第1話
第1話
万年筆のキャップを閉じる音が、いつもより少しだけ大きく響いた気がした。
ホテル「青葉宮」の三階、カトレアの間。VIP挙式専用に設えられたこのフロアの空調は、四季を通じて二十二度に保たれている。絨毯はくるぶしまで沈むほど厚く、人の足音も声も、ここでは半分くらいの音量に丸められて消えていく。それなのに、わたしの掌だけが、いつまでも熱を持っていた。
「柏木さん、お時間です」
ドアを薄く開けて告げたのは、後輩のアシスタントの瀬名だった。わたしは手元のクリップボードに視線を落として、もう何十回目かわからない確認をする。挙式予定日、十一月二十八日。担当プランナー、柏木すみれ。新郎側のお名前——藤堂。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
藤堂、というのはとくべつ珍しい名字ではない。それでも、わたしがこの十年、経済誌の表紙やテレビの夕方ニュースで、もう数えきれないほど目にしてきた一文字と同じ画数のその名を、担当の挙式台帳に書き入れたとき、ほんの一瞬だけペン先が止まった。書き直すほどではない、けれど忘れてしまえるほど軽くもない、奇妙な間。
支配人から渡された顧客カードには、新郎の側のお名前しか印字されていなかった。新婦欄は空白。「先方のご事情で、当日までお伏せいただきたい」とだけ、注意書きが添えられていた。VIP案件ではときどき起きることだ、とわたしは自分に言い聞かせていた。資産家のご令嬢のお披露目を最後の最後まで控えるご家庭もあれば、再婚で慎重にという方もいる。理由を詮索しないのも、職業上の規律のひとつだった。
「お通しして」
声が少しだけ低く出た。瀬名は不思議そうに眉を上げたが、何も言わずに頭を下げて引き返していく。
ドアの向こうで、革靴の音がした。二人分。先に部屋に入ってきたのは年配の男性秘書らしい人で、その後ろに、長身の影が続いた。
スーツの仕立ては、見た瞬間にわかる。良いもの、というよりは、身体に馴染みすぎて主張をやめてしまったもの。ネクタイは深いインク色。胸ポケットからは、万年筆の頭がわずかに覗いている。漆黒の軸に、薄い金のリング。
——あの子が高校の卒業祝いに、お父様から贈られたのと、同じだった。
顔を上げる。
息ができなかった、という表現は、たぶん少し誤りで、正しくは、吐き方を忘れた。
「お世話になります。藤堂と申します」
低い声だった。十年前より、ほんの少しだけ落ち着きを増した、けれど抑揚の癖はまったく変わっていない声だった。
藤堂玲司。
二十八歳のわたしが今まで担当してきたどんな新郎よりも、おそらく背が高かった。けれどもわたしが息の吐き方を忘れたのは、その背丈のせいではない。
「——担当いたします、柏木でございます」
声が裏返らなかったのは、訓練のおかげだった。ウェディングプランナー七年目。お客様のどんなご事情にも、お顔を見ても、表情筋を半分だけ動かして微笑む。それだけが、わたしがこの仕事で自分に課してきた、唯一の規律だ。
玲司は一瞬、ほんのわずかに、目を細めた。気づかれた、と思った。けれども彼はそれ以上の表情を作らず、勧められた新郎の席に静かに腰を下ろした。
そして、隣の——新婦の椅子は、空いていた。
秘書は代わりに、玲司の斜め後ろに控える形で立った。誰も座らない椅子の前に、わたしが朝のうちに揃えておいた式次第のサンプルとペーパーアイテムの見本だけが、白い表紙を上に向けて、行き場をなくしたように残っていた。
テーブルの中央には、わたしが朝のうちに活け直した小さな花器が置かれていた。淡い黄色のフリージアが一輪、ほんの少しだけ茎をかしげている。挙式相談には香りのきつくない花を、というのはわたしの新人時代からの習慣だった。けれど今朝、棚からこの一輪を選んだのは——昔、玲司が「春の終わりみたいな匂いがする」と言ったのが、この花だったからだ。そんな小さな下心を、わたしは自分にも気づかせないふりをして、ピンセットで茎の長さを揃えた。
エアコンの送風が、襟元をわずかに撫でていく。室温は二十二度、湿度は四十五。表示パネルの数字は、いつもと変わらない。それなのに、シャツの背中が、布地と皮膚のあいだで一枚多く重なっているように、薄く湿っていた。
