第1話
第1話
歓声が、遠い。
リングの向こうで二百キロの大男が崩れ落ちる。膝から力が抜け、コンクリートの床に肩から突っ込んだ。鈍い衝突音。三秒。右のジャブでガードを割り、左のボディで肝臓を抉り、最後に右ストレートを顎に叩き込んだ。教科書通りの三連打。特殊部隊"影狩"で千回繰り返したコンビネーションが、今も身体に刻まれている。
違法格闘場"穴蔵"。新宿の地下三階、コンクリート剥き出しの空間に、煙草の煙と酒の匂いと血の臭いが充満している。天井を這う錆びた配管が低く唸り、どこかで水が滴る音がする。リングと呼ぶには粗末すぎるロープで囲われた六メートル四方。観客は百人ほど。賭け金が飛び交い、怒号と歓声が天井に反響する。汗と興奮が混じった熱気が、地下特有の冷気を押しのけて肌にまとわりつく。
柊一真は倒れた男を見下ろした。
何も感じない。
勝利の高揚もない。相手への同情もない。拳に伝わった骨の感触だけが、自分がまだ生きている証拠だった。右拳の皮が裂け、薄く血が滲んでいる。痛みは遅れてやってくる。いつもそうだ。戦闘中、身体は痛覚を遮断する。軍にいた頃に身についた、生存のための機能。
審判役の男が一真の腕を掴んで高く掲げる。「勝者、"影"! 十三連勝!」。歓声が膨れ上がる。観客席の最前列で札束を振り回す男がいる。その隣では賭けに負けた男が椅子を蹴り倒している。だが一真の耳には、別の音が聞こえていた。
——隊長、左翼から敵影三。
あの日の通信音。部下の声。イヤホン越しに聞いた、わずかに上擦った若い声。緊張を隠しきれていなかった。それでも報告は正確だった。優秀な兵士だった。
——了解。俺が前に出る。援護しろ。
判断ミスだった。敵の配置を読み違えた。前に出た自分ではなく、援護位置に残った部下が集中砲火を浴びた。通信機の向こうで短い呻きが聞こえ、そのあとは砂を噛むようなノイズだけが残った。駆けつけたとき、部下は目を開けたまま動かなくなっていた。二十三歳。入隊して一年。笑うと目が細くなる、まっすぐな青年だった。最後の会話は「隊長、明日の飯、カレーっすかね」だった。くだらない会話だ。それが最後になるとは、どちらも思っていなかった。
一真はロープをくぐり、控室へ向かった。
薄暗い控室。パイプ椅子と錆びたロッカーだけの部屋。蛍光灯が一本、ちらちらと瞬いている。壁にはかつて誰かが殴りつけた跡が残り、コンクリートが拳の形に陥没している。一真は椅子に腰を下ろし、タオルで拳の血を拭った。自分の血か、相手の血か。どちらでもいい。タオルの繊維が裂けた皮膚に引っかかり、鈍い痛みが指先から肘まで走った。
鏡に映る自分の目。何も映していない。守るべきものを全部失った人間の目だ。空洞。それ以外の言葉が見つからない。
「よう、今日も派手にやったな」
ドアが開き、老トレーナーの権田が顔を出した。六十過ぎの痩身。元ボクサー崩れで、この格闘場の古株だ。鉤鼻の横に走る古い傷痕が、蛍光灯の下で白く光る。手には缶コーヒーが二本。
「飲め。糖分が要る」
「ああ」
一真は缶を受け取った。プルタブを引く指に、かすかな震えがある。アドレナリンの残滓。あるいは、フラッシュバックの余波。缶の冷たさが掌に染みる。試合直後の身体は体温が上がりきっていて、金属の冷感がやけに鮮明に伝わった。
権田がパイプ椅子を引きずって座った。金属の脚がコンクリートを擦り、耳障りな音が控室に響く。「お前さん、いつまでこんなとこで拳振ってんだ」
「他に使い道がない」
「嘘つけ。使い道がねぇんじゃなくて、使い道を探す気がねぇんだろ」
一真は答えなかった。権田の言葉は正確だ。探す気がない。探してどうする。自分の拳は人を壊すことしかできない。軍ではそれが「任務」と呼ばれた。ここでは「試合」と呼ばれる。名前が変わっただけで、やっていることは同じだ。壊す対象が敵兵から元格闘家に変わった。それだけの違いだ。
缶コーヒーを一口飲む。甘すぎる。舌の上で砂糖の味が広がり、すぐに消えた。
「来週、"鬼門"からの刺客が来る。でかいぞ、元総合格闘技のランカーだ」
「構わない」
