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観るだけの宰相、関ヶ原に堕つ

第2話 第2話

第2話

第2話

陣幕の隙間から差し込む西陽が、稲株の影を長く伸ばしていた。陽光は赤錆びた銅のような色合いで、麻布の繊維をひとつひとつ透かし、陣幕の内側に細い縞模様を落としている。

玄蕃は老いた家士の前に、ゆっくりと腰を下ろした。膝当ての革が乾いた音を立てる。十七の関節は、座る所作ひとつにも油を差したように滑らかであった。前世で議場の革張りの椅子に沈めていた六十路の身体とは、まるで別物の軽さである。

「使者は、どの旗ぞ」

「白地に──黒の三引両、と見えまする。されど、家士衆の中にも見覚えある者なく」

老家士の名は、玄蕃の中の十七歳の記憶が「藤兵衛」と差し出した。父の代から仕える槍奉行で、若衆のころは膝の上で兵書を読み聞かされた相手であった。その藤兵衛の頬骨が、今は土気色に窪んでいる。三日続いた退き口の疲労が、皺の一本一本に染み込んでいた。

──三引両。

その紋を頭の隅に留めながら、玄蕃は問いの矛先を変えた。

「兄上のお行方は」

「未だ。負傷の御身で東へ落ちられたとも、伊勢路へ向かわれたとも──」

聞こえてくるのは推測ばかりであった。長兄・主馬之助、嫡子としてこの戦に父と並んで陣を張った男。ところが指揮系統の途絶以来、ただひとつの目撃証言も帰ってきていない。三男坊にとって兄は遠い御方であったが、今この瞬間、家中の輪郭を保つ最後の柱でもあった。

玄蕃は袖の汚れを払うふりをして、内心ひとつ算盤を入れる。──兄不在のまま使者を引き入れれば、家中は和議派と籠城派に二分される。指揮の継承が宙に浮いた家は、外から押されると必ず割れる。総理時代の末期、議席の過半を割った内閣が三日で瓦解した記憶が、舌の奥で鈍く疼いた。あのとき官房長官の声が震えていた。今、藤兵衛の声も、よく似た震え方をしている。喉仏の上下する間隔まで、当時の側近のそれと重なって見えた。怯えは、時代を越えても同じ筋肉を使う。

「藤兵衛。使者の到着、半刻ばかり遅らせよ」

「は……されど、街道筋までは一里」

「馬の蹄に楔を打てとは申さぬ。野の井戸が汚れておると伝え、清水を別の沢より汲ませよ。それで四半刻は稼げる」

老家士が瞬きを止めた。三男坊が、どこから出してきた策かと量る目つきだった。瞳の奥で、長年見守ってきた末子の面影と、今しがた口を開いた者の声音とが、噛み合わずに揺れている。だが続く問いは、老臣の声ではなく家士の声であった。

「その四半刻で、若は何を」

「数を、数える」

玄蕃は陣幕を出た。

九月の野は、刈田の土が乾きかけて、足袋の裏に細かな砂を噛ませてくる。風が稲わらを揺らすたび、馬糞の発酵した臭いと、湿った血の鉄錆が鼻の奥を行き来した。総理時代に視察した震災跡の野営地の臭いと、似て非なるものだった。あちらは消毒薬の漂白が混じっていたが、ここには腐敗をそのまま受け入れる土の匂いがある。喉の奥に、わずかな酸味がこびりつく。

陣の北端、土を掘った竈の列に、玄蕃は再び立った。今度は数えるだけではなかった。手のひらを灰の上にかざす。残熱は、皮膚の薄いところを優しく舐めるほどしかなかった。四つの竈のうち、火が残っているのは三つに減っていた。残りひとつは、灰の中心まで指を差し入れても、もう温みが届かない。指先に付いた灰を擦り合わせると、油気のない、ぱさついた粉になって風に散った。粉の混じった指を鼻に寄せれば、焦げた糠と松脂の燃え滓の匂いが、最後の主張のようにかすかに立ちのぼる。

「──二刻前は、四つ」

呟きが口から漏れる。火を絶やしているのは怠慢ではない。煮炊きするだけの米が、もう寄せられていないのだ。

玄蕃は竈の脇に積まれた俵に近づいた。荒縄を解いて中身を覗く。底が見える。次の俵を覗く。底が見える。三つ目の俵に至って、ようやく米が肩まで詰まっていた。指を差し込むと、上のほうは新しい白米だが、下層には黒く変色した古米が混じっている。掌に乗せて鼻に近づけると、糠の甘い香に、黴の青臭さが薄く重なっていた。指の股に古米の粉が貼りつき、汗とまじって、ぬめりに変わる。総理時代、農林水産関係の報告書で「古米の上に新米を積み増す」見せかけの計上を見たことがある。家中の兵糧奉行も、退き口の混乱の中で、見栄を張ろうとしたのだろう。責める気にはなれなかった。あれは怯えの所作だ。怯えた者を打てば、次に隠されるのは数字ではなく、人そのものになる。

