第1話
第1話
文字数3604字、シーン構成も全て目標範囲内に収まりました。会話比率36.7%は目標下限よりやや低いですが、内省と五感描写を要求する文体ガイドと両立した結果です。本文を出力します。
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「鈴木は最後でいいよな」 黒板の上でチョークが乾いた音を立てた。班分け表の右下、空いた六班の枠に、黒い字で『鈴木』と書き足される。背中に張り付いたシャツの汗が、ゆっくり冷えていく感触だけが妙にはっきりしていた。五月の終わり、明日からの修学旅行を待つ六時限目。窓の外で校庭の桜は葉桜になり、隣のクラスから吹奏楽部の笛の音が、断片的に聞こえてくる。 「いいよ、どこでも」 僕はノートに鉛筆の先で意味のない円を描きながら、いつもの返事をした。三年間、誰にも反論されたことのない返事だった。 「悪りぃな鈴木、お前荷物少なそうだしさ」 「荷物っていうか、存在感が薄いんだろ」 「おい、それ言うなよ」 「いやマジでさ、班割り表見るたび思うんだけど、鈴木って『鈴木』って書くスペース要らなくね? 余白で十分じゃね?」 クラス委員の田所と、その隣の鈴村が、悪気のない声で笑った。むしろ気を遣ってくれている、ということになっている。荷物が少なそう、というのは、存在感が薄いことの言い換えなのだろう。僕は曖昧に笑って、頷いた。鉛筆を握る指の腹に、〇・五ミリのシャープの芯が深く食い込む感触。痛い、と思ったが、声には出さなかった。 「鈴木、しおりの予備、こっち渡しといて」 「うん」 「明日の朝、七時三十分集合だから、絶対遅れんなよ」 「うん」 「あと、夜の自由時間、お前どうする?」 「……どうする、って」 「枕投げ。うちの班、人数足りねえから、お前借りるかも」 「うん。借りていいよ」 返事は、いつだって二文字で済む。ホームルームが終わって、椅子を引く音が一斉に立ち上がる。誰かが僕の机にぶつかって、ノートが床に滑り落ちた。気づかれたのか、気づかれていないのか、振り返る背中だけが廊下に流れていく。床のノートに伸ばした自分の右手が、自分のものではないみたいに見えた。 拾い上げたノートの裏表紙に、一年生の頃に書いた自分の名前があった。鈴木陽介。漢字四文字。今となっては、ずいぶん長い名前に見える。
「陽介」 隣の席から、湊が小さく僕の名前を呼んだ。名字ではなく、下の名前で呼ぶのは、教室で湊だけだ。 「明日、楽しみだね」 「うん」 「うん、じゃないでしょ」 湊はノートの端を指でつついた。さっき僕が描いた円が、湊の指の先で歪に潰れる。 「写真、ちゃんと撮ろうね。班別行動のとき」 「……撮るよ」 「絶対だからね。陽介、いつも端っこで切れてるんだから」 「切れてないよ」 「去年の体育祭、後頭部だけ写ってた」 「あれは、撮るタイミングが悪かっただけ」 「四年連続、後頭部の人がそれ言う?」 「四年も数えてたの」 「数えるよ。私、陽介しか撮ってないから」 湊はそう言ってから、自分の言葉に、少しだけ照れたみたいに肩をすくめた。前髪についた赤い小さなヘアピンが、蛍光灯の下で僅かに揺れる。小学校三年の縁日で、僕が射的で取って渡したやつだ。十年も前のことを、湊はまだ覚えていて、まだつけている。覚えているけれど、もう、その話はしない。 「ねえ、陽介」 「ん?」 「今回は、ちゃんと、私の隣で写って」 「隣って、班違うじゃん」 「自由時間あるでしょ。その時でいい」 「……うん」 「うん、じゃ駄目。約束」 「約束って、子どもみたいだ」 「子どもの頃の約束、陽介、全部覚えてるくせに」 湊の声は、ふざけた調子のままだったけれど、最後の一音だけが、ほんの少し沈んでいた。僕は何も言えなくて、ノートの円の上に、もう一つ、小さい円を重ねた。 放課後、廊下を歩きながら、僕は明日の荷物のリストを頭の中で繰り返した。ジャージ、シャツ、靴下三日分、しおり、財布、お守り。何度確認しても、忘れるときは忘れる。三年間でわかったのは、自分はそんなに注意深い人間ではない、ということだった。 「陽介、コンビニ寄ってく?」 湊が後ろから追いかけてきた。スカートの裾が走るたびに揺れる。下校時刻の五月の校舎は、汗と日焼け止めと、放課後の埃の匂いがした。 「いい。家でばあちゃんがおにぎり握ってくれるから」 「相変わらず、おじいちゃんの家?」 「うん」 「お父さんとお母さんは、まだ単身赴任?」 「うん。今年いっぱいは戻らないって」 「ふうん」 湊は少し黙って、それから、わざとらしく明るい声を出した。 「ねえ」 「ん」 「あの道場、まだあるの?」 