第2話
第2話
バスの窓ガラスに額をつけると、振動が頭蓋骨の奥まで伝わってきた。新名神を走る四十七人乗りの大型観光バス、二号車の後ろから三列目、右の窓側。湊の指定通り、僕の隣の席は空いていない。湊が、そこに座っていた。 「陽介、起きた?」 「……起きてた」 「嘘。さっき口開いてたよ」 「開いてない」 「開いてた。私、写真、撮ったから」 湊はスマホの画面を僕の方に向けた。確かに、僕の口は半分開いていて、頬がガラスに押し潰されていた。ひどい顔だった。 「消して」 「やだ」 「頼むから消して」 「四年ぶりに正面、写ったんだから、消さない」 湊はそう言って、笑った。前髪の赤いヘアピンが、車内の蛍光灯の下でほんの少し揺れる。バスの上下動に合わせて、湊の肩が僕の肩に軽くぶつかる。シャンプーの甘い匂いと、ジャージの繊維に染み込んだ洗剤の匂いがした。湊の笑い声は短くて、でも、そのあとに続く沈黙の方が、ずっと長かった。 しおりの一日目のページが、湊の膝の上で開かれていた。九時三十分、清水寺到着。十一時、班別行動開始。十三時三十分、嵐山集合。十六時、宿舎着。十八時、夕食――。予定表の文字が、揺れる車内で少しずつ滲む。湊の指が、その時刻表の余白を、爪の先で何度もなぞっていた。 「お腹、減らない?」 「まだ、九時前」 「私、減った」 「ばあちゃんのおにぎり、食べる?」 「いいの?」 「梅と、鮭と、おかかと、卵焼き」 「卵焼きは、おにぎりじゃないよ」 「じいちゃんも、同じこと言ってた」 湊は梅のおにぎりを選んで、僕は鮭を食べた。バスの中で食べるおにぎりは、家の台所の匂いがした。海苔が指に張り付くたび、昨日の縁側のあの低い声を思い出しそうになって、僕は窓の外に視線を逃がした。窓の外の山肌は、新緑の濃さで波打っていて、そのうねりに目を預けていると、声の輪郭が少しだけ遠のいた。
九時三十二分、清水寺の坂を僕らは登り始めた。修学旅行のシーズンで、参道は他校のジャージに埋め尽くされていた。緑、紺、えんじ、灰色。違う制服、違う学校の名札、似たような疲れた顔。僕らの班は田所と鈴村と、あと女子二人。湊は二班、別行動だった。 「鈴木、写真な」 「うん」 「お前、撮るの担当」 「うん」 田所からスマホを渡されて、僕はファインダー越しに、田所と鈴村と女子二人を見た。本堂の舞台、三重塔、清水の音羽の滝。ジェスチャーする指、ピースする指、肩を組む腕。被写体としての僕は、フレームの外にいる。フレームの中の四人は笑っていて、フレームの外の僕の指先は、シャッターボタンの上で少しだけ冷たかった。 「鈴木も入れよ」 「いいよ、撮る方で」 「いいから。すいません、撮ってもらっていいですか」 別の高校の女子が、慣れた笑顔で承諾した。並ばされて、田所の腕が僕の肩に回った。腕の重みは、軽くもなく、重くもなく、ただ、自分のものではない温度だった。 「はい、ピース」 僕の指は、ピースの形にならなかった。中途半端に開いた指の隙間から、舞台の向こうの京都の街並みが見えた。瓦屋根の重なりが、午前の光に細かく反射していた。シャッターが切れる音。僕は半歩、後ろに下がっていた。 「鈴木、また端っこかよ」 「ごめん」 「謝ることじゃねえけどさ」 昼飯はにしんそばの店だった。鈴村は丼を撮影して、田所はそばを啜り、女子二人は写真の選別をしていた。僕は出汁の匂いの中で、湯気の向こうを見ていた。湯気の向こうに、誰かがいる気がして、いない。にしんの甘辛い煮汁が出汁に滲んで、その茶色の輪郭が、丼の縁で少しずつ広がっていくのを、僕はずっと見ていた。 十三時三十二分、嵐山の渡月橋。桂川の水面が五月の日差しに細かく光って、見ていると目の奥が痺れた。竹林の小径の入り口、人力車の客引き、抹茶ソフトの行列。班別行動の終盤、田所が「鈴木、ソフト並んどいて」と言ったので、僕は二十分、列に並んだ。並んでいる間、誰も僕に話しかけなかった。並んでいる、というより、立っている、に近い時間だった。前の客のリュックの背中ばかり見ていた。背中の縫い目が、少しほつれていた。 「陽介」 声に振り返ると、湊が竹林の方から走ってきた。ジャージの腕に、和紙の栞が入った紙袋を抱えている。走ってきたせいで、前髪の赤いヘアピンが少しずれていた。 「二班、もう自由時間終わるから。陽介の班、まだ?」 「あと、ソフト買って、合流」 「ふうん」 湊は僕の隣に並んだ。並ぶというより、横にいる、という感じで。順番が回ってきて、僕は四つ、抹茶ソフトを買った。湊の分は、買わなかった。湊の班は別の店でかき氷を食べたらしい。 「陽介の写真、田所くんから送ってもらった」 「うん」 「やっぱ、端っこだった」 「いつも通り」 「いつも通り、で済ませないでよ」 湊の声が、ほんの少しだけ尖った。僕は四つの抹茶ソフトを両手で支えたまま、何も言えずに、ただ歩いた。抹茶の冷気が、紙コップの底から指の腹に染みていって、その痺れだけが、答えの代わりに僕の手の中に残った。
