第3話
第3話
部屋に戻った時、田所たちの寝息はさらに深くなっていた。常夜灯の橙が天井に作る丸い染みは、さっきと同じ位置にあった。同じ位置にあるくせに、僕の目に映る輪郭だけが、ほんの少しだけ歪んで見えた。 布団に潜って、目を閉じても、湊の声が、廊下の柱の隙間にまだ残っているように聞こえた。 あなたは、どこにいるの。 その問いは、確かに僕の耳に届いていた。届いていたのに、僕は柱の陰から動けなかった。動けなかった足の裏は、まだ廊下の木の冷たさを覚えていた。節の硬さが、靴下越しに細かく残っている。 布団の藺草の匂いに、自分の呼吸を預けようとした。預けようとするほど、呼吸は勝手に整っていく。一、二、三――やめろ、と思う。やめろと思うほど、肺の上下が、誰かの号令にぶら下がっていくみたいに、規則正しくなる。 スマホを枕の下から引き抜くと、〇時四十二分。常夜灯の橙の中で、画面の白い光だけが妙に鋭かった。 画面の上に、メッセージの通知が一件、伸びていた。 湊からだった。 送信時刻、〇時三十九分。三分前。 『陽介、起きてる?』 返事を打とうと指を伸ばした、その瞬間、画面が灰色に変わった。トーク履歴がもう一行、追加されていた。 『……いい、なんでもない』 既読をつけた指が、布団の中で止まった。なんでもない、の三文字が、灯りの薄い文字色で滲んでいる。 返事を打たなかった。打てなかった、の方が、たぶん正しい。 窓の外で、風が竹の葉を撫でる音がした。一拍、二拍、三拍。葉擦れの間隔が、おかしかった。風じゃない。誰かが、葉を分けて、歩いている音だった。
布団から、抜け出した。 田所のいびきが、僕の動きに少しも反応しなかった。鈴村の足元の方の湿布の匂いが、畳に低く沈んで、そこだけ空気が重くなっている。襖を、音を立てずに引いた。指の腹に、夜気で冷えた木の縁が、また食い込んだ。 湊の班は、本館三階の南側、奥から二番目の部屋。しおりの巻末の部屋割り表を、僕は今日の昼、にしんそばを待つ間に三回、確認していた。確認していた自分の指が、今になって不気味だった。 階段を上る間、自分の呼吸が浅くなっていくのが分かった。三階の廊下は、二階よりも常夜灯が遠かった。光と影の縞が、間延びして、廊下の奥が薄く沈んでいる。畳敷きの廊下に靴下を擦らせると、藺草が指先まで吸い付いてくる。途中、誰かの部屋から、深い寝息が一つ漏れた。それ以外は、何も、聞こえなかった。 「……湊」 声に出さずに、口の中だけで、その名前を呼んだ。 奥から二番目の部屋の前で、僕は立ち止まった。襖の前に、足音はない。 ノックは、しなかった。代わりに、襖の合わせ目に耳を寄せた。十秒、二十秒。中から、寝息が、聞こえてこない。健康な十七歳の女子が四人、眠っているはずの部屋から、布団の擦れる音すら、漏れてこなかった。 指先が、勝手に襖の縁に伸びた。 木の縁が、夜気で冷えていた。指の腹に、その冷たさが食い込む。三センチ、五センチ。襖を引いた。中の畳に、薄く常夜灯が差し込んだ。 六畳の和室。布団が四枚、きちんと並んで、敷かれていた。掛け布団も、整っていた。 でも、人が、いなかった。 四枚の布団のどれもが、空だった。誰かが寝ていた跡はあった。枕に頭の窪みが残っていて、掛け布団の端が、めくれた形のまま停止している。 襖を、もう少しだけ引いて、中に入った。靴下のまま、畳の縁を踏まないように。湊の布団は、入って右奥だった。湊のリュックが、枕元に置いてある。中身は、整理されていない。財布も、スマホも、ポーチも、入ったままだった。持って出た、というより、持って出る暇がなかった、という置き方だった。 手の甲を、湊の布団に当てた。 冷たかった。 体温の余韻が、まったく、ない。少なくとも三十分は前に、ここから誰もいなくなっている。湊が僕にメッセージを送った〇時三十九分は、ぎりぎり、ここから消える前か、消えた直後だ。三分前。三分前と、三十分前。三分前のメッセージは、廊下の窓の所からじゃない。もっと、別の場所からだった。 息が、止まりかけた。 止まりかけた肺の代わりに、心臓が、勝手に拍を上げた。一拍が、異様に深い。十歳の冬まで、毎朝五時に、稽古の前にやらされていた、あの呼吸の入れ方だった。
