第3話
第3話
弓の握りは、思っていたより太かった。
放課後の弓道場、的場彩花が「これ、初心者用の」と差し出してきた弓を、俺は両手で受け取った。竹と籐の巻かれた箇所が、手のひらの中で、わずかにざらついた。重さは、想像していたより軽い。けれど軽いぶん、どこを支えればいいのか分からなくて、俺は弓の真ん中を握ったまま、それきり動けなくなった。
「握りはそこじゃない」
彩花は、白い襷を肩にかけ直しながら、俺の前に立った。袴の裾が、畳の縁を、すっと撫でた。
「もう少し下。ここ、握りって書いてあるところ」
弓の中ほど、革が巻いてある黒い部分。確かに、よく見ると糸で「握」と縫い取りがしてある。俺は指を滑らせて、そこを握り直した。汗で、革がすぐに温んだ。
「右手はここ。弦を、こう」
彼女が、自分の弓を持って隣に立った。並んで立つと、彼女が俺より背が低いことに、初めて気がついた。教室で見ているときは、肩のあたりまでしか目線が届かないのが当たり前だったのに、袴の腰板の高さで揃えると、彼女の頭頂部が、俺の鼻のあたりにあった。それが、なぜか気まずかった。
「足は、的に対して、こうやって開いて」
彩花が、自分のつま先を、的に向かって斜めに置いた。俺はそれを真似ようとして、思ったより足が開かなくて、よろけた。弓の下端が、畳に当たって、こつ、と音を立てた。
「ごめん」
「いい。最初は、みんなそう」
道場の隅では、河合先生が、別の部員の指導をしていた。三年の女子と、二年の男子が一人。三人とも、こちらをちらりと見て、それからすぐに自分の的に向き直った。見ないでくれている、と俺は思った。たぶん、それは彩花が頼んだことだ。彩花が頼んだのか、河合先生が察したのか、どちらでもよかった。見られていないことが、ありがたかった。
俺は、教えられた通りに、足を開いた。
膝が、わずかに笑った。
「弓道の最初は、矢をつがえないで、形だけやるの。素引きっていう」
「す、びき」
「素手の素。引くだけ」
彩花は、自分の弓を、左手で押し、右手で弦を引いた。腕がゆっくり、左右に開いていく。袴の中で、肩甲骨が動いているのが、布の張りで分かった。引き終わった瞬間、彼女の体は、左右にぴたりと止まった。止まった、というより、止まることが先に決まっていた、という止まり方だった。
俺は、息を止めて、それを見ていた。
「やってみて」
言われて、俺は弓を構えた。
左腕を、的の方へ、押し出す。右手で、弦を、引く。
引いた瞬間、弓全体が、ぐらりと揺れた。
弦が、肘の内側に当たった。鈍い、けれど鋭い痛みが、上腕を伝って、肩までのぼった。俺は思わず弓を下ろした。下ろすときに、左手の握りが甘くて、弓が縦にすべった。革の合わせ目が、人差し指の腹を、薄く擦った。
「いた」
「弦、肘に当たった?」
「うん」
彩花は、近づいてきた。近づいて、俺の左肘の少し下、上腕の内側を、じっと見た。
「赤くなってる。腕の向き、外に開きすぎ」
「向き?」
「肘の内側を、上に向ける感じ。そうすると、弦が逃げる場所ができる」
そう言いながら、彼女は俺の左腕に、自分の手を添えようとして、一度止まった。手が、空中で、半秒だけ迷った。それから、添えた。
彩花の指は、思っていたより冷たかった。四月の終わりの、夕方の道場の空気と同じ温度だった。指先が、俺の上腕の、シャツの上から、骨の位置を確かめるように動いた。
「ここ。この骨、上に向ける」
「……うん」
声が、上ずらなかったかどうか、自信がなかった。
彼女は、すぐに手を離した。離した手を、自分の袴の腰板の前で、一度握り直した。握り直した指が、自分の左手の甲を、軽く払った。何かを払うような仕草だった。何を払ったのかは、分からなかった。
「もう一回」
俺は、もう一度、弓を構えた。
肘の向きを、教えられた通りに、内側に。押す手と、引く手を、左右に。弦が、さっきよりは外れた位置を通った。それでも、引き終わったときの体は、ぐらぐら揺れていた。止まる場所が、見つからなかった。
