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狩人の転身

第3話 第3話

第3話

第3話

検問の赤色灯が交差点を染めている。パトカー二台。制服警官四人。

 神崎は壁に背をつけたまま呼吸を殺した。倉庫の角。街灯の光が届かない暗がり。検問との距離はおよそ八十メートル。走って戻れば追いつかれる。迂回路は——左手に倉庫と倉庫の隙間。人一人がようやく通れる幅。その先は見えない。  懐中電灯の光が、こちらへ向かって弧を描いた。  通行人を照らしているだけだ。まだ見つかっていない。だが時間の問題だった。ワゴンを乗り捨てた場所はここから三ブロック。夜が明ければ発見される。そこから徒歩圏内の検問で、捜査員は顔写真と照合を始める。  退け。今すぐに。  倉庫の隙間に体を滑り込ませた。左肩がコンクリートの壁に擦れる。錆びたパイプが頭上を横切り、足元には水溜まりと潰れた段ボール。匂いは油と海水の混合。五歩、十歩。壁の隙間が狭まり、横向きにならないと進めなくなった。  背後で無線の音が微かに聞こえた。検問の警官が何かを報告している。声は判別できない。  隙間を抜けた。  裏手の路地に出る。街灯が一本だけ点いていた。左右を確認する。人影なし。車なし。倉庫のシャッターが並ぶだけの無人の通り。  右に折れた。早足。走らない。走れば目立つ。歩幅を広く取り、靴音を殺す。サンダルの底が薄くて、アスファルトの冷たさが足裏に伝わる。  三ブロック歩いて、運河沿いの遊歩道に出た。対岸にマンションの灯りがいくつか見える。この時間に起きている住人がいる。カーテンの隙間から漏れる光。日常の光だ。  自分はもう、あちら側にはいない。  ベンチに腰を下ろした。息を整える。Tシャツの下に巻きつけた捜査資料が肌に張りついている。汗と血で紙が湿り始めていた。

