第2話
第2話
枕元のスマホが、けたたましい音を立てて鳴っていた。
目を開けた瞬間、表示は七時三十二分。アラームを四回スヌーズして、五回目でようやく上半身を起こした私は、声にならない呻きを喉の奥で押し殺した。シャワーは三分。化粧は左目だけアイラインを引いて諦めた。トーストは焼かず、食パンを口にくわえたまま、伝線したストッキングを脱いで予備の一足に履き替える。鞄を引っ掴んで玄関を出たのが八時四分。新宿三丁目まで四十分の路線で、九時始業。間に合わない。間に合わないけれど、間に合わせるしかなかった。
ドアを引き開けた瞬間、視界の端に人影が映った。
悠人だった。
九〇三のドアの前で、彼はゴミ袋を片手に提げて立っていた。今日はライトグレーのスウェットに薄手のパーカーを羽織っただけの恰好で、髪はまだ寝起きのまま右側だけ少し跳ねている。冷蔵庫の中で未開封のままになっているほうじ茶のペットボトルのことを、たぶん彼は知らない。
「結衣、おはよ」 「……おはよ」 「すげえ顔してる」 「うるさい」
口にくわえていたパンを慌てて手に移し、私は早口で吐き出した。
「無理。今日、無理。話してる時間ない」 「うん、いってらっしゃい」
笑った声に、引き止める気配は微塵もなかった。それが助かったはずなのに、なぜか足が一瞬遅れた。エレベーターのボタンを連打しながら、私は背中で悠人の気配を測っていた。彼がいつドアを閉めるのか、それを確かめたいのか、確かめたくないのか、自分でもよく分からなかった。ドアが閉まる軽い音が廊下に鳴ったのと、エレベーターが到着したのが、ほとんど同時だった。
満員の山手線の中で、私は両腕を体の前にきつく抱え込んだまま、五分前に見た悠人の顔を反芻していた。寝起きの髪、無造作に下がったゴミ袋、笑った時に動いた左の眉の上の小さな傷。十年前と比べて、肩幅は拳一つ分くらい広くなっていた。声は記憶より半音だけ低かった。気がつくと、つり革を握った指先に力が入っていて、爪が手のひらに食い込んでいた。私は慌てて指をほどいた。隣の女性のヘアコロンが、シトラス系の甘い匂いで鼻先をかすめていく。今朝の自分が、コロンを付けるどころか歯磨き粉の味も覚えていないことを、その時はじめて思い出した。
会社に着いたのは九時十二分。竹中さんの席を盗み見ると、まだ空いていた。助かった、と息をつく暇もなく、デスクに座った瞬間、内線が鳴った。
「月村さん、ちょっと」
竹中さんは会議室から戻ってきていた。私は赤入れの入った提案書を一冊抱えて、彼の席へ向かう。表紙の隅に、几帳面な細字で「再考」と一言だけ書き込まれているのが、廊下の蛍光灯の角度で目に入った。胃の奥が、軽く沈むのを感じた。
「昨日のドラフト、見たけど」 「はい」 「全部、トーンが弱いね。やり直し」 「……全部、ですか」 「七枚全部。あと、午後イチで先方プレゼンの構成変えたいから、十一時までに新しい骨子、私の机に置いといて」
竹中さんはモニターから目を離さないまま、手元のマグカップでコーヒーを啜った。陶器の縁に、薄く茶色の輪が一本残った。私はその輪の角度を、なぜか妙に正確に視界の隅へ刻み込んでしまった。「承知しました」という自分の声が、思ったより一段低く出たことに、自分で少し驚いた。私は反射的に「承知しました」と頭を下げて、自分の席に戻った。
椅子に座って、両手をキーボードの上に置く。指は、動かなかった。
ディスプレイの右下で、九時二十六分の表示が静かに更新されていく。十一時までに骨子。七枚のリライト。午後イチで本番。頭の中で順序を組み立てようとして、組み立て式そのものが崩れていった。私はマグカップを取って、給湯室へ立った。流しの前で、無意識にコーヒーサーバーのボタンを押そうとして、指が止まった。
——水分。コーヒーじゃなくて。
昨日の悠人の声が、私の許可なく勝手に再生された。語尾の柔らかさまで、嫌になるほど鮮明に。
私は手を引っ込めて、代わりに紙コップに水道水を注いだ。蛇口から落ちる水が、紙コップの底を一度叩いて、それから静かに満ちていく。一口飲んで、それから、自分が今、給湯室の蛍光灯の下で何をしているのかが分からなくなった。冷蔵庫のモーター音が、低く一定のリズムで耳の奥に届いていた。換気扇の細い唸りと、誰かが置いていったレモンの香りの食器用洗剤の残り香が、その低音の上に重なって、私の輪郭をほんの少しだけ曖昧にした。紙コップの薄い壁を通して、水の冷たさが指の腹を伝わってくる。冷たい、と言葉にして初めて、自分がさっきまでどれくらい体を強張らせていたかに気がついた。肩のあたりに溜まっていた小さな硬さが、水を一口飲み下すたびに、指一本分ずつほどけていく。
