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観るだけの宰相、関ヶ原に堕つ

第1話 第1話

第1話

第1話

火薬の煤が、鼻腔の奥で焦げていた。

慶長五年九月十五日、午の刻すぎ。近衛玄蕃が瞼を持ち上げると、陣幕の麻布が炎を受けて橙に染まっていた。鉄の味が舌の根に張り付いている。喉を引きつらせて咳き込めば、肺の底から血と煙の混じった熱が吐き出された。

──ああ、戦場か。

理解は、奇妙なほど落ち着いた声で頭蓋に響いた。六十七年。総理大臣として国会を渡り歩き、年金財政の試算表と外交電文を最後まで眺めてきた男の脳は、目の前で起きていることを淡々と仕分けはじめている。

しかし、そのあとに続くべき肉体の重みがない。

掌を見た。指の節が細い。爪先まで黒く日焼けしているが、関節に皺がない。手の甲には、藍染めの粗い具足下の袖がかかっていた。具足下。玄蕃の指がそれをなぞった瞬間、首筋を冷たい汗が落ちる。

──十七の身体だ。

何故それが分かるのか、と問うより先に、答えのほうが脳の奥から噴き出した。近衛家三男、玄蕃。元服してまだ二年。家督の見込みもなく、和歌と算盤ばかりを覚えこまされた、痩せ気味の若衆。その記憶が、六十七年の総理経験のすぐ隣に、別人のように並んでいる。

「若、おわすか」

陣幕の外で誰かが呼んだ。声変わりの済んだばかりの、かすれた若衆の声である。玄蕃が応える間もなく、布が荒く跳ね上げられた。面頬の擦れた小者が膝をついて、湯気の薄い椀を差し出してくる。

「殿は──大殿は、お討たれにござりまする」

油の浮いた稗粥が、椀の縁で揺れていた。

玄蕃の喉が、勝手に「父上、と」と呟いた。声は十七の若衆のものでありながら、舌の動かし方は六十七年連れ添った老人のものだった。違和感に身震いしたが、その震えは小者には届かなかったらしい。男は俯いたまま、声を絞り出すように続ける。

「兄君のお行方も知れず、家中の方々は一里南の番所までお退きにござります。若もお召し物をお改めの上、すぐにも馬へ──」

椀を受け取る指先が震えた。湯気の薄い稗粥に、確かに油が浮いている。胡麻油でも亜麻油でもない、得体の知れぬ獣脂の匂いだ。腹は減っていた。だが、その油の浮き方を見た瞬間、玄蕃の脳裏に並んだのは「兵糧の継ぎ目が破れている」という冷たい一行であった。

陣幕の隙間から、外の野が見えた。

刈り取られたばかりの稲株の上に、足軽たちが折り重なって座り込んでいる。槍の柄を支えに膝をついた者、具足の胴を脱いで肩を冷やしている者、それから──仰向けに目を見開いたまま動かぬ者が、四、五人。鎧の上に止まる蠅の数で、息のあるなしが分かるようになっていた。

風が変わるたび、火縄の硝煙と血の臭いに、馬糞と腐りかけた稗の臭いが混じる。玄蕃の鼻先が、無意識に湿った草地の匂いを探した。総理時代に視察した野営地の、糧食と雨衣の匂いとは何もかもが違う。違うはずなのに、観察する目は同じ場所に降りていく。

──竈は、いくつだ。

玄蕃は陣幕の縁を掴んで、ゆっくりと立ち上がった。膝が軽い。腰の痺れもない。十七の身体は、座骨神経痛を宿した老人にとって、ほとんど嘘のような道具であった。

陣の北側に、土を掘って組まれた竈が並んでいる。数えた。十二。そのうち火が残っているのは、四つだけだ。残りは灰の表面が乾いて白く粉をふいている。昨夜のうちに炊事を絞ったということは、米俵が底を見せはじめている証拠だ。前世の経験で言えば、災害派遣の食糧班が「半日分しか残っておりませぬ」と報告に来る、あの顔色である。

「若、急がれませ」

小者が再び呼んだ。玄蕃は椀を地に置き、訊いた。

「兵は、何人残っておる」

「は……五百と少々、と聞き及びまする」

「米は」

「──存じませぬ」

存じない、というその一言の中に、家中の動揺の深さがあった。父・近衛右京亮は東軍に与せず西軍に身を寄せた小領主で、関ヶ原の崩れの中で討たれた。指揮系統が断絶し、兵糧の管理者すら散ったのだろう。総理時代、玄蕃はこれと似た崩壊を二度ほど閣議の電文で目にしている。一度は大震災、一度は半島の有事だった。