 頭の中で時系列を並べ直す。  三宅和彦が殺された夜。二十二時〇八分、防犯カメラに映った「神崎」が三宅のマンションに入る。同時刻、本物の神崎は新橋の焼き鳥屋にいた。  映像は偽造だ。それは確定している。問題は精度だった。顔。体格。服装。全てが一致していた。監視カメラ越しの粗い映像であっても、あそこまで自然に見せるには相当な準備が要る。  事前に神崎の行動パターンを把握していた人間の仕事だ。どの服を着て出勤するか。退勤後にどこへ向かうか。体の動かし方の癖。それらを全て記録し、再現できる人間。  候補は絞られる。捜査一課で神崎の隣に座っていた人間。張り込みで何百時間も隣にいた人間。  名前はまだ口にしない。確証がない段階で結論に飛ぶのは捜査官の禁忌だ——だが、胸の底で疑念が石のように重く沈んでいた。  次に凶器だ。ナイフから神崎の指紋が検出された。触ったことのないナイフに、自分の指紋がある。指紋の転写。ラテックスの型取りか、テープによる複写か。どちらにしろ、神崎の指紋を採取する機会が必要になる。  機会は山ほどあった。コーヒーカップ。書類のファイル。ドアノブ。デスクの引き出し。捜査一課のオフィスで、神崎の指紋を採取することは誰にでもできた。特別な技術は要らない。必要なのは、意図と計画だけだ。  三つ目。三宅の所在だ。  三宅が情報提供者であることは、神崎と東條しか知らなかった。二人で三宅を管理し、情報の受け渡しは常に神崎が一人で行った。接触場所は毎回変えたが、三宅の自宅住所を知っていたのは——  神崎と、東條だけだ。  歯を噛み締めた。運河の水面が黒く揺れている。どこかで配管が水を吐き出す音がしていた。  東條誠一郎。十年来の相棒。新人時代に組対の現場で背中を預け合った男。あいつの結婚式ではスピーチをした。あいつの娘が生まれたとき、病院に駆けつけた。  状況証拠は全て東條を指している。三宅の所在を知っていた。神崎の行動パターンを熟知していた。指紋を採取する機会は無数にあった。事件当夜、東條は「直帰した」と報告していた——その行動を裏付ける者はいない。  だが動機は。  武器密輸ルートの捜査が東條にとって不都合なら。三宅が掴んだ「元締めの正体」が東條自身、あるいは東條が関わる人間なら。  全てが繋がる。  反吐が出そうだった。  信頼していた。命を預けた。その人間に嵌められた。  ——だが今はまだ推論だ。裏を取らなければ意味がない。  東條の関与を証明するには、内部の捜査記録が必要だった。証拠の提出記録。押収物の管理台帳。防犯カメラ映像の取得経路。これらのどこかに、必ず改竄の痕跡がある。完璧な偽装などない。神崎が十年かけて学んだことだ。犯人は必ずどこかで手を抜く。どこかに綻びを残す。  問題は、その記録に手が届かないことだ。指名手配犯が捜査一課のデータベースにアクセスする方法はない。外部から侵入するにはシステムの知識が足りない。  だから内部の人間が必要だった。  桐生彰人。  元同僚。二年前に所轄に異動した。今は大崎署の刑事課にいるはずだ。捜査一課時代の人脈は健在で、内部資料にアクセスする手段を持っている。何より、桐生は信頼できた——東條に対する感情を差し引いても、桐生に対してだけは、その確信が揺るがなかった。  だが接触は慎重に行わなければならない。桐生の自宅は監視されている可能性がある。携帯への直接連絡は論外だ。盗聴されている。  方法を考える。  桐生には癖があった。毎朝六時半にランニングをする。コースは大崎署の近くの目黒川沿い。雨の日以外は欠かさない。十年前から変わらない習慣だ。  今日は雨ではなかった。風は冷たいが、空に雲は少ない。  目黒川まで——ここから約十キロ。徒歩で二時間半。電車は使えない。改札に監視カメラがある。バスも同様だ。歩くしかない。  六時半までに着けばいい。今は午前三時を回ったところ。時間は足りる。  神崎はベンチから立ち上がった。腹の下に隠した資料の重みを確かめる。紙の束。これが今の自分の全てだ。これと、自分の脳に刻まれた十年分の経験。  歩き出す。倉庫街を抜け、住宅地の裏道へ入る。幹線道路は避ける。監視カメラの死角を縫うように、路地から路地へ。  足が痛んだ。サンダルの鼻緒が指の間に食い込んでいる。腕のガラス傷からは鈍い疼きが波のように寄せては返した。だが歩調は崩さない。  三十分ほど歩いたところで、頭の中の整理が一つの形に収束した。  事件の不自然さは三つ。映像の偽造。指紋の転写。三宅の所在の漏洩。いずれも、捜査一課の内部——それも、神崎の極めて近い位置にいた人間にしかできない工作だ。  東條が黒なら、単独犯ではありえない。映像偽造には技術者が要る。三宅を殺害した実行犯も別にいる。東條の背後に組織がある。武器密輸ルートの元締め。三宅が最後に掴もうとした名前。  一人では勝てない。  だからこそ桐生が必要だった。内部資料を手に入れ、改竄の証拠を押さえ、東條の背後にいる人間を炙り出す。地道な作業だ。派手な逆転劇ではない。捜査と同じだ。一つずつ裏を取り、積み上げる。  空の色が変わり始めていた。東の空に灰色がかった青が滲む。四月の朝が、静かに近づいてくる。  品川の住宅街を抜けたとき、路地の向こうにコンビニの明かりが見えた。立ち寄りたい衝動を抑える。顔を覚えられるリスクは犯せない。手持ちの四万二千円は、もっと切迫した場面まで温存する。  目黒川はもう近かった。  川沿いの桜並木が見え始める。花はとうに散り、葉桜が街灯に照らされて暗い緑を見せていた。遊歩道に人影はない。朝のランナーが現れるまで、まだ一時間以上ある。  神崎は護岸のコンクリートに腰を下ろした。川面を覗き込む。黒い水が音もなく流れている。自分の顔は映らなかった。  ポケットに手を入れる。指先に触れたのは、焼き鳥屋の領収書。くしゃくしゃに丸まった薄い紙片。これが自分のアリバイを証明する唯一の物証だ。だが、この領収書を法廷に出す機会が来るかどうか——それすら分からない。  東の空が白んできた。最初のランナーが橋の向こうに現れるまで、あとどれくらいか。  目を閉じた。三秒だけ。  目を開けたとき、遊歩道の先——橋の袂に人影が見えた。朝日を背にした逆光のシルエット。ランニングウェア。ストレッチをしている。  桐生、ではなかった。女性だ。犬を連れている。  まだ早い。  六時二十五分。空気が少し温んできた。川沿いに鳥の声が聞こえ始めている。  そのとき、橋の反対側から別の人影が現れた。  長身。痩せ型。左手首にスマートウォッチ。走り出す前にイヤホンを外す癖——。  桐生だった。  神崎は立ち上がった。足が重い。十キロを歩き通した疲労が、今になって膝に来ている。  桐生との距離が縮まる。三十メートル。二十メートル。桐生はまだ気づいていない。軽くその場で足踏みをしながら、走り出すタイミングを計っている。  十メートル。  「——桐生」  声は掠れていた。自分でも驚くほど。  桐生の動きが止まった。振り向く。目が合った。その瞬間、桐生の表情が凍りついた。驚愕。困惑。そして——恐怖に似た何か。  「蓮司——」  名前を呼ばれたのは、逮捕状が出てから初めてだった。

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