第1話
第1話
タクシーの後部座席で、ストッキングの伝線に気づいた瞬間、今日が終わったのだと思った。
膝の内側、五センチほど。爪を引っかけた覚えはないのに、薄手の布地は几帳面な直線を描いて破れていた。デパートで買った新品だったのに、と頭の片隅で考えながら、私は窓の外を見る。新宿副都心のビル群が、二十三時を過ぎてもまだ半分くらいの窓に灯りを残している。あの灯りの一つに、つい三十分前まで自分もいた。あのフロアの、入り口から数えて三番目の島。隣の席のキーボードの、Tabキーだけ妙に擦り減った銀色。机の上に積んだままの、提案書のドラフト七枚。それらは全部、明日の朝までに直さなければいけないものだった。
「お客様、首都高乗っちゃっていいですか」 「はい、お願いします」
私の声は自分でも驚くほど掠れていた。喉の奥に、コンビニで買ったままぬるくなったブレンドコーヒーの苦みが貼りついている。袖口を見ると、今朝あれだけ気をつけたはずなのに、白いブラウスの右袖に茶色い染みが二つできていた。たぶん、十六時くらいに上司の竹中さんから「明日の朝イチで企画書、二十枚」と言われたあのタイミングだ。手が震えたわけじゃない。ただ、紙コップを持ったまま反射的に息を吐いた。それだけ。コーヒーの粒は、ブラウスの繊維の中で乾いて、もう取れない硬さで居座っている。生地の上から指で触れただけで、ざらりとした粒の感触がした。
広告代理店三年目、月村結衣、二十五歳。
最終電車を逃すのは、今月だけで七回目だった。
タクシーがマンション前に着く頃、デジタル時計は二十三時四十八分を示していた。会社からここまで、四千二百円。今月の領収書束はもう財布のカードポケットに入りきらない。
エントランスのオートロックを抜けて、エレベーターのボタンを押す。九階。築十二年、家賃十一万二千円、3LDKを一人で持て余している、と入居したばかりの時は思っていたのに、今ではそれすらどうでもよくなっていた。週の半分は会社で寝ているし、週末は泥のように眠るだけだ。たまに自炊しようと買った人参が、冷蔵庫の野菜室で溶けかけている光景を、もう三度くらい見ている。このマンションを内見した日、東向きの窓から朝の光がちゃんと差し込んでいて、ここでなら丁寧な暮らしが出来そうな気がして契約した。あの判断をした自分と、今ここで疲れ果てた自分は、もう同じ人間ではない気さえする。
エレベーターの扉が開いた瞬間、中に人がいた。
慌てて謝りながら一歩下がる。男性が一人、両手にコンビニの袋を提げて立っていた。背の高い、二十代半ばくらいの。私と入れ替わるように降りていくのだろうと思って通路を空けたのに、その人は降りてこなかった。
「結衣?」
知らない人に名前を呼ばれて、私は顔を上げた。心臓が一拍だけ、変なリズムで打った。私の名前を、苗字でも役職でもなく、ただ「結衣」と呼ぶ声を、私はこの街でもう何年も聞いていなかった。会社では「月村さん」、クライアントの前では「月村」、たまに飲みに行く同期からは「ツキ」。下の名前で呼ばれる機会は、実家に電話したときだけで、それすらここ半年は途絶えていた。
蛍光灯の白い光の下で、男の人が私を見ていた。私は二秒くらい、その顔を凝視した。骨ばった輪郭、少し垂れた目尻、左の眉の上にある小さな傷。中学二年のとき、体育の授業中にハードルで転んで作った傷だ。あの日、保健室まで付き添ったのは私だった。血の色が眉の上で乾いていく速さと、悠人が涙を見せまいとして窓の外を睨んでいた横顔と、保健室の漂白剤の匂い。それらが、廊下の蛍光灯の白の中に一気に重なって見えた気がして、私は思わず一歩、後ずさりそうになった。
「藤崎、悠人?」
掠れた声で、私はようやく十年前に最後に呼んだ名前を口にした。
「やっぱ結衣だ。どうしたの、その顔」
笑った声に、棘がない代わりに気遣いの装飾もなかった。それが昔のままだった。中学のときから、悠人は私が泣いた日でも「お前、目が腫れてるな」と最初に言うやつだった。今だってそうだ。「どうしたの」じゃなくて「ひどい顔してる」と続くのが分かって、私は咄嗟にうつむいてストッキングの伝線を手で隠した。
