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契約妻と十年越しの万年筆

第2話 第2話

第2話

第2話

万年筆が、式次第のサンプルの上で、転がらずに静止している。

漆黒の軸の側面が、わたしの席のほうへほんのわずかに傾いでいた。十年前と同じ角度。学食の隅のテーブルでわたしが何度も見てきた、あの傾き方のままだった。

「……おっしゃっていることが、よくわかりません」

職業上の規律で、わたしはそう答えた。お客様の言葉が理解の範囲を超えたとき、まず確認するのを習慣にしている。けれども声の語尾が、自分の耳でわかるほど浅く息切れていた。

玲司の斜め後ろに控えていた秘書の男性が、ここで初めて動いた。革の鞄から薄いフォルダを取り出し、両手で差し出してくる。表紙には何の印刷もない、ただのクリーム色の紙。けれどもその縁にだけ、藤堂家の紋を象った小さなエンボスが、押されていた。

「失礼いたします」

秘書はわたしの前に、フォルダを静かに置いた。それから、もう一枚——折り目のついた薄紙を、フォルダの脇に並べる。

役所の窓口で見慣れた、淡い水色の罫線。

婚姻届。

新郎欄にはすでに、楷書で、藤堂玲司、と万年筆で記入されていた。インクの濃さに、ほんのわずかなムラがあった。書き慣れていない人の書き方、ではない。書き慣れた人が、何度か呼吸を整えてから書いた書き方だった。

「……これは」

「妻欄は、空白のままにしてあります」

玲司の声は、業務連絡の温度に下げられていた。それなのに、彼の指先だけが、フォルダの角を、必要以上にきっちりと整えていた。爪のかたちは、十年前のままだった。

「期間は、三ヶ月です」

「……三ヶ月」

「婚姻届の提出は、了承いただけた当日。生活の場は共有名義にはしません。所有はすべて私の名で、賃料光熱費、生活費は私の口座から引き落とします。お仕事は、続けていただいて構いません。むしろ、続けていただきたい」

膝の上に置いていたクリップボードを、わたしはいつのまにか両手で押さえつけていた。指先が冷たい。それなのに、首の後ろだけが、湿って熱を持っていた。

「寝室は、別にします」

——別。

その二文字が、頭の中で、つるりと滑った。意味を捉え損ねた。

「期日が来ましたら、こちら側の手続きで離婚届を提出します。柏木さんのご経歴に瑕がつかないよう、戸籍の移動は最小限の自治体で完結させます。慰謝料という名目では失礼に当たるので、別の形で——」

「お待ちください」

わたしの声が、業務上の温度を、完全に外していた。

玲司の言葉が、止まる。

「……お待ち、ください」

クリップボードの裏で、三色ボールペンを握り直す指先が、震えていた。さきほど絨毯に落としたものを、いつのまにか拾って、無意識に握り続けていたらしい。掌が、ペンの軸に貼り付いていた。

「……いまの——三ヶ月のお話は、業務上のご相談なのか、それとも」

「業務ではありません」

即答だった。

「俺、個人の、依頼です」

わたしの左手の親指が、自分の薬指の付け根を、強く押さえていた。指輪のない場所。十年間、ずっと、何ひとつはまっていなかった場所。そこを押さえる癖が、まだ抜けていない自分のことを、こんなときに、知ってしまう。

「……なぜ、わたしに」

聞いてはいけない、と、職業上の本能が告げていた。お客様のご事情には踏み込まない。それが、わたしがこの仕事で身につけた最も基本的な規律だ。けれども目の前にいるのは、お客様の顔をした、十年前のあの人だった。

玲司は、すぐには答えなかった。

胸ポケットから、もう一つ、別のものを取り出す仕草があった。万年筆ではない。三つ折りの紙。一度も折り目を直していない、まだ角の立った封書だった。

「契約書の案です」

紙を広げる音が、空調の風よりも乾いた音を立てた。A4サイズ、両面印刷、条項は十二条まで。表題には、『婚姻関係に関する三ヶ月間の合意書』と印字されていた。

第一条、目的。——藤堂家における承継上の事情を満たすため、三ヶ月間に限り、法律上の夫婦関係を結ぶものとする。

第三条、住居。——甲は乙の住居を準備し、乙の私的領域を侵害しないものとする。寝室は別とする。

第七条、業務。——乙は現職を継続するものとし、甲はこれに干渉しないものとする。

第九条、対外的振る舞い。——公的な場における夫婦としての所作については、甲の指示するところに従う。

第十一条、解消。——期日経過後、甲の申請により、両者協議のうえ離婚届を提出する。

文章は、玲司が書いたものではない、と、わたしにはすぐにわかった。法務担当か、顧問弁護士か、どこかの誰かが整えた、感情の漂白された日本語。けれども第二条の脇の、わずかな余白にだけ、ボールペンで小さく書き足された手書きのメモがあった。

