Novelis
← 目次

影狩の贖罪

第3話 第3話

第3話

第3話

薄明かりが窓を白く染め始めた頃、ユナが跳ね起きた。

悲鳴はなかった。声を殺すことに慣れている。ただ全身がばねのように硬直し、両手が喉元を庇うように上がった。数秒の空白。見開かれた目が部屋を走査し、一真の姿を捉えて、ようやく肩の力が抜けた。

「——夢か」

一真は壁際から動かずに言った。一晩、一度も目を閉じていない。ユナは三度うなされた。そのたびに身体が痙攣し、左腕の焼印を右手で掻きむしった。爪の跡が赤く残っている。

ユナは膝を抱え直し、小さく頷いた。

「いつも見る。施設の夢」

「施設」

「うん。蛇環の——」

名前を口にした瞬間、反射的に声が落ちた。壁に耳があるかのような警戒。長年の条件付けだ。

一真は折り畳みテーブルに缶コーヒーと、コンビニで買い置きしていたカロリーメイトを置いた。ユナは数秒それを見つめてから手を伸ばした。食べ方に特徴がある。小さく割って、咀嚼の回数を数えるように食べる。少量ずつ確実に嚥下する。食事を取り上げられた経験がある人間の食べ方だった。

「話せる範囲でいい。お前がいた場所のことを教えろ」

命令口調。意図的にそうした。同情を示せば警戒される。ユナのような環境で育った人間は、優しさの裏に取引条件が隠れていると知っている。事務的に聞いたほうが、かえって本当のことを話しやすい。

ユナはカロリーメイトを膝の上に置き、左腕の焼印を見下ろした。

「私は——資産番号〇七」

声に感情がなかった。事実を読み上げるような平坦な調子。

「名前で呼ばれたことは、ない。〇七。それが私の番号。施設の子供はみんな番号で管理されてた。〇一から始まって、私がいた頃は三十番台まであった」

三十人以上の子供。一真の顎が僅かに引き締まった。

「年齢は」

「バラバラ。五歳くらいの子もいた。私が入ったのは六歳のとき。記憶がある中で一番古いのは、腕を焼かれた日。泣いたら殴られた。二回目からは泣かなくなった」

淡々と語る声が、かえって凄惨さを際立たせた。一真は口を挟まない。

「施設は山の中。窓がなかった。毎日検査があって、血を抜かれて、薬を飲まされた。何の薬かは分からない。飲むと頭がぼんやりして、次の日に身体中が痛くなる子もいた。動けなくなった子は別の部屋に移されて、戻ってこなかった」

ユナの指が左腕の焼印をなぞった。蛇が円環を成す紋様の中心、六桁の数字。〇〇〇〇〇七。

「管理者は私たちを"製品"って呼んでた。出来のいい製品は"出荷"される。どこに行くのかは知らない。出荷された子も、戻ってこなかった」

一真は窓際に視線を移した。朝の光が歌舞伎町の裏通りを照らし始めている。ネオンが消え、代わりにゴミ収集車のエンジン音が響く。日常だ。この街のすぐ裏側で、子供が番号で呼ばれ、薬を投与され、消えていく。

「逃げられたのは」

「移送のとき。トラックの荷台に四人いた。カーブで扉の鍵が緩んで、私だけ飛び降りた。他の子は——」

ユナの声が初めて詰まった。三秒の沈黙。

「動けなかった。薬が効いてて」

つまり、ユナだけが薬の影響を受けにくい体質だった。あるいは、逃げるために密かに薬を吐き出していた。どちらにせよ、この少女の生存本能は並ではない。

一真はそれ以上聞かなかった。今の情報で十分だ。蛇環が子供を使った人体実験を行っている。規模は数十人。施設は山中。移送にトラックを使う。そして逃亡した「資産」の回収に、訓練を受けた人員を即座に投入できる組織力がある。

携帯電話が震えた。非通知。出ない。だが直後、登録済みの番号からメッセージが入った。権田だ。

『顔出せ。話がある。急ぎだ』

一真はユナを見た。

「ここにいろ。鍵はかける。誰が来てもドアを開けるな」

ユナは頷いた。その目に問いかけがあったが、口には出さなかった。聞いても答えが返らないと、もう理解している。

穴蔵に着いたのは午前九時過ぎだった。試合がない昼間の格闘場は、ただの薄暗いコンクリートの箱だ。リングのロープが弛んで垂れ、床の血痕が乾いて黒ずんでいる。消毒液と古い汗の匂いが混じり合った空気が、地下特有の冷気と一緒に肺を満たした。

権田は控室にいた。パイプ椅子に座り、テーピングを巻きながら待っていた。一真が入ると、テーピングの手を止めずに口を開いた。

「昨夜、裏路地で暴れたろ」

否定しなかった。権田の情報網は穴蔵界隈に限れば警察より早い。

「防犯カメラに映ってるかは知らん。だが、お前が関わった連中の素性は調べがついた」権田の目が据わっていた。試合前のボクサーを見る目ではない。もっと切迫した、何かを恐れている目。「蛇環だ。間違いねぇ」