矢を、つがえてもらった。
つがえた矢の重みは、ほとんど無いに等しかった。けれど、無いに等しいその重みが、俺の右手の安定を、根こそぎ奪った。引いて、離した。離した、というより、指から逃げた。
矢は、的に向かって、飛ばなかった。
二十八メートル先の的どころか、十メートルも飛ばずに、矢道の手前の砂に、ぱらり、と落ちた。羽の根元が、砂の上で、軽く跳ねた。
俺は、立ち尽くした。
「……これ、想像してたより、ひどいな」
声に出してしまってから、しまった、と思った。卑下のつもりはなかった。ただ、本当に、想像のはるか下を行っていた。隣で、彩花が小さく笑った。
「最初は、みんなそう」
「みんな、十メートルも飛ばないの?」
「飛ばない」
彼女は、それ以上は言わなかった。言わずに、俺の右手の親指の付け根を、軽く指で押した。
「ここ、力入れすぎ。弦は、指で引くんじゃなくて、ここに引っかけて、体ごと開く感じ」
「……体ごと」
「うん。腕じゃなくて、背中で引く」
背中で引く、と言われても、すぐには分からなかった。けれど、彩花は、それ以上の説明を足さなかった。代わりに、自分でもう一射、引いてみせた。今度は、矢をつがえずに、素引きで。
彼女の背中の、肩甲骨と肩甲骨の間が、開いた。布の張りが、変わった。
俺は、それを見ていた。見て、見終わって、自分の弓を、もう一度、構えた。
何度、繰り返しただろう。
矢が、五本目で、ようやく的場の手前まで届いた。届いた、と言っても、的の半分の高さもないところに、力なく刺さっただけだった。けれど、刺さった。刺さるという音を、初めて、自分の矢で聞いた。藁束に矢が入る、ぼそ、という鈍い音。それは、スマホで聞くどんな効果音とも違う、現実の音だった。
「入った」
彩花が、ぽつりと言った。
「……届いただけだろ」
「届いただけでも、最初の日に届く人は、少ない」
彼女は、俺の方を見ずに、そう言った。袴の腰板に手を置いて、的場の方を、まっすぐ見ていた。
道場の窓の外が、もう、夕方の色をしていた。畳の上に、長い影が一本、伸びていた。それは、俺の影だった。弓を持って、立っている、自分の影。三年間、廊下の壁の方しか見ていなかった自分の影が、今、的の方を向いて、伸びていた。
河合先生が、奥の方で、そろそろ終わりだ、と声をかけた。
俺は、弓を、教えられた通りに、立てかけた。立てかけて、両手を、自分の前で見た。左の人差し指の腹に、革の擦れた跡が、薄く赤く残っていた。右の親指の付け根が、わずかに痺れていた。手のひらの真ん中に、汗で湿った、弓の革の匂いが、まだ残っていた。
「高村くん」
道場の戸の手前で、彩花が振り返った。
襷を外した彼女は、もう、教室で見るときの彩花とほとんど同じ姿だった。けれど、ほとんど、で、同じではなかった。何が違うのか、まだ俺には言葉にならなかった。たぶん、立ち方だ。袴を脱いでも、立ち方の根が、さっきまでの彩花のままだった。
「明日も、来てくれる?」
問いの声は、低くも高くもなかった。淡々として、けれど、ほんの少しだけ、語尾が上がっていた。問いの形を、ちゃんと持っていた。
俺は、自分の指先を見た。革の擦れた赤い跡が、まだ消えていなかった。
頷いた。
声に出さずに、ただ、頷いた。
頷いた瞬間、自分の中で、放課後という言葉の意味が、ひと回り、ずれた。
明日の放課後は、もう「人気のない裏手に逃げる」ための時間ではなくて、この戸を引くための時間だった。引くと、決まっていた。決めたのは、たぶん、彩花の問いではなくて、五本目の矢が、藁束に届いた、あの鈍い音だった。
戸を引くのは、明日も、彼女が先でいい、と思った。先に引いてもらった戸の中に、俺は、自分の足で、もう一度、入っていく。
外に出ると、四月の終わりの風が、廊下を低く抜けていった。手のひらに残った革の匂いが、その風で、ほんの少しだけ、薄くなった。