「乙の負担を最小限とすること——玲司」

走り書きの『玲司』の字を、わたしは知っていた。十年前、貸し合った教科書の余白に、何度も書かれていた、あの字だった。「司」の縦棒の最後が、ほんのわずかに右下へ逃げる癖が、まだそのまま残っていた。

——爪が、掌に食い込んだ。

「藤堂家、の」

声が出にくかった。

「……ご事情、というのは」

「お話しできることと、できないことがあります」

玲司はそう答えた。表情は変わらない。それでも、彼の視線は、ここで初めて、わたしの顔から、机の上の万年筆へ、ゆっくりと逸らされた。

——逸らされた。

十年前、雨上がりのベンチで「もう会わない」とわたしが告げたとき、彼の視線は逸れなかった。引き留めもせず、何も問わず、それでも目だけは、わたしから一度も外さなかった。あのときの目を、わたしはずっと、十年間、自分の中の最後の鍵箱に閉じ込めていた。鍵箱の中にあったのは、彼が、視線を外さなかった、という、それだけの事実だった。

その彼が、いま、視線を逸らした。

「……他の誰かでは、意味がないので」

さきほどの一言が、もう一度、彼の口から落ちた。低く、抑揚はなく、けれども最後の語尾だけが、空調の音に紛れて消えそうなほど、薄かった。

「……それは」

その先を、わたしは続けることができなかった。

「お時間を、ください」

職業上の言い方に、咄嗟に逃げた。お客様のご要望が即答できる範囲を超えたとき、お時間をください、と申し上げる。それは、わたしが新人の頃から教え込まれた、最も丁寧な保留の仕方だ。

「もちろん」

玲司は、すぐに頷いた。机の上の婚姻届と契約書を、自分のほうへ引き寄せはしなかった。それを置いたまま、彼は静かに立ち上がる。

「お返事は、いつでも構いません」

「……はい」

「これは——」

彼は、机の上の万年筆を、わたしのほうへ、ほんの少しだけ押した。指先がペンの軸を撫でた一瞬、爪の擦り傷の数だけ、十年分の手の温度の跡が、軸の表面に滲んでいるのが見えた。

「サインを、いただくときに、よろしければ」

秘書が小さく一礼し、玲司の後ろを追って、扉のほうへ歩いていく。

部屋を出る直前、玲司は一度だけ、振り返った。

「柏木さん」

下の名前では、なかった。それでも、呼ぶ前に短く息を吸う、あの一拍の間が、確かに、あった。

「十年、お元気でしたか」

それは、最初の挨拶で交わされるべきだった言葉だった。打ち合わせ室の入口で、いつものように業務上の規律で交わされていれば、わたしはきっと、「おかげさまで」と微笑んで返せたはずだった。

けれどもそれは、いま、扉の前で、二人きりの最後の問いとして残された。

——わたしは、答えなかった。

扉が閉まる。革靴の音が、絨毯を踏みしめながら、廊下のほうへ遠ざかっていった。エレベーターの到着音が薄く聞こえて、消えた。

机の上には、漆黒の万年筆と、空白の妻欄がある婚姻届と、十二条の契約書だけが、残されている。誰も座らなかった新婦の椅子に、フリージアの花器の影が、午前十一時の斜めの陽射しで、長く落ちていた。

わたしは、椅子の背もたれに、ようやく身体を預けた。背骨と布地のあいだに溜まっていた湿った熱が、そのまま冷えて、薄い霜のように張り付いていく。

——形式だけ、と、彼は言った。

——他の誰かでは、意味がない、とも。

二つの言葉は、本来であれば矛盾している。形式だけならば、相手は誰でもいいはずだ。誰でもいいなら、十年前に身を引いた女のところまで、わざわざ訪ねてくる必要は、なかった。

わたしは、机の上の万年筆を、まだ取らなかった。

代わりに、左手の薬指の付け根を、もう一度だけ、強く押さえる。

クリップボードに挟まれたままの式次第のサンプルが、白いページを微かに揺らしていた。VIP挙式予定、十一月二十八日。担当、柏木すみれ。新郎、藤堂——その先の名前は、まだ、書かれていない。

新婦欄が空白のままだった意味を、わたしはようやく、半分だけ、理解した。

理解した、けれども、わたしはまだ、答えを持っていない。

万年筆のキャップは、閉じられたままだ。

廊下の奥から、エレベーターのチャイムが、もう一度、静かに、鳴った。

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