「五百と少々の兵に、白米は二日。古米を粥に伸ばして、五日。それ以上は、稗と粟と──」

声に出して数えながら、玄蕃の指は俵の縄目を撫でていた。麻縄の繊維がささくれて掌に刺さる。痛みは、計算の輪郭をかえって鋭くした。

竈から街道筋の窪地へと移る。馬を繋いだ杭の周りに、新旧の馬糞が散っている。新しいものは黒く湿り、古いものは灰色に乾いて藁の繊維がほぐれていた。玄蕃は屈み、藁の刻みの長さを指でつまんで確かめる。鼻先に近づけると、青草の発酵した甘い臭気と、馬の腸の匂いが層をなして立ちのぼる。膝の下の土は、まだ昼の熱を覚えていて、革の足袋越しにじんわりとした残温を返してきた。

──刻みが、長い。

藤堂勢の飼料は、刻み藁を粉糠と練り合わせる丁寧な仕立てであった。父の代に使者を交わした際の覚書に、確かそう記されていた。だが、ここに落ちている馬糞の藁刻みは粗く、ほぐれも雑である。これは藤堂のものではない。この陣に残っている味方の馬の糞だ。つまり、敵の追撃馬は本当にこの陣の近くまでは来ていない。

玄蕃は立ち上がり、袖の砂を払った。膝の関節が、若さの証のように軽く伸びる。

「見届けの偵察か、あるいは──別働を伏せておるか」

数えれば、輪郭が出る。輪郭が出れば、選べる手も決まる。前世の議場で、ついに手にすることのなかった感触であった。あの場では数字はいつも誰かの手で粉飾され、輪郭は霧の中に溶けていた。ここでは、灰の温度も、藁の刻みも、嘘をつかない。

陣中央へ戻る途中、藤兵衛が再び駆け寄ってきた。今度は息が乱れていた。膝の革当てが擦れる音が、ばらばらと続く。

「若。井戸の口上、用いる暇なく──使者の三騎、すでに陣の半町先まで」

玄蕃の眉が、わずかに動く。一里あったはずの距離を、四半刻足らずで詰めるとなれば、馬は替えを引いて駆けさせている。腹の据わった使い手だ。玄蕃は陣幕の方角を顎で示した。

「家老衆は」

「皆々、本陣の床几にお寄りにござります。書院もないゆえ、地べたに筵を敷いて」

「使者を、その筵の前に通せ。我は──」

言いさして、玄蕃は唇を噛んだ。下唇に、かすかな鉄の味が滲む。十七歳の三男坊が、家老衆の評議に割って入る格はない。前世の総理ならば閣議の中央に席を持ったが、ここでは座を許されぬ若衆である。声が届かねば、何を数えても意味がない。

「藤兵衛」

「は」

「我に、父上の脇差を持て」

老家士が顔を上げた。眼の縁に、湿ったものが盛り上がっているように見えた。大殿の佩刀を、嫡子でもない三男坊が請うのは、家中の作法に背く願いであった。だがその目には、玄蕃が今しがた竈の前で呟いていた数の重みが、すでに刻まれていたらしい。

「……承知」

藤兵衛が陣幕の奥へ駆け込むのと、北の街道筋から馬の蹄音が三つ重なって近づくのとが、ほぼ同時であった。

蹄が刈田の縁で止まる。

玄蕃は陣幕の影に立ち、稲株を踏みしめながら、手の中で父の脇差の柄糸を一度握りしめた。新しい糸の手触りは、稽古用の安物とはまるで違う、油を吸いきった重さがあった。指の腹に、糸目の凹凸がしっかりと噛みつく。

旗指物の三引両が、夕陽を受けて黒く沈む。先頭の使者は若くはなかった。具足の肩当てに見覚えのある家紋──しかしそれは、味方であったはずの隣国の紋であった。

玄蕃の喉が、十七歳の声で低く呟いた。

「──併呑の使者か」

風が一度、稲わらを大きく撫でた。乾いた葉擦れが、どこか遠い議場のざわめきに似て、しかしそれよりずっと正直な音で耳を満たす。

陣中の家老衆が、筵の上で静かに居住まいを正す気配が、背後から伝わってくる。

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