第3話
第3話
帰宅して、玄関の電気も点けないまま、わたしは三和土に立ったままでいた。
ヒールを脱ぎ忘れていることに気づいたのは、廊下の床板の冷たさを、ストッキング越しに踵が拾ってからだった。鞄の中で、契約書のフォルダの角が、内側のボアに食い込んでいる。職場の事務所には、三色ボールペンを忘れてきた気がする。気がする、というのは、確かめる気力が、もう、わたしのどこにも残っていなかったからだ。
ダウンライトのスイッチに指を伸ばしかけて、止めた。
明るくしてしまったら、最後の最後まで、目を逸らせなくなる。鞄の口の奥で、漆黒の軸の頭が、わずかに覗いている。サインを、いただくときに、よろしければ——彼はそう言って、十年分の手の温度の跡が滲んだあの万年筆を、わたしのほうへ押した。
——他の誰かでは、意味がないので。
冷蔵庫の唸る音が、急に大きく聞こえた。低い、内臓のような、絶え間ない振動。耳が、それを拾ってしまったあとは、もう、止まったまま動かない部屋の静けさのほうが、かえって、耳の奥で痛かった。換気扇のフィルターの埃が、廊下の薄闇のなかで、わずかに揺れている。それすら、自分のため息で動いたのか、ただの気のせいなのかが、もう、わたしには判じられなかった。
ソファに腰を落とすと、シーツも替えていないベッドの横、化粧台の上に、押し花の栞が、相変わらず無造作に置きっぱなしだった。十年前、大学の構内で拾った銀杏の葉。あの日、雨上がりのベンチでわたしが「もう会わない」と告げたあと、ひとりで歩いて帰る道で、靴の先に当たって、なぜか拾い上げてしまったもの。
押し花を作ろうとしたわけではなかった。重い専門書のあいだに挟んだまま忘れて、忘れたまま、十年が経っていた。
——十年。
呟きは、声にならなかった。代わりに、喉の奥で、低い摩擦音だけが鳴った。
時計の長針が、十二時を踏み越えていく。秒針の刻む音が、突然、耳のなかで粒立って聞こえた。一秒、また一秒、わたしの背骨を、そっと小突いてくる。電気を点けないまま、わたしは契約書を、膝の上で、ゆっくりと開いた。窓の外の街灯の明かりが、第二条の余白に書き足された走り書きを、薄青く照らしている。乙の負担を最小限とすること——玲司。「司」の縦棒の最後が、ほんのわずかに右下へ逃げる、あの癖。
紙の繊維の上を、指の腹がなぞる。ボールペンではない、万年筆の、わずかにくぼんだ筆圧の溝。インクの、青の濃淡が、文字の終わりで掠れている。あの人は、いまも、書き終わりに息を詰める癖を、変えていない。机の引き出しの奥に、銀色のクリップで束ねた古いノートがあるのを、わたしは思い出してしまった。
引き出しを開ける。
ノートは、思い出せる場所に、思い出せるままの位置で、眠っていた。表紙の隅、かつて貸し合った教科書の余白から写し取ったように、わたしの字と彼の字が、二色のインクで交互に並んでいた。試験範囲のメモ、笑い話の落書き、放課後に行く店の地図。最後のページの隅にだけ、彼の字で、ひとつだけ、走り書きが残っていた。
「来週、誕生日のこと、話します」
話されないまま、わたしは身を引いた。
——なぜ、わたしから身を引いたのか。
問いは、十年前のかたちのまま、いまここに、まだ残っていた。藤堂家の若い跡取りに、地方の郵便局員の娘がふさわしくないと、彼の祖父にあたる人から「お話」をされたあの夕方。傘の骨を一本ずつ畳む音、濡れた土の匂い、わたしの靴に跳ねた泥のかたち。あれを、彼に背負わせたくなかった。あれを、彼の名前を口実に、こちらから先に切ったのが、わたしの——。
わたしの、十年だった。
職場での七年間。VIP挙式の担当を任されるまでに上がった役職。先輩たちから受け継いだ規律。同期の結婚式に、職業上の表情筋で笑顔を作って参列したこと。ベランダに置きっぱなしの、枯らしてしまった鉢植え。冷蔵庫の中の、賞味期限を一日だけ過ぎた牛乳。新しい誰かと出会いかけて、そのたびに「いまは仕事が」と微笑んで距離を取った夜の数。