しかし今、彼は閣議の長椅子にはいない。関ヶ原の野の隅で、稗粥の油と兄不在の報告と父の死を、一身に呑み込まなければならぬ十七歳の三男坊なのだった。

──さて、何ができる。

玄蕃は腰の脇差を確かめた。鞘の漆が剥げ、柄糸も弛んでいる。三男坊らしい、稽古用の安物だ。だが手は震えなかった。震えているのはむしろ小者のほうで、椀を地に置いた手の指先がかすかに痙攣している。

「お主、名は」

「……与平、にございます」

「与平。馬の糞を踏んできたな」

小者は弾かれたように顔を上げた。玄蕃は淡々と、相手の足袋の汚れと、その湿り気を見ながら続けた。

「街道を駆けてきた馬糞の数で、東の藤堂勢がどう動いておるかが知れる。お主、退き道の途中で何度馬を避けた」

「……三度、にございます」

「四里の間にか」

「は」

玄蕃は瞼を伏せた。藤堂勢の追撃馬は四里に三騎。本気で討ち取りに来ている速度ではない。掃討ではなく、見届けの偵察だ。ということは──本城は、まだ落ちていない。少なくとも、今夜までは。

──この身体で、何ができる。

問いは、十七の声帯ではなく、六十七年生きた頭蓋の奥から鳴った。

執務室の窓から見ていた、震災翌朝の東京湾の灰色。少子化の試算表に赤鉛筆を入れながら、何ひとつ間に合わぬまま終わった八年。同盟の文書を改める段になって、結局は前任者の枠組みを跨ぎきれなかった夜更け。観るだけの政治家。新聞はそう書き、死ぬ間際の病室で、玄蕃自身もそう認めていた。

それが、なぜ今、ここに。

問いに答えはない。だが、問わぬわけにはいかなかった。なぜなら、前世の玄蕃が最後まで悔いていたのは「次の国を、見届けるしかなかった」という一事だったからだ。財政も人口も、兵も米も、すべてが緩慢に痩せていく国の総理として、彼は議事録の片隅で印を押す係に終わった。

ここでは違う。

竈の数が四つに減れば、二日後には兵が散る。藤堂勢の馬糞が四里に三つなら、追撃は本気ではない。父の本拠は、城代の老臣たちが受諾を渋っていれば、まだ落ちていない可能性が高い。前世では数百ページの白書を読まねば見えなかった国の輪郭が、ここではただ目の前を歩くだけで、足の下からぬるりと立ち上がってくる。

掌に再び目を落とした。指の節は細いが、紙漉きの傷も鍬の胼胝もない。三男坊として箱入りで育てられた手は、刀を振るには非力すぎる。だが、算盤を弾き、帳簿に升目を書き込むには、十分すぎるほど若かった。

「与平」

玄蕃は声を低くした。十七の喉に、六十七年分の決裁の重みを乗せた声だった。

「馬を一頭、引け。生きておる中で、いちばん草を食うておる奴を選べ」

「……は?」

「腹の減った馬は、退き道の途中で潰れる。腹が満ちておる馬は、半日は走れる。本城まで、半日でよい」

与平は目を瞬いた。十七の若衆の口から出るには、あまりに事務的な指示だった。だが、その事務的な調子こそが、家中の動揺を一瞬だけ静めたらしかった。地面に這いつくばっていた小者の背に、わずかに芯が通る。

「……承知、つかまつりました」

陣幕の外へ駆け出していく与平の背を見送って、玄蕃は地に置いた椀を取り上げた。油の浮いた稗粥を、ゆっくりと啜る。喉に粘る。粒は半ば生のまま舌に残り、獣脂の臭みが鼻奥を掻いた。だが、これが今の自分の燃料だった。

仏壇でも、議場でもない。関ヶ原の野の隅、火縄の煙と馬糞の臭いの中で、近衛玄蕃の二度目の生涯が、ようやく座標を持った。

椀を置いて立ち上がった玄蕃の脛に、再び陣幕が跳ね上げられる音が当たる。息を切らせた別の家士が、片膝で滑り込んできた。

「若。──若、ご無事にござりましたか」

老いた家士の声は、安堵で潰れていた。だが続く言葉は、安堵の倍の重みを引きずっていた。

「本城の留守居より、伝令にござりまする。城下より一里、街道筋に、見知らぬ旗指物の使者が三騎、迫っておると」

旗指物。三騎。和議か、降伏勧告か、あるいは。

玄蕃は応えず、ただ陣幕の隙間から、稲株の上の蠅の数を数え直した。

十七の身体が、ゆっくりと立ち上がる。

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