宿舎は嵐山から二十分の旅館だった。十六時十二分、僕らは大広間に通された。畳百二十畳、低い長机が縦に並び、お膳が一人ずつ。湯豆腐、湯葉、季節の煮物、白米、味噌汁、漬物。京都の旅館らしい、薄味の夕食だった。 「鈴木、お前、湯豆腐好きなん?」 「普通」 「俺、無理だわ。味薄すぎて」 「醤油、かければ」 「かけても薄い」 田所は醤油の小皿に湯豆腐を沈めた。鈴村は味噌汁を飲み干して、女子二人は写真の整理を続けていた。湊の班は二つ向こうの列で、湊は背中を向けて座っていた。彼女の班の女子の笑い声が、時折、こちらの列まで届いた。湊の笑い声は、その中に混ざっていなかった。少なくとも、僕の耳には、聞き分けられなかった。 僕は、湯豆腐をひと切れ、口に運んだ。出汁の温度が、舌の奥でゆっくり広がる。十歳の冬まで、稽古の後によく食べた湯豆腐の記憶が、不意に喉の奥でほどけそうになる。慌てて、味噌汁を一口飲んで、押し戻した。味噌の塩気が、ほどけかけた何かの上に、薄い膜を張った。 二十一時、入浴。二十二時、班長会議。二十二時三十分、消灯。しおり通りの予定が、機械みたいに進んでいく。布団は六人部屋、田所と鈴村と他の班の男子三人。畳の上に並んだ六枚の薄い敷布団。蛍光灯が落ちて、常夜灯の橙が天井に丸い染みを作る。 「鈴木、お前いびきかくなよ」 「かかないと思う」 「思う、じゃ困る」 「気をつける」 田所はそれだけ言って、すぐに寝息を立て始めた。鈴村も、他の三人も、十分しないうちに呼吸の深さが変わった。健康な十七歳の男子が眠る音は、案外、大きい。 僕は、眠れなかった。畳の藺草の匂いと、薄い布団の綿の匂いと、誰かの足元の方から漂う湿布の匂い。仰向けで天井の橙の丸を見つめていると、自分の呼吸の数え方が、また勝手に始まる。一、二、三――やめろ、と思う。やめろと思うほど、止まらない。隣の田所の寝息が、四拍に一度、深くなる。その間隔に、自分の呼吸を合わせようとして、合わせられなかった。 二十三時十四分、僕は布団から抜け出した。喉が渇いた、という建前を、自分に言い聞かせて。スリッパを履かずに、靴下のまま、廊下を歩いた。木の廊下は冷えていて、足の裏に節の硬さが伝わる。自販機は本館二階の踊り場にあると、しおりに書いてあった。常夜灯の橙が、廊下の柱を等間隔に切り取っていて、その光と影の縞を、僕はひとつずつ踏み越えていった。 角を曲がって、僕は足を止めた。 常夜灯の薄い灯りの中、廊下の突き当たりの窓辺に、湊が立っていた。窓ガラスに額をつけて、外の闇を見ている。浴衣の帯がやや緩く、後ろ髪が肩に落ちている。前髪の赤いヘアピンは、寝る前にもつけたままだった。 僕は声をかけられなかった。柱の陰に身を寄せて、湊の背中を見ていた。湊は、こちらに気づいていない。常夜灯の光が、彼女の頬の輪郭を薄く撫でる。窓の外には、嵐山の山影が黒く沈んでいて、そのさらに遠くに、車のテールランプが一筋、ゆっくり流れていくのが見えた。湊の指先が、窓ガラスの曇りに、ほんの少しだけ触れていた。湊は窓の闇に向かって、誰にともなく、小さく呟いた。 「……陽介」 その声は、僕の名前だったが、僕に向けて発されたものではなかった。 「あなたは、どこにいるの」
僕は、答えられなかった。 答えるべき言葉が、喉の奥でつかえて、出てこない。湊の問いは、廊下の闇と窓ガラスに吸い込まれて、消えていった。湊は、もう一度、窓に額を押し付けた。後ろ髪が、ふっと揺れる。窓ガラスの内側に、湊の吐いた息が白く滲んで、そのまま、ゆっくり消えていった。 僕は柱の陰から動かなかった。動けなかった、の方が、たぶん正しい。湊が、僕の名前を呼んでいるのに、僕は、その名前の場所にいない。柱の木目に頬を寄せると、ひやりとした樹脂の匂いがして、その冷たさだけが、僕がまだ廊下に立っているという証だった。 右手の甲が、また、熱い。布団の中で握っていたあの形が、廊下の冷気の中で、もう一度、勝手に指の関節を組んでいく。 明日が、二日目だった。しおりの予定表では、明日も普通の班別行動が続くはずだった。 はずだった。