第3話
第3話
床に座り込んで靴下の片方を探していたら、膝の裏側に、何かの紙の角が当たった。
手を伸ばして引き抜く。先週コンビニで買った、納豆と海苔の佃煮のレシート。なぜそれが床に落ちているのか、いつ落としたのか、まったく覚えがなかった。
金曜の夜、二十二時十七分。月曜以降、私はほとんどこの部屋を、寝るためだけにしか使っていなかった。寝るためにしか使わない部屋、というのが具体的にどういう状態を指すのか、今夜になって初めて、輪郭をともなって見えていた。
玄関のたたきには、月曜のヒールと火曜のスニーカーと、昨日のローファーが、それぞれ斜めに脱ぎ捨てられている。三和土に降りた砂の粒が、廊下の灯りでうっすら光っていた。リビングのソファには、火曜の朝に脱いだパジャマと、水曜の夜に丸めたストッキングと、今朝慌てて引っ張り出して着替え直したカーディガンが、地層のように重なっている。テーブルの上には、開けたまま忘れた菓子パンの袋が二つ、栓を閉めなかったペットボトルの口元に、輪っかの形に乾いたお茶の跡。シンクには、洗おうと思って水を張ったまま忘れたマグカップが三つ、底に薄茶色の影を沈めている。
冷蔵庫を開ければ、未開封のほうじ茶が、扉のポケットに変わらず立っている。
月曜から金曜まで、私はそのペットボトルを一度も触っていなかった。買い物に行く余裕も、洗濯機を回す余裕も、たしかになかった。ただ、それだけが理由ではないことも、靴下の片方を諦めて素足のまま立ち上がった瞬間に、自分でうっすら分かっていた。あれを開けてしまったら、何かが終わる。何が終わるのか分からないまま、私は冷蔵庫の扉のポケットを毎朝、視界の隅で確認だけして、扉を閉めていた。
ピンポン、と乾いた音が、ドアの向こうで鳴った。
反射的に、脱ぎ散らかしたカーディガンを胸の前に抱え込んでいた。インターフォンのモニターを覗くと、コンビニ袋を両手に提げた悠人が、廊下の蛍光灯の下に立っていた。スウェットの上に薄い黒のジャケット、髪は乾かしたばかりらしく、ほんの少し光って見える。
「結衣、いる?」 「……いるけど」 「開けて」
声に押し切られるように、私はドアチェーンを外した。本当はこういう時、女は一回断るべきなのだろう。今は無理、明日にして、と。けれど私の指は、私の意思より先に、もうサムターンを回していた。
ドアを開けた瞬間、悠人は廊下から私の顔を一秒、その奥の玄関を二秒見て、それから口を半分開けた。
「……結衣」 「言わないで」 「これ、さすがにヤバいって」
言わないでと言ったのに、悠人は容赦なく言葉を続けた。コンビニ袋を玄関の床に置いて、靴を脱ぐ。脱いだ靴をわざわざ揃えて壁際に寄せた、その仕草の几帳面さが、なぜか先に胸に刺さった。私は咄嗟にカーディガンを盾に、廊下の奥を背中で隠そうとした。
「ちょっと、上がっていいなんて言ってない」 「言わせる気なかった」 「悠人」 「結衣、お前、月曜からまともに飯食ってないだろ」
返事の代わりに、私は喉の奥で小さく息を詰めた。火曜の昼にコンビニのおにぎり、水曜の夜にチョコバー、木曜の朝にゼリー飲料。それを飯と呼んでいいなら食べていた。よくないのは、自分でも分かっていた。指摘された瞬間、胃の底のあたりが妙にすうっと冷えて、自分が自分の身体に対してさえ、ずいぶん雑に振る舞っていたのだと、ようやく他人の声を借りて気づかされた。
悠人はリビングへ続くドアを引き開けて、そのまま立ち止まった。
半畳ほどの沈黙があった。蛍光灯の白さが、室内のすべての惨状を、均等な明るさで照らしてしまう。私はこの光がいちばん嫌いだった。間接照明にしておけば、ソファの上の地層も、テーブルの輪っかの跡も、もう少し優しく見えただろう。けれど今夜、この部屋は容赦なく明るかった。蛍光灯のじりじりとした微かな音までが、急に耳の中で大きくなって聞こえた。
「片付ける」 「え」 「これ、片付ける。今から」 「今から?」 「今からだよ。結衣、土日寝るだろ。寝る場所くらい、ちゃんとしとけ」
