第2話
第2話
昇降口で靴を履き替えるとき、左右がちぐはぐになりかけて、一度脱ぎ直した。ローファーの内側に、昼に踏んだ砂利がまだ残っていた。
外に出ると、四月の終わりの陽射しが、思っていたより低い位置にあった。校舎の影が校門の手前まで伸びていて、その影を踏まないように歩く生徒の姿が、向こうで小さく揺れていた。俺は影を踏むのも避けるのも面倒で、ただまっすぐ歩いた。靴底の砂利が、一歩ごとに鳴った。
弓道場の戸を閉めたときの音が、まだ右手の親指の付け根に残っていた。木と鉄の擦れる感触。手を一度握って、開いた。指が冷えていた。河合先生の頭の下げ方と、彩花の「待ってます」の語尾が、頭の中で順番を入れ替えながら、何度も再生された。返事をしなかった、と俺は思った。返事をしなかったぶん、明日、もう一度同じ戸の前を通らなければならない。それだけのことなのに、なぜか肩のあたりが重かった。
校門の前で、信号待ちをしている自分の影を見下ろした。アスファルトの上で、ローファーの先がほんの少し揺れていた。膝が、自分でも気づかないうちに小刻みに動いていたらしい。慌てて止めた。止めると今度は、喉の奥に何かが詰まったような気がして、つばを飲み込んだ。
「高村くん」
後ろから声がした。
振り返るより先に、声の主が誰なのか、もう分かっていた。一日に三度同じ声で名前を呼ばれることは、俺の人生では多分これまでになかった。
的場彩花が、片手に黒いスポーツバッグを提げて、立っていた。袴は脱いでいた。制服のスカートと、白い靴下と、通学用のローファー。それだけの姿のはずなのに、道場の畳の上で見たときと、見え方が違った。何が違うのか、すぐには言葉にならなかった。
「……お疲れ」
俺は、なるべく普通に聞こえるように、そう言った。声が裏返らなかったことに、内心で安堵した。
「同じ方向?」
「あ、たぶん」
「たぶん、って」
彼女は、笑ったわけではなかったけれど、口の端が、ほんの一ミリだけ上がった。俺はそれを見てしまって、目を逸らした。逸らした先の電柱に、古い選挙ポスターが半分剥がれて、四月の風に揺れていた。
信号が青に変わって、俺たちは並んで歩き出した。並ぶ、と言っても、彼女は俺の半歩後ろを歩いていた。歩幅を合わせる気がないのか、合わせ方を知らないのか、どちらだろう、と一瞬考えた。たぶん前者だと思った。彼女は、自分の歩幅で歩く人だった。道場の中で見た背中の伸び方は、自分の歩幅で生きてきた人間の背中だった。
「さっきはごめん」
横断歩道の白線の三本目を踏んだあたりで、彼女が言った。
「先生、ああいう人だから。一度言い出すと、引かないの」
「いや、別に」
「数合わせ、嫌だったよね」
俺は、答えなかった。嫌だったと認めるのは簡単だった。けれど、嫌だったのは「数合わせ」という言葉そのものではなくて、その言葉が河合先生の口から出るときの、慣れた手つきの方だった気がした。それを、どう説明したらいいのか分からなかった。
彼女は、それ以上は何も聞かなかった。聞かないまま、信号を渡り終えて、住宅街に入る角の手前で立ち止まった。
「自販機」
「え?」
「あそこの自販機、当たりが出やすいの」
旧校舎の裏手から続く小さな路地の先に、見覚えのある赤い自販機が立っていた。校門を出て、ぐるりと塀沿いに回ってきた格好だ。学校の敷地の、ちょうど北側の外れにあたる場所だった。俺は昼休みに何度か通ったことがあった。けれど、誰かと一緒に来たのは初めてだった。
「奢る」
「いや、いいよ」
「ごめんついでに、奢らせて」
彼女は返事を待たずに、自販機の前まで歩いていって、財布を取り出した。小銭を選ぶ指が、少しだけ慣れていなかった。普段、現金で買う方ではないのかもしれない、と思った。けれど、そう思ったのも一瞬で、彼女は迷いなくボタンを二つ押した。
がたん、と缶が落ちる音が、二回続けて鳴った。
差し出された缶は、黒い地に金色の文字の、ありふれた缶コーヒーだった。微糖、と書いてあった。冷たかった。手のひらに、四月の終わりの夕方には少しだけ冷たすぎる温度が、貼りついた。
