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観るだけの宰相、関ヶ原に堕つ

第3話 第3話

第3話

第3話

陣幕の入口に、三引両の旗指物がゆっくりと近づいてくる。

馬蹄が刈田の縁で止まると、先頭の武士が下馬した。革の鞘が膝に当たり、乾いた音を立てる。玄蕃は陣幕の柱の陰で、父の脇差の柄糸を握り直した。糸目の凹凸が、十七の掌にしっかりと食い込む。汗と油が混じって、糸の繊維がわずかにぬめった。

使者は三人であった。先頭は四十がらみの白髪交じり、二人目は若い槍持ち、三人目は文箱を背負った小者。武威を見せつけるでもなく、卑屈に膝を曲げるでもない、整いすぎた一行である。──整いすぎた使者は、口上が先に決まっておる。前世の閣議の窓際で、玄蕃は何度も同じ歩幅の足音を聞いた。訪問前に台本まで仕上げて寄越す外国使節の運びと、寸分違わぬ整いだった。

「お取次、願いまする」

白髪の使者が、地に膝を一つ置いた。声は枯れているが、息継ぎの間に淀みがない。

「拙者、丹後守護代──森本筑後守が家士、岩村左近と申す者。御使者として、近衛家の大殿御嫡子さまへ、書状を持参つかまつった」

家老衆の中から、低いざわめきが起こる。森本筑後守──父・近衛右京亮が西軍に身を寄せた折、共に石田治部少輔の陣に名を連ねた、隣国の盟友であった。盟友の家士が、関ヶ原の崩れの直後に、書状を抱えて訪ねてくる。盟の継続を確かめる使者であれば、これほど迅速には来ぬ。盟を切る使者であれば、もう少し慎ましい。──ならば、何の使者か。

玄蕃の唇の内側で、舌が答えを先に拾った。

筵の上座に座した家老筆頭・久野和泉守が、手のひらを広げて使者を促した。

「お書状、確かに承る」

岩村左近が、文箱の小者を呼び寄せ、漆塗りの蓋を開けた。中から取り出された書状は、二つに折られた厚い和紙であった。表書きの墨は、書き手が筆を急がせなかったことを示している。──予めしたためられた文だ。返答を考える間を、こちらに与える気がない。

久野が書状を披いた。

筵の周囲に居並ぶ家老六人の肩が、紙の擦れる音に合わせて、わずかに前に傾いだ。玄蕃は陣幕の柱の陰に立ったまま、その肩の傾き方を一人ずつ数えた。前のめりが四人、引き気味が二人。引き気味の二人は、家中で算盤を弾く役回りの者たちである。前のめりの四人は、いずれも父の代から軍配を握ってきた老臣であった。

久野が読み上げた。

「──森本筑後守、近衛家の御苦境を憂い、両家の盟を以て当方の庇護に迎えたく候。ついては、近衛領のうち、北の三郡を森本家の管領とし、御嫡子さまならびに御舎弟さま方を、客分として丹後の城下にお迎え申したく──」

「客分」と読み上げた声に、家老衆のざわめきが重なった。

人質、という二字を避けて、客分と書く。領地半分の割譲を、管領と書く。庇護と書いて、その実、軍勢の駐留を意味する。前世の外交文書で、玄蕃は何度も同じ語法を見ていた。語の磨き上げ方が滑らかであればあるほど、要求の中身は鋭い。

「……御本領の安堵が叶うならば、是非もなく」

筵の右端で、誰かが低く呟いた。父の代から槍奉行を務めてきた牟田作左衛門の声であった。続いて二人、三人と、肯きの声が重なっていく。

「兄君のお行方も知れず、本城の備えも乏しき今、森本殿の御手に身を寄せるは、家を保つ唯一の道」

「客分とあれば、無下な扱いはござるまい」

「庇護を断れば、明日にも兵を寄せられかねぬ」

老臣たちの言葉は、いずれも筋が通って聞こえた。だが玄蕃の耳には、その筋の通り方が、あらかじめ敷かれた轍に沿って滑っているように響いた。怯えた者は、目の前の救済に飛びつく。飛びついたあとで、それが井戸の縁ではなく井戸そのものであったと気づく。前世の議場で、何度もその光景を見た。

久野和泉守が、書状を畳む手を止めた。

「使者殿。ご返答、いつまでと」

「明朝、卯の刻まで」

筵の周囲が、しんと静まり返った。

明朝の卯の刻──夜が明けきらぬうちに返事を求めるは、評議の余地を与えぬという意である。玄蕃の指が、父の脇差の柄糸をひと撫でした。

藤兵衛が、玄蕃の傍らに膝を寄せた。老家士の頬の皺が、夕陽を受けて深く沈んでいる。

「若。御家老衆の評議に、若が割って入る格は──」

「分かっておる」

玄蕃は声を低く落とした。だが歩みは、すでに陣幕の影から筵の縁へと進み出ている。膝当ての革が乾いた音を立て、稲株の砕ける音と重なった。家老衆の視線が、いっせいに振り向いた。