「あの——」
業務上の問いのはずだった。お連れ様のご到着が遅れていらっしゃるのか、お先にお召し上がり物などお持ちしましょうか、と。
「来ません」
わたしの言葉を遮って、玲司が言った。視線はテーブルの上の式次第のサンプルに落ちている。胸ポケットから万年筆を抜いた手が、表紙を一度だけ、確かめるように撫でた。
「来ません、というか——いません」
「……いない、と、申しますと」
「新婦は、まだ決まっていない」
頭の中で、わたしが用意してあったいくつもの想定問答が、ガラスの破片のように崩れて散らばった。
七年間この職場で身につけてきたあらゆる定型句が、一斉に意味を失っていく。新郎新婦のお名前を改めてご確認させていただきます、当日のお席次は、お色直しのタイミングは、誓いの言葉のご相談は——どれもこれも、相手が二人そろっていることを前提にした言葉だった。
新婦が、いない。
その四文字だけが、頭蓋骨の内側で、低い反響音を引きずって、何度も同じ場所に戻ってきた。
打ち合わせ室の壁にかけられた油彩——薔薇園を描いた、ホテル創業百周年の記念に贈られたもの——の額縁が、視界の端でぐらりと揺れた気がした。実際には何も揺れていない。揺れているのは、わたしの方だ。
「……それでは、本日のお打ち合わせは——」
「柏木さん」
名前を呼ばれた。
苗字だった。十年前は、下の名前で呼ばれていた。それでも、声の出し方の癖は、何ひとつ変わっていなかった。鼻にかかる前の、ほんの一拍の間。あの人は昔から、人の名前を呼ぶ前に、必ず一度、短く息を吸う癖がある。
「あなたに、お願いしたいことがあって、ここに来ました」
胸ポケットから抜いた万年筆を、彼はそれを式次第のサンプルの上にことりと置いた。十年前と同じ、漆黒の軸。けれども金のリングには、わずかな擦り傷が増えていた。何度も使い込まれた手の温度の跡が、そこに溜まっていた。
「式の、相談ではありません」
爪が掌に食い込むのがわかった。膝の上に置いたクリップボードを支える左手で、わたしは無意識のうちに、自分の薬指の付け根を強く押さえていた。指輪はない。十年間、ずっと、ない。
「……ご用件を、お伺いいたします」
職業上の言い方。けれども声は、わたしのものではないみたいに、語尾が少しだけ震えた。
玲司は、ようやくわたしの目を見た。
十年。
十年前、雨上がりの大学構内のベンチで、わたしが「もう会わない」と告げたとき、彼が見せたのと同じ、何も色を持たない目だった。あのとき、彼は引き留めもしなかった。何も問わなかった。ただ、そうか、とだけ低く言って、開いていた紺色の傘を、片手で静かに畳んだ。骨が一本ずつ、順番に閉じていく音。
——あの傘の畳み方を、わたしはまだ覚えている。
「俺と」
低い声が、空気を一度、押した。
「結婚してほしいんです、柏木さん」
部屋の温度設定は、確かに二十二度のはずだった。
それなのに、わたしの吐いた息が、目の前で、ほんの一瞬、白く煙ったような気がした。窓の外、午前十一時の青葉宮の中庭では、来週末の他の挙式の準備のために、スタッフが白いチェアを並べ始めている。二脚ずつ、誰のためでもなく、まだ名前のない誰かのために、整列していく。
万年筆を、彼の指がもう一度、撫でた。
「形式だけで、いい」
そう言ったあと、玲司は少しだけ視線を逸らした。窓の外でも、わたしの顔でもない、誰のものでもない宙の一点へ。
「他の誰かでは、意味がないので」
その一言の意味を頭が解こうとした瞬間、十年前の、雨上がりのベンチの記憶が、なぜかいま、ここにそっくりそのまま戻ってきた。畳まれた紺色の傘の柄を、彼が手の甲で軽く叩いた小さな仕草、そのときの濡れた土の匂い、わたしの靴に跳ねた泥のかたち——どれも、忘れたつもりでいた。忘れたまま、十年、毎日を埋めてきたつもりだった。
「……柏木さん?」
返事ができなかった。職業上の規律も、用意してあった敬語も、いまこの瞬間だけは、わたしの内側のどこにも見つからなかった。
手元のクリップボードから、わたしの三色ボールペンが、ぽとりと滑り落ちた。絨毯の上に落ちる音は、この部屋では聞こえないほど小さかったはずだ。それでもわたしには、それが床を二つに割る音のように、確かに、響いた。
新婦の椅子は、まだ、空いたままだった。