「構わない、じゃねぇよ。お前が勝ち続けりゃ、そのうちもっと厄介な連中の目に留まる。裏の世界にはな、拳じゃどうにもならん相手がいるんだ」
権田の声に、珍しく真剣な響きがあった。皺の刻まれた目元が一瞬険しくなり、すぐに元の飄々とした表情に戻る。だがその一瞬を、一真は見逃さなかった。この老人は何かを知っている。あるいは、何かを見てきた。聞く気にはならなかったが。一真は缶を握り潰し、ゴミ箱に放り込んだ。アルミが潰れる軽い音。
「俺には関係ない」
「——お前さんの口癖だな、それ」
権田はため息をつき、立ち上がった。「今日の取り分、いつもの場所に入れとく。身体、ちゃんと冷やせよ」
ドアが閉まる。蛍光灯の明滅だけが残った。ジジ、と微かな電子音を立てて蛍光灯が瞬くたび、控室の影が伸び縮みする。
一真はロッカーから黒いパーカーを引っ張り出し、頭から被った。フードを深く下ろす。試合後のルーティン。顔を隠し、裏口から出て、誰にも見つからずに帰る。それだけだ。
地下への階段を上がると、四月の夜風が頬を叩いた。湿った空気。雨が近い。風に混じる排水溝の匂いと、どこかの屋台から流れてくる油の匂い。地下の血と汗の臭気に慣れた鼻には、それすら清涼に感じた。歌舞伎町の裏通りは午前二時でも人の気配が絶えない。酔っ払いの笑い声、客引きの呼び込み、どこかのクラブから漏れる重低音。ネオンの残光が濡れたアスファルトに滲み、赤と青の色彩がぼんやりと路面を染めている。
一真は人混みを避け、ビルの隙間の細い路地に入った。ここを抜ければ大通りに出る。そこからアパートまで徒歩十五分。いつもの帰路。両側のビルの壁が迫り、空は細い一筋の暗がりに切り取られている。足元にはゴミ袋と空き缶が散らばり、踏むたびに乾いた音が路地に反響した。
足を止めた。
路地の奥から、音が聞こえた。
くぐもった声。抵抗する衣擦れ。そして——
「離せっ……!」
少女の声だった。高く、細く、恐怖で引き攣っている。
一真の足が動いた。考えるより先に。身体が反応していた。心臓が一拍、強く跳ねる。戦場で何度も感じた、あの感覚。状況判断より先に肉体が臨戦態勢に入る。呼吸が自然に深くなり、視界が研ぎ澄まされた。
路地を曲がる。街灯のない袋小路。非常階段の下。
三人の男が、一人の少女を囲んでいた。
男たちは黒いジャケットに統一された服装。体格は中程度だが、動きに訓練の痕跡がある。素人じゃない。足の置き方、互いの間合いの取り方。連携に慣れている。少女は壁際に追い詰められ、両腕で頭を庇っている。小柄。長い黒髪が乱れて頬に張り付いている。制服のような紺のスカート。膝に擦り傷があり、血が薄く伝っていた。年齢は——十四、五。
「大人しくしろ。手間かけさせんな」
先頭の男が少女の腕を掴んだ。少女がもがく。その拍子に左腕の袖が捲れ上がった。
一真の目が、そこに釘付けになった。
左腕の内側。手首から肘にかけて。焼き付けられた、蛇が環を成す紋様。赤黒い瘢痕が肌に食い込み、鱗の一枚一枚まで残酷なほど精緻に刻まれている。
知っている。
軍時代、何度も資料で見た図案。巨大犯罪組織"蛇環"の所有標識。人身売買の「商品」に焼印として刻まれるマーク。国家機関すら食い込む化け物のような組織。影狩が追い、そして追いきれなかった相手。あの組織を潰せなかったことは、部下の死と並んで一真の中に沈む暗い澱だった。
なぜ、こんな少女に。
胸の奥で、錆びついていた何かが軋んだ。
「おい」
一真の声が、路地に響いた。低く、静かに。だがその声には、リングの上では決して出さなかった感情の温度があった。
三人の男が振り向く。先頭の男の目が細くなった。
「通りすがりだ。消えろ」
「悪いな」
一真はフードを下ろした。
「消えるのは、そっちだ」
先頭の男が舌打ちし、懐に手を伸ばした。ナイフか、スタンガンか。どちらでもいい。
距離、四メートル。三対一。閉所。有利なのは、こちらだ。狭い路地では数の優位が消える。一対一を三回やればいい。それなら、負ける道理がない。
一真は地面を蹴った。
——少女の悲鳴が、夜の路地に反響した。