午前中の二時間半は、ほとんど記憶がなかった。骨子は十時五十八分にぎりぎり間に合わせた。竹中さんは赤入れを三箇所だけ入れて、「これでいい」と言った。三箇所だけ。それが今朝の判断のすべてだった。
昼休み、私はデスクで弁当を広げる気力もなくて、コンビニで買ってきた鮭おにぎりの包装を、片手で器用に剥いていた。塩気だけが舌に届いて、米の甘みは何も感じない。喉を通る一口ごとに、午前中に組み立てた骨子の文言が頭の中で再生されては消えていく。咀嚼の音だけが、自分の頭蓋の内側でやけに大きく響いた。
ふと、鞄の中のスマホを取り出して、何の気なしに今夜の冷蔵庫の中身を思い出そうとした。卵が二つ、賞味期限を二日過ぎたヨーグルト、それから、未開封のほうじ茶。
——温かいうちに飲めばよかった。
そう思った瞬間、自分の指が、おにぎりの包装紙を握ったまま止まっているのに気づいた。包装の透明なフィルムが、指先の力でかすかに音を立てて潰れていた。
なんで、と私は心の中で呟いた。なんで今、それを思い出すんだろう。あれはただのコンビニのペットボトルで、賞味期限はずっと先で、冷蔵庫に入れてあるなら明日でも来週でも飲める。それなのに、温かいうちに飲めばよかった、という言葉だけが、頭の中でやけにはっきりとした輪郭を持っていた。輪郭の縁が、少しだけ熱を持っているような気さえした。明日でいい、来週でいい、と頭の理屈は繰り返すのに、胸の真ん中ではもう、温度の話は終わった、と低い声がしていた。一度冷えたものは、戻らない。あの夜の、コンビニからマンションのエントランスまでの三分間、彼の手のひらの中だけで保たれていた小さな熱を、私は受け取り損ねたまま冷蔵庫の扉を閉めたのだ。そう気づいた途端、おにぎりの塩気が、輪郭ごと舌の上から退いていった。
手のひらが、昨日の温度を覚えている気がした。
ラベルの下の樹脂の、じわっとした熱。蓋の縁からほんの少しだけ漏れていた香ばしい匂い。受け取った瞬間、結露の名残が私の冷たい手のひらで一瞬で乾いていった、あの感覚。それらが、塩鮭の塩気の上に、なぜか勝手に重なって浮かび上がる。指先がほうじ茶の香りを思い出して、舌の上の塩がふいに遠のいた。私は包装紙を握ったまま、しばらく動けなかった。
「月村先輩、お昼、食べないんですか」
後輩の倉田さんが、デスクの脇から声をかけてきた。私は反射的に笑顔を作って、「食べてる、食べてる」とおにぎりを掲げてみせた。倉田さんは私の顔を二秒ほど見てから、
「先輩、なんか、今日ちょっと顔色いいですね」
と言って、自分の席に戻っていった。
——顔色、いい?
私は午前中、給湯室のガラスに映る自分の顔を一度も確認していなかった。たぶん酷いはずだ。寝坊して、化粧は半分で、午前中に七枚リライトして。それなのに「いい」と言われた。
たぶん、目だ、と私は思った。今朝、廊下で会った瞬間に、誰かに「すげえ顔してる」と笑ってもらえたから。あの一言で、私の顔のどこかが、ほんの少しだけ緩んだのかもしれない。眉の付け根の、いつも力が入っている場所が、今日はわずかに重力に従っていた。
そう気づいてしまったことが、午後の仕事の集中を、午前中以上に乱した。
定時を二時間過ぎて、私は会社を出た。今夜は終電どころか、二十二時前の電車に間に合う時間だった。
地下鉄を乗り継いで、マンションの前に着いた時、私は自然に九階を見上げていた。九〇二の私の部屋は、当然、真っ暗だ。そのすぐ隣、九〇三の窓には、暖色の灯りが点いていた。カーテン越しに、人影が一度だけ横切った気がした。
私は俯いて、エントランスのオートロックに鍵をかざした。鞄の中で、駅の自販機で買ったミネラルウォーターのペットボトルが、かちりと小さく音を立てた。今日は、コーヒーは買えなかった。
エレベーターのボタンを押す。九階。
——ただいま、と言う相手はいない。
そのはずなのに、左の手のひらだけが、まだ昨日の温度を、正直に覚えていた。