「あんたこそ、なんでここに」 「ここ住んでるから」 「は」 「先週、引っ越してきた。九〇三」
私の部屋は九〇二だった。
頭の中で何かが繋がる前に、悠人は片手で持っていたコンビニ袋からペットボトルを一本取り出して、私の手のひらに押しつけてきた。蓋の閉まったままの、温かいほうじ茶。コンビニから出してまだ五分も経っていないのだろう、ラベルの下の樹脂が指の腹にじわっと熱を伝えてくる。受け取った瞬間、ボトルの肩のあたりにうっすらと結露の名残がついていて、それが私の手の冷たさで一瞬で乾いていくのが分かった。お茶の香ばしい匂いは栓の縁からほんの少しだけ漏れていて、十六時間ぶりに鼻の奥に届いた「食べ物の匂い」がそれだった。
「飲んで。顔色やばいから」 「……」 「水分。コーヒーじゃなくて」
ブラウスの茶色い染みを、悠人は一瞥もしなかった。それが何故か分からないけれど、見られる以上に堪えた。爪先が、ローファーの中で勝手に丸まる。瞼の裏が、急に熱くなった。今日一日、上司の前でも、クライアントの前でも、終電を逃したと気づいた瞬間でも、欠片も揺らがなかった部分が、ペットボトル一本の温度で簡単に滲みそうになっている。
馬鹿みたいだ、と思った。クライアントに四度書き直しさせられたコピーでも、竹中さんに無言で突き返された企画書でも、こんなふうに泣きたくならなかった。たかが、ペットボトル一本だ。たかが、十年前にノートの切れ端に書いた「元気でね」の三文字を、覚えていてくれただけのことだ。
私は受け取ったペットボトルを両手で包んで、黙ったままエレベーターに乗った。悠人も乗り直した。
九階のボタンを押そうとして、もう点いていることに気づいた。
「結衣、何階」 「……九」 「俺も」
無言の上昇。蛍光灯がチカッと一度だけ明滅した。乗り合わせた他人がいるみたいな距離感のままで、でも他人ではなくて、肩の角度を少し変えるだけで触れてしまいそうな密度だった。私は手の中の温かさを見つめながら、これはたぶん夢だなと思った。今日は朝七時から十六時間連続で動きっぱなしで、どこかで意識が切れて、タクシーで眠ったまま夢を見ているのだ。そう思わないと、立っていられなかった。鞄の持ち手を握る指先が、しびれるくらい冷たくなっていた。手のひらだけが、ほうじ茶の熱を映してじんわり熱い。体の左右で温度が違う、それが酷くちぐはぐで、私は無意識に深く息を吸い込んだ。エレベーターのモーター音が、普段の倍くらいゆっくりに聞こえた。階数表示の小さなランプが、五から六に切り替わるその一瞬の間にも、悠人の呼吸の音が左の耳に届いてくる気がした。コンビニ袋の中で、何か缶のようなものがかすかに揺れて、かちんと鳴った。
「結衣」 「……何」 「お前、あのとき手紙くれただろ」 「え」 「卒業式の日の。返事、しないままだった」
声のトーンが、こちらの息を一度止めるくらい静かだった。私は何度かまばたきをした。あの手紙のことを、今このタイミングで持ち出されるとは思っていなかった。便箋を一枚、何度も折り直して、誰に渡せばいいのかも分からないまま、私はその紙を悠人の机の中に滑り込ませた。三月の最後の日。それから十年、返事を期待した日と、忘れていた日と、忘れたふりをしていた日が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
エレベーターが九階に着いた音が、やけに遠くで鳴った。
扉が開く。私は何と返したらいいのか分からなくて、ただ廊下に降りた。悠人は片手を上げて、九〇三号室のほうへ歩いていく。私は逆方向、九〇二の前で鍵を取り出した。
ドアの横に、見慣れない表札があった。
九〇三、藤崎。
中学三年の春、何の前触れもなく転校していった幼馴染の苗字が、私の家のドアの隣に貼ってある。ペットボトルの温度が、手のひらでまだ正直に温かい。
私は鍵を回しかけて、もう一度振り返った。
「悠人」 「ん?」 「なんで、東京に戻ってきたの」
ドアノブに手をかけたまま、悠人は少しだけ笑った。蛍光灯の影で、その表情の奥は読めなかった。
「それ、明日話すよ」
ドアが閉まる音がして、廊下にひとり残された。
手の中のほうじ茶を、私はまだ開けていなかった。