択肢を削れ。考えろ。  左のセダンがじわりと車間を詰めてくる。ぶつける気だ。セダンのヘッドライトがサイドミラーを白く焼いた。目が眩む。反射的に視線を逸らしたが、残像が網膜に貼りついた。  料金所まで三百メートル。その手前——側道がある。首都高の保守用車両が使う、地図に載らない退避路。捜査一課時代に覚えた知識が、今になって自分を助ける。  二百メートル。  百メートル。  神崎はウインカーを出さなかった。ブレーキランプも点けない。左のセダンがさらに寄せてきた瞬間、ハンドルを右に切り、急減速しながらセダンの背後に回り込む。タイヤが路面を削る音。体がシートベルトに食い込む。腹の底から内臓がせり上がるような圧力が走り、奥歯を噛み締めた。ワゴンのボディが大きく傾ぎ、荷室で何かが転がる音がした。  側道への分岐。ガードレールの切れ目が一瞬だけ口を開けている。  突っ込んだ。  ミラーの中で三台のブレーキランプが赤く散った。追跡車が減速し、車線変更を試みている。だが側道は一車線。三台が同時には入れない。  五秒。稼いだのはそれだけだ。  だが、五秒あれば十分だった。  側道は急カーブの連続だった。街灯がない。ハイビームが照らす先は古びたコンクリートの壁だけだ。壁面に走る亀裂と雨染みが、一瞬だけ浮かび上がっては闇に消えていく。勾配が下り始める。ハンドルを切るたびに助手席の資料が滑り、紙の擦れる乾いた音が神経に障った。  神崎は呼吸を整えた。心拍数を意識的に落とす。鼻から四秒吸い、七秒で吐く。訓練の成果は体に染みついている。追われる側に回っても、思考のフレームは変わらない。  相手の目的は逮捕か、それとも——。  殺人容疑。被害者は情報提供者の三宅和彦。神崎が半年かけて築いた武器密輸ルートの線を握っていた男だ。  事件当夜。三宅から「話がある」と連絡が入った。指定された場所に向かった。だが三宅は現れなかった。一時間待って、帰宅した。それだけだ。  ——それだけのはずだった。  翌朝、玄関を蹴破って機動隊が入ってきた。三宅の死体が発見された。死亡推定時刻は神崎が待ちぼうけを食らっていた時間帯。そして防犯カメラには、三宅の自宅に入る神崎の姿が映っていた。  行っていない場所に、自分がいる。  凶器のナイフからは神崎の指紋が検出された。触ったことのないナイフに、自分の指紋が付いている。  仕組まれた。誰かが、完璧な筋書きを用意した。  それも素人の仕事ではない。防犯カメラの映像偽造。指紋の転写。捜査機関の動きを先読みした逮捕のタイミング。——これができる人間は限られる。組織の内部に、あるいは組織を動かせる位置に、仕掛け人がいる。  確信はある。だが証拠はない。証拠は全て、神崎を犯人に仕立てる方向にしか存在していなかった。  側道が一般道に合流した。深夜の湾岸エリア。倉庫街が暗く連なっている。信号が黄色に変わり、神崎はアクセルを緩めずに交差点を抜けた。  バックミラー。追跡車の光はない。振り切ったか。  だが安堵している暇はなかった。この車はもう使えない。六時間以内に乗り捨て、別の移動手段を確保する必要がある。金は手持ちの現金が四万二千円。カードは使えない。使った瞬間に足がつく。  携帯を捨てたのは正解だった。GPSで追跡される。だが同時に、外部との連絡手段を完全に失ったことを意味する。  誰に連絡する——?  十年間の捜査官人生で、信頼できる人間を何人つくれた。  指で数えられる。片手で足りる。いや、片手すら怪しい。  名前が一つ、浮かんだ。  桐生彰人。元同僚。二年前に所轄に異動したが、今でも連絡は取っている。取っていた。三日前までは。最後に交わした言葉は「今度飲みに行こう」だった。あの何でもない約束が、今では別の世界線の出来事のように遠い。  桐生なら内部の動きを探れる。今回の事件がどこから仕掛けられたのか——捜査一課の内部に犯人がいるなら、その痕跡は必ず捜査記録に残る。  問題は接触方法だ。桐生の自宅も職場も監視されている可能性がある。指名手配犯と接触すれば、桐生のキャリアも終わる。  それでも。  今、手元にあるのは資料の束と、自分の記憶だけだ。資料だけでは冤罪を証明できない。内部の情報が必要だった。  ワゴンを倉庫街の奥に停めた。エンジンを切ると、静寂が耳に痛い。冷却ファンが数秒だけ回り、それも止まった。世界から音が消えた。自分の鼓動だけが、鎖骨のあたりで脈打っている。  助手席の資料を手に取る。ダッシュボードの薄い明かりで頁をめくった。武器密輸ルートの捜査記録。三宅和彦の供述調書のコピー。神崎が半年間追い続けた事件の全容。  この事件が潰された。自分が消されようとしている。二つは繋がっている。  供述調書の最後の頁に目が止まった。三宅が最後に口にした名前——そこだけインクが滲んでいた。神崎は指先でその行をなぞった。この名前の持ち主が、全ての糸を引いているのか。まだわからない。だが出発点にはなる。  呼吸が白く曇った。四月の深夜、車内の気温は急速に下がっていく。指先がかじかむ。だが頭は冴えていた。  資料を閉じ、フロントガラスの向こうを見た。倉庫の隙間から、東京湾の黒い水面がわずかに光っている。月明かりを反射しているのか、対岸の工業地帯の灯りなのか、判然としない。ただ、その光はひどく遠く見えた。  神崎は目を閉じた。三秒だけ。瞼の裏に、三宅の顔が浮かんだ。小太りで、いつも額に汗を浮かべていた男。「刑事さん、俺はただ生き延びたいだけなんだ」——初めて会ったとき、三宅はそう言った。その三宅は今、冷たい解剖台の上にいる。三秒後に目を開けたとき、感傷は消えていた。  やるべきことは三つ。  一つ、この車を処分する。二つ、安全な潜伏先を確保する。三つ、桐生に接触する手段を見つける。  全てを今夜中に。  ドアを開けた。夜気が頬を刺す。湾岸の潮の匂いが鼻腔に届いた。生温い海水と錆びた鉄の混じった匂い。どこかで船の汽笛が低く鳴った。  歩き出す。  振り返らなかった。  三ブロック進んだところで、神崎は足を止めた。  前方の交差点。赤色灯が回っている。パトカー二台。制服警官が四人、車両検問の態勢を敷いていた。一人がドライバーに免許証の提示を求め、もう一人が懐中電灯で車内を覗き込んでいる。残りの二人は交差点の両端に立ち、通行人にも目を配っていた。  偶然か。それとも——網はもうここまで来ているのか。  神崎は壁に背をつけ、闇の中に溶けた。

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