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影狩の贖罪

第2話 第2話

第2話

第2話

先頭の男の懐から光が走った。折り畳みナイフ。刃渡り十センチ。

遅い。

一真は踏み込みながら上体を左にずらし、ナイフを持つ右手首を外側から掴んだ。捻る。手首の関節が悲鳴を上げ、男の指が開く。ナイフが地面に落ちる甲高い音。そのまま手首を引きながら膝を男の腹に叩き込んだ。肋骨を通じて内臓に衝撃が伝わる感触。男が「ぐ」と短く呻き、二つ折りになる。側頭部に肘を落とす。崩れた。一人目、三秒。

二人目が右から来る。拳。大振りのフック。格闘技の心得はあるが、路地での実戦経験が浅い。壁との距離を計算していない。一真は半歩下がって拳をやり過ごし、空振りの勢いで体勢が崩れた男の襟を掴んだ。引き寄せ、額を鼻梁にぶつける。頭突き。軟骨が潰れる湿った音。血が飛散し、一真のパーカーに黒い染みが散った。男が両手で顔を押さえた隙に、喉元に貫手を当てる。呼吸が止まる。膝が折れる。二人目、四秒。

三人目は半歩退いていた。判断が早い。懐からスタンガンを抜き、青白い火花を散らしている。他の二人より冷静な目。指揮役か。

「——影狩か」

男が呟いた。一真の動きを見て、出自を読んだ。訓練を受けた人間の目だ。

「元、な」

間合いは二メートル。スタンガンのリーチは腕の長さプラス二十センチ。つまり接触しなければ意味がない。問題は、この男が突っ込んでくるか退くかだ。

男が動いた。前に出た。スタンガンを突き出しながらの直線的な突進。覚悟を決めた動き。だが直線は読みやすい。一真は右に身を翻し、壁を蹴って男の背後に回り込んだ。後頭部の付け根、延髄の少し上に掌底を叩き込む。意識を刈る一撃。男の目が裏返り、膝から崩れた。スタンガンが地面に転がり、火花を散らしながら消えた。三人目、二秒。

計九秒。呼吸を整える必要すらなかった。

路地に静寂が戻る。三人の男が折り重なるように倒れている。どれも気絶しているだけで、命に別状はない。殺す必要がなかった。殺す理由もなかった。一真は右拳を開閉した。試合の傷に新しい痛みが重なる。だが、この程度は痛みのうちに入らない。

視線を上げた。

少女が壁に背を貼り付け、両腕で自分の身体を抱きしめていた。大きく見開かれた目が一真を見ている。恐怖。助けた相手に向けるものではなく、もっと根深い、長い時間をかけて刷り込まれた種類の恐怖。暴力そのものに対する、条件反射のような怯え。

「大丈夫だ」

一真は両手を見せた。武器を持っていないことを示すジェスチャー。戦場で民間人と接触する際の基本動作が、無意識に出た。

「もう手は出さない。こいつらは動けない」

少女の呼吸が荒い。過呼吸の一歩手前。肩が小刻みに震え、歯の根が鳴っている。一真は距離を保ったまま、ゆっくりとしゃがんだ。目線を少女の高さに合わせる。

「名前は」

沈黙。五秒。十秒。やがて、かすれた声が返ってきた。

「——ユナ」

「ユナ。苗字は」

「白咲」

白咲ユナ。声はまだ震えていたが、名前を告げたことで僅かに呼吸が落ち着いた。自分の名前という、最も基本的なアイデンティティを口にすることが、彼女を現実に繋ぎ止めたのかもしれない。

「怪我は」

「膝だけ……走って、転んだから」

「逃げてきたのか」

少女が頷いた。小さく、しかし確かに。

一真の目が、再び少女の左腕に向いた。袖が捲れたまま露出している蛇環の焼印。間近で見ると、さらに凄惨だった。蛇の鱗が一枚ずつ焼き分けられ、環を成す胴体の中央に六桁の数字が刻まれている。〇七——番号の上二桁だけが読み取れた。周囲の皮膚は引き攣れ、何度も焼き直された痕跡がある。最初に刻まれたのは、ずっと幼い頃だろう。成長に合わせて焼印を更新したということだ。

家畜と同じだ。

一真の奥歯が軋んだ。

「あいつらは蛇環の人間か」

ユナの身体が跳ねた。名前を聞いただけで、これほどの反応を示す。組織の恐怖がどれほど深く刻まれているか。焼印より深い傷が、この少女の中にある。

「知って……るの」

「昔、仕事で関わった」

ユナは一真の目を見た。怯えの奥に、かすかな光。判断しようとしている。この男が信用できるかどうか。組織の人間ではないか。新手の罠ではないか。何年も裏切られ続けてきた人間特有の、研ぎ澄まされた警戒心。