心臓が、一拍だけ遅れた。湊の声は何でもないように軽かったが、僕の耳には、そこだけ妙に大きく聞こえた。 「あるけど、もう誰も使ってないよ」 「そっか」 「うん」 「陽介ってさ、小学生の頃、毎朝五時に起きてたよね。私、登校中にあんたの家の前を通ると、いっつも玄関にずぶ濡れの稽古着が干してあって、あれ、何キロくらいあるんだろうって、子どもながらに不思議だった」 「……そんなの、もう、忘れたよ」 「忘れたんだ」 「忘れた」 「ほんとに?」 「ほんとに」 「私、あの頃の陽介、結構好きだったんだけどなあ」 「……何言ってんの」 「結構、じゃないかも。ま、いっか」 湊は僕の顔を覗き込まなかった。横を歩いたまま、前を向いている。それが、湊なりの気遣いだということを、僕は知っている。湊はそれ以上、訊かなかった。校門の前で僕らは別れて、僕は一人で坂を下った。風が運んでくる土と若葉の匂いの中に、ほんの少しだけ、汗と古い畳の匂いが混じった気がして、慌てて頭を振る。あの匂いは、もう、僕の中にはないはずだった。
家に帰ると、祖父が縁側で湯呑みを傾けていた。八十一になる祖父の背中は、それでもまだ岩のように見える。庭の隅、誰も使わなくなった古い砂利のスペースに、夕方の光が斜めに落ちていた。十歳までの僕が、毎朝木刀を振っていた場所だ。砂利は雑草に侵食され、輪郭がぼやけている。 「ただいま」 「おう」 「明日から、修学旅行」 「知ってる。ばあさんが、朝五時に握り飯を握るって張り切ってる」 「いいよ、コンビニで買うから」 「だめだ。あれは、もう作る気でいるから、止められん」 「梅と、おかかと、何だっけ、いつもの」 「鮭。あと、卵焼き」 「卵焼きは、おにぎりじゃない」 「ばあさんの中では、おにぎりに含まれる」 祖父は少しだけ笑った。皺の奥の目が、僕をじっと見ている。 「陽介」 「うん」 「気をつけてな」 「気をつけるって、修学旅行で、何に」 祖父は、しばらく答えなかった。湯呑みを口元に運んで、ゆっくり傾ける。喉仏が一度、上下した。 「お前は出すな、と俺は言ったが」 湯呑みを置く音が、思ったより低く響いた。 「出さなきゃならん時もある」 僕は答えなかった。代わりに、玄関の隅に立てかけたままの、黒ずんだ竹刀の柄に目をやった。十歳の冬まで、毎朝五時に握っていた柄。革の巻きが擦り切れ、僕の掌の形にうっすらと窪んでいる。指を伸ばせば届く距離なのに、その距離を、僕は三年以上、まっすぐには歩いていない。 「じいちゃん」 「ん?」 「俺、なんで、やめさせられたんだっけ」 祖父はしばらく黙っていた。湯呑みの底に残った茶を、ただ見つめている。 「やめさせたんじゃない。封じたんだ」 「同じだろ」 「違う」 祖父は湯呑みをゆっくり置いた。湯呑みの底が縁側の板に触れた音は、低くて、固かった。 「やめるなら、忘れていい。封じたなら、戻ってくる時がある」 「……戻ってこなくていいよ、別に」 「そう言うな」 「言うよ。だって、戻ってきたって、しょうがないだろ。今さら」 「今さら、と思うか」 「思うよ」 「なら、聞くな」 祖父はそう言って、湯呑みの中身を、庭の砂利に小さく払った。茶の雫が、夕方の砂利に黒い点を作って、すぐに乾いた。 僕は自分の声が、思ったより尖っているのに気づいた。十歳の冬、何が起きたかを、僕は今でもよく覚えていない。覚えているのは、祖父の手の重みと、「お前は、出すな」という低い声と、自分の右手の甲に走った熱だけだ。 「陽介」 「……うん」 「お前の名前は、鈴木陽介だ」 「うん」 「鈴木でいい、なんて、軽々しく言うな」 僕は何も言えなかった。靴を脱ぎ、自分の部屋に上がる。階段を上る足が、いつもより少しだけ軽い気がして、慌てて踏み込みを重くした。踏みしめる音が、廊下にやけに小さく沈む。
夜、布団の中でスマホを見ると、湊からメッセージが一件届いていた。 『明日、隣のバスの席空けとくね』 短い文の最後に、ヘアピンの絵文字。 『ありがとう』 とだけ返して、画面を伏せた。天井の木目を見上げながら、自分の呼吸を数える。一、二、三――おかしい。三年前にやめたはずの数え方を、勝手に身体がやっている。一拍が異様に長い。心臓と肺の動きが、勝手に同期していく。布団の下で、右手の指が、知らないうちに何かの形を握っていた。竹刀の、柄の形だ。 窓の外、街灯の白い光が薄いカーテンに滲んで、僕の右手の甲に薄い影を落とした。明日の朝、僕はあのバスに乗る。湊の隣の席に座って、しおり通りに京都を歩いて、班行動の写真を何枚か撮る。それだけの三日間のはずだった。 それだけの、はずだった。