休日に、ひとりで歩いた川沿いの遊歩道。桜の盛りに、わざと脇目もふらずに、伏目で抜けていった春の数。秋の風が銀杏の匂いを連れてくる季節になると、無意識に、駅の反対側の改札を選んでいた朝の数。それらは確かに、わたしの十年として、積まれていた。けれども、と、契約書のページを撫でる指先が、止まる。それらの十年は、どれも、薬指の付け根を押さえる癖の上に、薄く積もったものでしかなかった。中心の癖は、十年前の雨上がりのベンチから、ひとつも、動いていなかった。
——わたしの十年は、止まったままだった。
膝の上で、契約書の紙の角が、湿っていく。涙が落ちている、と気づいたのは、第十一条の「両者協議のうえ」という文字の上に、薄い染みが広がってからだった。手の甲で頬を拭う。職業上の規律で、お客様の前では絶対に泣かない、と決めてきた。けれどもいま、お客様は、ここにはいない。
声を上げる勇気もないまま、わたしは、ただ、肩だけを小さく震わせた。喉の奥が、熱いお茶を一気に飲んだあとのように、ひりついていた。涙は、頬を伝う前に、襟元のシャツに、点を打つように落ちた。十年分、ずっと、こぼしてはいけないと思って、奥のほうへ押し戻し続けてきたものが、紙の上の青いインクの上で、ようやく、染みになることを許された。
朝の光が、カーテンの隙間に薄い線を引き始めた頃、わたしは、ようやく立ち上がった。
化粧水の瓶を取る指は、震えていた。それでも、いつもと同じ順番で、いつもと同じ強さで、肌の上に重ねていく。乳液、下地、ファンデーション。瞼の縁を整える指先だけが、今朝はやけに冷たかった。スーツのジャケットは、皺の寄っていない方を選んだ。鏡の前で、口紅を一度引き直す。その間ずっと、ジャケットの内ポケットには、漆黒の軸が、静かに、収まっていた。
ホテル「青葉宮」のロビーは、午前九時には、もうフロントの花が活け替えられている。わたしはそこには寄らずに、三階の打ち合わせ室の前で、一度だけ、深く息を吸った。
予約は、わたしの方から、けさ、入れていた。
ドアを開けると、玲司は、すでに来ていた。きのうと同じ席。胸ポケットには、けさは万年筆がない。代わりにテーブルの上に、彼の万年筆——わたしが返しに来たのと、同じ一本——が、置かれていた。
「お願いします」
挨拶を、わたしは省いた。職業上の規律を、けさのわたしは、ここで一度だけ、外した。
ジャケットの内ポケットから、契約書を取り出す。婚姻届を、その上に重ねる。万年筆のキャップを、外す。
第十二条の同意欄、乙、と印字された下に、ペン先を当てる。
指が、震えた。
「柏木さん」
低い声がした。
「無理は」
「無理ではありません」
声が、わたしのものとして、自分の喉から出た。
「……ただ、十年、止めてしまったので」
ペン先が、紙の上で、止まる。
「動かすのに、少しだけ、時間がかかります」
柏木すみれ、と書く。「す」の三画目が、いつもより、ほんのわずかに、長く伸びた。
万年筆を、机の上に戻す。インクが、指の腹に薄く滲んでいた。
玲司は、すぐには紙を引き寄せなかった。代わりに、内ポケットから、小さな鍵を取り出した。シルバーの、何の装飾もない、ただの鍵。
「同居の、お部屋の鍵です」
差し出された手の甲を、わたしは見た。指の節のかたち、爪のかたち、薬指の付け根の、骨の浮き方。
受け取るために、伸ばした指先が、彼の指先に、ほんの一瞬、触れた。
——同じだった。
十年前、貸し合った教科書を返してもらうときに、ノートの端をつまむ指が、ふとわたしの指の腹をかすめた、あの日の温度と、何ひとつ、変わっていない。掌の熱の伝わり方、指の関節の冷たさ、皮膚の薄い乾き。十年分の何かが、わたしの指から、肘のあたりまで、ゆっくりと、上がってきた。
鍵を、握り込む。
玲司は、何も言わなかった。ただ、視線だけが、けさは、逸れなかった。
廊下のほうから、エレベーターのチャイムが、薄く、聞こえた。きのうと、同じ音だった。違うのは、わたしの掌の中に、いまは、銀色の鍵が、ひとつ、握られていることだった。