廊下に戻って、襖を閉めた。閉める指が、もう、自分の指ではないみたいに動いた。指は、たぶん、僕より先に、何かを決めていた。 階段を、駆け下りた。三階から、二階。二階の踊り場の、自販機の前。さっき湊が立っていた窓の前には、誰もいなかった。窓ガラスに、彼女が額をつけた跡だけが、薄い曇りで残っていた。曇りの輪郭は、もう、ほとんど消えかけていた。湊の指がほんの少し触れたあの一点だけが、まだ薄く滲んで残っていた。 二階の角を、もう一度曲がった。曲がった先の廊下、常夜灯の光と影の縞のいちばん暗い段の、畳の縁の上に、何かが落ちていた。 屈み込んだ。 赤い、小さなヘアピンだった。 樹脂の星形。小学校三年の縁日で、僕が射的で取って渡した、あのヘアピン。湊が今日もつけていた、寝るときも外さなかった、あれだった。 拾い上げた指の腹に、樹脂の小さな冷たさと、ほんの少しの体温の名残が、同時に伝わった。落ちて、まだ、それほど時間が経っていない。十分、たぶん、それくらい。 ヘアピンを、強く握った。樹脂の星の角が、掌に食い込んだ。痛みが、皮膚の表面ではなく、皮膚の下の骨を、直接、押した。 非常口のサイン、緑の光が、廊下の奥で点っていた。サインの矢印は、裏口の方を指していた。緑の点滅の下、引き戸が、半分だけ、開いていた。冷たい外気が、その隙間から、廊下に薄く流れ込んでいる。土の匂いと、夜露の匂いと、嵐山の竹の青い匂いが、その空気の中に混じっていた。匂いの中に、もう一つ、人間の汗の名残のような、生ぬるい何かが、薄く混じっていた。 教師に、知らせなければならない。 頭では、そう思った。三階の宿直の部屋に、引率の小林先生が一人、待機しているはずだった。階段を駆け上がって、襖を叩いて、湊たちが消えたと、ヘアピンが落ちていたと、四枚の布団が冷たかったと、伝えれば、それで僕の役目は、終わるはずだった。 でも、僕の足は、階段の方に、向かなかった。 非常口のサインの方に、勝手に動いた。 ……出すな。 頭の奥で、祖父の低い声が、鳴った。 お前は出すな、と俺は言ったが――出さなきゃならん時もある。 昨日の縁側で、湯呑みを置いたあの音が、今、廊下の常夜灯の下で、もう一度、聞こえた気がした。低くて、固い音だった。 右手の甲が、熱かった。十歳の冬に走ったあの熱が、靴下越しの足の裏よりも、はっきりと、皮膚の下で疼いていた。指の関節が、布団の中で覚えたあの形に、勝手に組まれていく。柄の革の窪み、僕の掌の形に擦り切れた巻きが、今、空気だけを握っている。 名前を呼ぶには、まだ、早かった。 ヘアピンを、ジャージの胸ポケットに入れた。樹脂の星が、心臓の真上で、薄く軋んだ。 息を、整えた。 一、二、三。 今度は、止めなかった。
非常口の引き戸を、押した。 冷たい外気が、頬を撫でた。五月の終わりの夜気は、日中の京都の汗ばむ熱を、もう完全に忘れていた。土と苔と、夜露の匂い。旅館の裏は、すぐ雑木林だった。林の向こうに、月明かりに薄く青い竹林が、波のようにうねっている。 土の上に、靴跡が、いくつか、新しく刻まれていた。大人の男の靴。三つ、四つ。湊の小さな足跡は、その間に、一度だけ、引きずられた跡として残っていた。引きずられた跡の脇に、小さな掌の跡が、土を一度だけ掴んでいた。 夜の竹の葉擦れが、五十メートル先まで、聞こえた。 聞こえてしまった、と僕は思った。 三年間、聞こえなかったはずの距離だった。 靴下のまま、土に踏み出した。足の裏に小石が刺さる感触すら、もう、邪魔ではなかった。胸ポケットの中で、赤いヘアピンの星形が、心臓の鼓動に合わせて、小さく震えていた。 走り出した僕の口が、その名前の最初の音を、形だけ作った。 声には、まだ、しなかった。 声にする、その手前で、足だけが、夜の竹林の方へ、深く踏み込んだ。