「知ってる」

「知ってる?」権田がテーピングを投げた。ロールが床を転がり、壁際で止まった。「知ってて手を出したのか。馬鹿が。正真正銘の馬鹿だ」

権田が立ち上がった。細い体躯に似合わない迫力で一真の前に立つ。

「いいか、よく聞け。蛇環ってのはな、お前が軍でやり合ってた頃とは規模が違う。この二年で東京の裏経済の三割を喰った。警察の上層部にも根を張ってる。末端の三人を潰したところで、翌日には十人来る。そういう組織だ」

「知ってる」

「知ってる知ってるって、お前は——」

権田が言葉を切った。深く息を吐き、パイプ椅子に座り直す。金属の脚がコンクリートを擦る音が控室に響いた。

「今朝から街に妙な車が増えてる」

一真の目が細くなった。

「黒のミニバン。ナンバーは全部違うが、車種が同じだ。新宿三丁目、歌舞伎町の裏、大久保寄りの通り。三台確認した。中に人が乗ったまま、動かねぇ。監視だ」

三台。包囲網の初動。一真の脳が自動的に地図を描いた。三丁目が南、歌舞伎町裏が中心、大久保寄りが北西。東側が空いている。逃走経路を残しているのか、まだ配置が完了していないのか。

「あの少女だろ。連れてるのは」

一真は答えなかった。沈黙が肯定になると分かっていても。

権田は鉤鼻の傷を指で擦った。昔の癖だ。追い詰められた時に出る。

「俺はな、お前さんに恩も義理もねぇ。だが十三試合見てきて、少しは情が移った。だから言う」権田の声が低くなった。「蛇環に関わるな。あの少女を警察に預けて、手を引け。それがお前のためだ」

「警察は動かない。蛇環が上層部を押さえてるなら尚更だ」

「だからって、お前一人で何ができる」

「一人で十分だ。末端なら」

権田が黙った。一真の目を見ている。かつてリングの向こう側から何人もの格闘家を見送ってきた老人の目。勝てない試合に上がる人間の目を、何度も見てきたのだろう。

「——止められねぇか」

「ああ」

権田はため息をついた。長い、諦めの混じった息。それから控室の奥の棚に手を伸ばし、古い携帯電話を放り投げてきた。一真が片手で受け取る。

「プリペイドだ。俺との連絡用にしろ。お前の今の番号はもう安全じゃねぇ。あいつらが本気で探してるなら、通信傍受くらいやる」

一真は携帯電話をジャケットの内ポケットに入れた。権田の気遣いを礼で返す言葉は持ち合わせていない。代わりに頷いた。

「もう一つ」権田が言った。「今日の夜、穴蔵に来るな。明日も来るな。ほとぼりが冷めるまで近づくな。お前が出入りしてることが割れたら、ここも巻き込まれる」

当然の判断だ。一真に異論はなかった。

控室を出る。地下への階段を上がりかけたとき、権田の声が背中に届いた。

「一真」

名前で呼ばれたのは初めてだった。足を止める。

「死ぬなよ」

一真は振り返らなかった。階段を上がり、地上に出た。

四月の朝。日差しが強くなり始めている。新宿の雑踏がざわめき、通勤の人波がアスファルトを埋めていく。一真はフードを被り、人波に紛れながら視線を走らせた。

見つけた。

大久保寄りの交差点。黒のミニバン。運転席に人影。助手席にも。窓の内側に薄いスモーク。だが角度を変えれば、中の人数は読める。二人。エンジンはかけたまま。いつでも動ける態勢。

権田の言う通りだ。街に蛇環の目が光り始めている。

アパートに戻るルートを変更した。通常の三倍の時間をかけ、裏路地と商業ビルの通用口を経由する。尾行がないことを四回確認してから、アパートの非常階段を上った。

ドアを叩く。二回、間を置いて一回。事前に決めたノックではない。だがユナは気配で判断したのか、鍵が開く音がした。

部屋に入ると、ユナが窓から離れた壁際に座っていた。カーテンの隙間から外を見ていた痕跡がある。

「車、見た」

ユナの声は静かだった。恐怖はある。だが昨夜とは質が違う。逃げ続けてきた少女の恐怖ではなく、追手の接近を報告する観察者の声だった。

「黒い車が二台、通りを何度も往復してた」

一真の中で、歯車がまた一つ噛み合った。包囲は始まっている。ここに留まれる時間は、あと数時間だ。

内ポケットのプリペイド携帯を握った。次の手を打つ必要がある。この少女を守り、蛇環の目を掻い潜り、安全な場所を確保する。一人でできることには限界がある。だが頼れる人間は——

脳裏に、一つの名前が浮かんだ。軍時代の情報屋。裏社会の地図を描ける男。

氷室。

一真は携帯を開いた。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!