「俺は蛇環の敵側だった。少なくとも、味方じゃない」

ユナの視線が倒れている三人に向かい、また一真に戻った。

「——戻ったら、殺される」

声が割れた。震えではなく、確信から来る声だった。

「逃げた資産は処分対象。施設にいたとき、何度も見た。戻された子が、次の日にはいなくなってた。どこに行ったか、誰も聞かなかった。聞いたら自分も消えるから」

一真は黙って聞いた。少女の言葉に感情を挟まない。今必要なのは共感ではなく、情報だ。

「いつ逃げた」

「三日前。東京に来たのは昨日。移送中にトラックから飛び降りた」

「三日間、一人で?」

ユナは頷いた。ネットカフェと公園を転々としていたらしい。金は施設から持ち出した僅かな現金。もう底を突いている。今夜追いつかれたのは、監視カメラのネットワークを使われた可能性が高い。蛇環は都市部の防犯カメラに独自のアクセス経路を持っていると、軍時代のブリーフィングで聞いた。

倒れている男の一人が微かに呻いた。意識が戻りかけている。時間がない。増援が来る可能性も考慮すべきだ。この三人が最終ラインとは思えない。位置情報は既に共有されているだろう。

判断を迫られている。

見捨てるか。匿うか。

見捨てれば、元の日常に戻れる。地下格闘場で拳を振り、空虚な夜を繰り返す。誰も傷つけず、誰も守らない。安全で、無意味な日々。

一真は倒れた男のジャケットを探った。携帯電話を抜き取り、バッテリーを外す。三人分。GPS追跡を断つための最低限の処置。それからスタンガンとナイフを回収し、排水溝の格子の隙間に落とした。金属が水面を叩く音が、暗い穴の底から返ってきた。

「来い」

ユナが目を見開く。

「一晩だけだ。朝になったら考える」

それ以上の約束はできない。一晩。その先のことは分からない。分からないが、今この瞬間、この少女を路地に置いていく選択肢は——なかった。

あの日、守れなかった部下の顔が脳裏をよぎった。目を開けたまま動かなくなった、二十三歳の青年。もう一度、同じ後悔を重ねる気はない。

ユナは三秒ほど一真を見つめ、それから小さく頷いた。壁から背を離し、震える足で立ち上がる。膝の擦り傷から血が脚を伝い、靴の中まで染みているようだった。

一真は先に立って歩き始めた。裏路地を抜け、人目につかないルートを選ぶ。背後にユナの足音。小さく、不規則で、時折つまずく音が混じる。だが確実についてきている。

アパートまで十二分。その間、二人とも口を開かなかった。

築四十年のワンルーム。六畳一間に最低限の家具。万年床の布団と、折り畳みのテーブル。冷蔵庫には缶コーヒーと栄養補助食品しか入っていない。生活感のない、ただ眠るためだけの空間。

一真は救急箱を出し、ユナの前に置いた。

「膝、自分でやれるか」

ユナは頷き、慣れた手つきで消毒液を傷口に塗った。痛みに顔をしかめもしない。痛みに慣れている。この年齢の少女が見せるべき反応ではなかった。

一真は窓際に立ち、通りを見下ろした。不審な車両はない。尾行もなかった。だが安心はできない。蛇環の情報網を考えれば、この場所が割れるのは時間の問題だ。一晩と言った。一晩が限界だろう。

「——おじさん」

背後からユナの声。

「名前、聞いてない」

一真は窓から視線を外さなかった。

「柊。柊一真」

「柊さん」

ユナの声が僅かに変わった。震えは残っているが、さっきまでの切迫感が薄れている。屋根の下にいるという、たったそれだけの事実が人間に与える安堵。

「ありがとう」

一真は答えなかった。礼を言われることをしたつもりはない。ただ、身体が動いた。それだけだ。それだけのはずだ。

ユナが布団の端で膝を抱え、数分もしないうちに意識を手放した。三日間の逃亡で限界だったのだろう。寝息が微かに聞こえる。年相応の、無防備な寝顔。左腕の焼印だけが、この少女の日常がどれほど歪んでいたかを物語っている。

一真は壁に背を預け、目を閉じた。眠る気はない。数時間後には動く必要がある。この場所を引き払い、ユナを安全な場所に移し、そして——

そして、どうする。

拳を握った。右拳の皮が張り、試合と路地の二重の傷が脈を打つように疼いた。

考えるのは朝でいい。今は、この部屋に侵入者がないか見張ることだけに集中する。それが今夜の任務だ。

窓の外、歌舞伎町のネオンが明滅していた。どこかでサイレンが鳴り、また消えた。東京の夜は、何事もなかったかのように続いていく。

だが一真の中で、二年間止まっていた歯車が、かすかに軋みながら動き始めていた。

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