悠人はジャケットを脱いで、椅子の背にかけた——いや、椅子の背には水曜のブラウスがかかっていたから、その上に重ねた。スウェットの袖を、肘の上まで二回折る。前腕に、見覚えのない筋の影が走った。中学のときのひょろりとした腕は、もうそこにはなかった。袖を折る指先が、迷いなく二度同じ角度で動いたのが、なぜか妙に目に残った。
「待って、本当に待って」
私が腕を伸ばしたのは、ソファの背もたれにかかった、薄いベージュのキャミソールと、その下にちらりと覗いた、もっと薄い色の何かを、悠人に見せたくなかったからだ。指先がカーディガンのボタンを引っかけて、爪の付け根に小さな痛みが走る。私はそれを無視して、両腕でソファの上の山を抱え込んだ。下着が指の腹に触れた瞬間、自分の頬の温度が、一段階上がるのが分かった。耳の縁まで、たぶん赤い。布の冷たさと、自分の指先の熱さの差に、心臓が一拍だけ大きく鳴った。
「悠人、洗面所、洗面所のほう手伝って」 「いや、こっちからのほうが」 「お願い、洗面所から」
私の声がいつもより半オクターブ高くなったことに気づいたのか、悠人は一瞬まじまじと私を見て、それから視線をきれいに天井のほうへ逃がした。
「……了解」 「ありがとう」 「廊下出たら左な」 「知ってる、私の家」
悠人が視線を逸らしたまま洗面所へ消えた数秒のあいだに、私は両腕いっぱいの衣類を、寝室のクローゼットに押し込んだ。扉を閉める時、薄手のショーツのレースの端が扉に挟まって、慌てて押し込み直した。レースが指先をかすかに引っ掻く感触が、なぜかいつまでも残った。鏡台の前を通り過ぎる時、ガラスに映った自分の顔を一瞬だけ確認する。耳の縁が赤い。それも見ないことにした。
リビングに戻ると、悠人はもうゴミ袋を片手に、テーブルの上の菓子パンの袋を集めていた。私は黙ってもう一枚のゴミ袋を取って、彼の反対側からシンクへ向かう。
「結衣」 「何」 「マグ、三つあるけど、どれが今朝の」 「真ん中の」 「他の二つは」 「……たぶん、火曜と、水曜」 「了解」
悠人は頷いて、迷いなく三つのマグを順に洗い始めた。スポンジを動かす音、水道の細い水音、ゴミ袋にレシートを落とす紙の擦れ。三つの音が、白い蛍光灯の下でゆっくり重なって、いつのまにか会話の代わりになっていた。私はテーブルの輪っかの跡を、固く絞った布巾で円を描くように拭いていた。輪の中心に向かって渦を巻くように手首を回すと、染みは思ったより素直に薄くなっていく。布巾越しに伝わる木目の凹凸が、指の腹をひとつずつ確かめさせるみたいで、私はその一定の手応えにだけ、しばらく意識を預けていた。
ふと顔を上げたら、シンクの前に立つ悠人の背中があった。スウェットの背中、肩甲骨の輪郭、首の後ろの薄い影。十年前、給食当番のとき、白い割烹着の襟元から覗いていた首筋とは、もう厚みが違う。私はその違いを、手元の布巾の動きを止めないまま、一秒だけ見て、目を逸らした。逸らしたあとも、視界の端で、彼の背中の影は動き続けていた。スポンジを握り直すたびに、肩のラインが小さく上下するのが、なぜかひどく現実的に見えた。
二十三時半を回った頃、リビングの床は本来の色を取り戻していた。ソファの上は空になり、テーブルの輪は消え、シンクには伏せた三つのマグが並んでいる。悠人は最後のゴミ袋の口を縛って、玄関の三和土の隅に置いた。
「明日、収集の日だっけ」 「……日曜の朝」 「じゃあ、出しとく」 「悠人」 「ん」 「ありがとう」
言ったあとで、たかがそんな三文字でこの夜が説明できるとは、到底思えなかった。悠人は袖を戻しながら、こちらは見なかった。
「結衣」 「うん」 「ほうじ茶、まだ冷蔵庫?」 「……まだ」 「冷たいまま飲んだら、俺、ちょっと傷つく」
冗談みたいな声色だったのに、なぜか語尾だけ、わずかに本気が混じっていた。私は冷蔵庫の扉に視線を移して、それから何も答えられないまま、サムターンに手を伸ばす悠人の背中に向かって、もう一度だけ「ありがとう」と呟いた。彼が振り返らないまま小さく手を上げて、ドアが閉まる。
静かになった部屋の真ん中で、私は冷蔵庫の前に立った。扉のポケットの、月曜から動かなかったペットボトルを、ようやく指先でつまむ。蓋を回す前に、明日もまた彼が来るのだろうかと、まだ何も決まっていないことを、私は一つ、考えてしまった。