「飲める?」
「……飲める」
俺たちは、自販機の脇のブロック塀に背中を預けて、並んで立った。塀の向こうから、誰かの自転車が通り過ぎる音がした。チェーンが少し緩んでいて、一定の間隔でかちかちと鳴った。その音が遠ざかってから、彩花が缶のプルタブを引いた。プシュ、と短い音がした。続けて俺も引いた。同じ音が、半拍遅れて鳴った。
ひと口、飲んだ。
苦かった。微糖と書いてある割に、想像していたよりずっと苦かった。舌の付け根に、冷たい金属の味が残った。けれど、不思議と嫌な味ではなかった。喉を通り過ぎる温度より、舌の奥に残る苦みの方が、ずっと長く居座った。アルミの縁に触れた下唇に、わずかな金属の感触が、まだ貼りついていた。隣で、彩花が缶を傾ける気配がした。けれど、こちらを見ているわけではなかった。彼女は、自販機の脇から斜めに伸びる電線を見ていた。電線の上に、雀が一羽だけ止まっていて、首を一度傾げて、それからまた、どこへともなく飛び立っていった。
「数合わせでも」
彼女が、缶の縁を見つめたまま、言った。
「隣で引く人は、欲しい」
道場で聞いたのと同じ言葉だった。同じはずなのに、外で聞くと、また少し違って聞こえた。畳の埃の匂いがしないぶん、言葉の輪郭がはっきりしていた。
「私、別に、団体で勝ちたいわけじゃないの」
彼女は続けた。
「ただ、最後、四人で立ちたくない。立ち位置に、誰かもう一人、いてほしい。それだけ」
「……それ、俺じゃなくても、いいんじゃないの」
「あなたじゃなくても、いいよ」
即答だった。
俺は、缶を持つ指に少しだけ力を入れた。アルミの薄い壁が、ほんの少しだけ凹んだ。
「ただ、今日、戸を引いたのは、あなただったから」
彼女は、缶をひと口だけ飲んで、続けた。
「あの戸、滅多に誰も引かないの。先生が四月の終わりにあの戸の前で人を待つの、もう三回目。前の二回は、誰も引かなかった」
「……」
「だから、引いた人で、よかったの。引いた人だから、頼んでる」
俺は、缶の縁を見ていた。金色の文字の周りに、自分の指紋が、薄く残っていた。
返事は、すぐには出なかった。出ないまま、もうひと口、コーヒーを飲んだ。二口目は、一口目より、少しだけ甘く感じた。舌が慣れたのか、それとも気のせいか、分からなかった。
「やってみる」
声に出してから、自分でも驚いた。言葉の方が、考えるより先に、口から滑り出ていた。胸の奥のどこかで、何かが小さく、けれど確かに、決まる音がしたような気がした。決めたのは自分なのか、それとも、決まったあとで自分が追いついただけなのか、判別がつかなかった。
「……ほんと?」
「ほんと」
「無理してない?」
「してる」
彩花が、初めて、はっきりと笑った。声を立てずに、肩のあたりだけが、一度上下した。袴を脱いだ後の、制服のブレザーの肩が、夕方の光の中で揺れた。
「明日、待ってる」
「うん」
俺は、缶の中身を、半分まで飲み干した。冷たいまま、喉の奥を通った。微糖の苦みが、胃のあたりまで降りていって、そこで小さく広がった。
塀の向こうで、また自転車のチェーンの音がした。さっきとは違う、新しい音だった。
「じゃあ」
彼女は、空き缶を捨てる前に、もう一度こちらを向いた。
「明日、戸を引くのは、私が先でいい?」
「……どっちでもいいよ」
「じゃあ、私が先」
そう言って、彼女は缶を捨て、住宅街の方へ歩き出した。
俺は、半分残った缶を、まだ手の中で握っていた。アルミの冷たさが、手のひらの体温で、少しずつ温かくなっていくのが分かった。明日、放課後、自分があの戸を引く側に回るのだ、と思った。先に引いてもらう方ではなく、引く方として、彼女の背中の隣に立つのだ、と思った。
四月の風が、自販機の上のフードの隙間を、低く鳴らした。喉の奥に残った微糖の苦みが、まだ消えていなかった。明日、初めて弓を持つ自分の手のひらが、この缶よりも冷たいか、温かいか、まだ俺には分からなかった。