振り向いた視線のうち、半分は驚きで、半分は怒りであった。三男坊──家督から最も遠い末子が、評議の筵に踏み込んだのである。風が陣幕をひと吹きし、刈田の匂いが鼻先を掠めた。藁屑と血錆、それに夜露のはじまりが入り混じった匂い。玄蕃の喉が、奥で一度だけ鳴った。

「お控えくだされ、若君」

久野和泉守の声が硬い。三男坊が評議の場へ口を挟むのは、家中の秩序を乱す所作であった。だが玄蕃は、その声を聞きながら、自分でも驚くほど落ち着いた指先で、父の脇差を膝の前に置いた。鞘が筵の藁を押し、ぱさりと枯れた音を立てた。

指先が、ほんのわずかに震えた。前世の議場ならば、この一歩を踏み出すのに何の覚悟も要らなかった。だが今、十七の身体に乗っているのは、近衛家四百年の家名と、戦死した父の遺された眼差しである。震えを悟られぬよう、玄蕃は息を一拍だけ深く吸い直した。鼻腔の奥に、夕餉の煮炊きの煙の匂いが微かに混じっている。本城の方角だ。家人らはまだ、当主の死を知らされていない。──知らされぬまま、家ごと売られかねぬ刻に、自分は今立っている。

「乱を働く所存はござりませぬ。されど、一言──申し上げねば、父上の位牌に申し開きが立たぬ儀がござる」

父の名を出した瞬間、家老衆の肩の角度が、揃って一寸下がった。

父の喪は、まだ家中の誰の胸にも生々しい。位牌、という二字だけで、家老衆の肩の力みが一段ほどけるのが、玄蕃の側からは見て取れた。久野和泉守が、わずかに口を開いて、また閉じる。許すとも、退けるとも、まだ判じかねている顔つきであった。沈黙のあいだに、刈田の遠くで鴉がひと声啼いた。

「使者殿。北の三郡の境を、何処までと心得られておるか」

岩村左近の白髪混じりの眉が、わずかに動いた。

「……御領の北、田原川の南岸まで、と書状にござる」

「田原川の南岸より、本城まで、何里か」

「およそ、四里」

「四里」

玄蕃は繰り返した。声の抑揚を、努めて平らに保った。十七の喉に、六十七年分の数の重さを乗せる。数とは、感情を黙らせる呪である。怯えで揺れた評議も、数をひとつ突き付けられれば、束の間だけ正気に戻る。前世の予算審議で、玄蕃が幾度も用いた手だった。

「四里の隔ての地を客分の家に渡し、その客分の城下に嫡子と舎弟を置くは、つまり本城の咽喉に刃を当てたまま、家を保つということにござる。庇護とは、申すまい」

筵の周囲が、息を呑んだ。

「使者殿のお書状、語の磨き上げが滑らかにござる。客分、管領、庇護──いずれも、刃ではござらぬ。されど、北の三郡を渡せば、来春の田植えの徴税は森本家のもの。徴税の差配を握られた領は、半年で兵を養えませぬ。兵を養えぬ領に、客分の嫡子は帰っては来られませぬ。──これは、和議にあらず。併呑の、前段にござりまする」

久野和泉守の喉が、ごくりと鳴った。

岩村左近の指が、文箱の縁を一度撫でた。動揺ではない。──予期していた言葉に、ただ符合を確かめる手つきであった。あるいは、これは試問なのかもしれぬ。盟主たる森本筑後守は、近衛家中に「併呑」の二字を見抜く者が残っているか否かを、まず量りに来た。見抜く者がおらねば、明朝そのまま呑む。見抜く者がおれば、手駒を別に切り替える。玄蕃の背筋を、薄い汗が滑り落ちる。この使者は、若衆の口から「併呑」という二字が出ることを、すでに織り込んでいる。

「若君のお見立て、興深く拝聴いたした」

岩村は静かに膝を立てた。

「されど、明朝卯の刻のご返答──変わりはござりませぬ。御家老衆と、よくよくお計らい候え」

使者の三騎が陣を離れていく蹄音を、玄蕃は陣幕の縁で聞いた。日はすでに山の端へ沈み、稲株の影が一面の紫に溶けはじめている。

筵の上で、家老衆の囁きが再び動きはじめた。今度の囁きは、先刻までの怯えの声ではなかった。割譲か、籠城か。家中を二つに割る言葉が、低く、しかし確かに、夜気の中に立ち上がっていく。

玄蕃は父の脇差を腰に戻し、明朝までに数えねばならぬものの数を、瞼の裏で並べはじめた。竈の火、米俵の底、矢玉の束、そして──敵の兵糧が尽きるまでの、日数。

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