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数合わせの一射、放課後の的場で

第1話 第1話

第1話

第1話

引き戸の取手が、思っていたより冷たかった。

四月の午後三時半。誰もいないはずの弓道場の戸に、俺は手をかけていた。理由はない。強いて言うなら、昇降口で誰かと目を合わせるのが面倒で、人気のない裏手に逃げてきた、それだけだ。

旧校舎裏の自販機前は、たまに教師の通り道になる。だから今日は、その先の弓道場の縁側まで足を延ばしてしまった。砂利を踏む音が自分の靴底ぶんしか鳴らないのが、なぜか妙に心地よかった。誰の足音とも交わらない、自分一人の音。それを確かめるように、わざとゆっくり歩いた。校舎の方角から聞こえる吹奏楽部の音出しが、塀の向こうで息継ぎを繰り返していた。その音さえ、ここまで来ると一段遠くなって、四月の薄い陽射しの中で、ほどけて消えた。

「……空いてるよな」

口の中だけで呟いて、戸を引いた。

木と鉄の擦れる音が、思っていたよりずっと大きく響いた。

中の空気は、外より一段冷えていた。畳の匂いと、藁束の埃っぽい匂い。それから、矢羽のかすかな獣くささ。三年間で一度も入ったことのない場所のはずなのに、なぜか祖父の家の納屋に似ていると思った。夏休みのたびに連れて行かれた、あの古い納屋。光の差し方も、足裏に伝わる板の鈍い反発も、よく似ていた。鼻の奥が、ほんの一瞬、子どもの頃に戻りかけて、すぐに現実へ戻った。

そして、視線が合った。

道場の奥、的場の前で、白い襷をかけた女子生徒が、俺の方を真っ直ぐ見ていた。その隣に、ジャージ姿のひょろ長い男が立っていた。胸の名札に「弓道部顧問・河合」とだけ書いてある。

俺の手は、まだ取手にかかっていた。閉めるべきだ。今すぐ、何も見なかったことにして、戻るべきだ。

「お、入って来い、今ちょうど話してたんだ」

戸を閉めるよりも先に、教師の声がそれを許さなかった。

「いや、あの、俺、間違えて──」

「高村、だろ。二年三組」

名前を呼ばれて、心臓が一拍だけ強く鳴った。三年間、俺の名前を覚えている教師がいることに驚いた。誰だっけ、この人。確か二年の保健体育を持っていない。一年の時だ。一年の時、俺の名前を呼んだのは、出席を取る瞬間だけだったはずなのに。

「悪い、座ってくれ。立ち話で済む話じゃない」

河合先生は、勝手に俺を畳の縁まで導いた。靴を脱ぐ間がなくて、俺は縁側に腰だけ下ろした。膝の裏に、冷えた板の感触が貼りついた。

「お前さん、運動部、入ってないよな」

「……入ってません」

「文化部も?」

「……入ってません」

「よし、空いてるな」

何が「よし」なんだ。喉まで上がってきたその言葉を、俺は飲み込んだ。飲み込んだぶん、口の中が乾いた。唇を一度、内側で噛んだ。

俺の隣で、女子生徒が小さく笑った気がした。袴の腰板が、わずかに揺れる音だけが届いた。顔を上げる勇気がなかった。彼女の名前は、たぶん知っている。三組の出席番号で俺の前に座っている、的場彩花。たぶん、で済む程度の、それだけの距離。

「実はな」河合先生が、頭をぼりぼり掻いた。「来月、地区大会があるんだ。団体戦、五人。うちは今、四人しかいない」

「……はあ」

「一人欠けると、団体戦には出られない。出られないと、的場の三年間が、終わる」

ぴく、と隣の袴が動いた。

「先生、それ、言わなくていいです」

低くて、でも芯のある声だった。教科書を朗読する声とは別人のように、はっきりと底に錘があった。俺は思わず横を見た。

的場彩花が、俺ではなく河合先生を睨んでいた。睨むというより、口元を結んでいる、と言ったほうが正しいかもしれない。睫毛の影が頬に落ちて、そこだけ夕方みたいな色をしていた。

「数合わせで、いい」

河合先生が、こちらに向き直った。

「練習はうちの部員が見る。試合では、引かなくてもいい。立ち位置にいるだけでいい。お前は、ただ、的の前に立ってくれればそれでいい。頼む」

頭を下げられた。教師に、頭を、下げられた。

逃げ場の戸は、まだ開いていた。一歩で外に出られる。出てしまえば、たぶん明日からこの道場の前は通らないだろう。三年生まで、また誰の名前も呼ばずに済むだろう。

そう、思った。

「……俺、弓、引いたことないんですけど」

口に出してから、自分でも驚いた。断る言葉ではなくて、言い訳の方を選んでいた。

「いいんだ、引かなくて」

「的にも、当たらないと思います」

「当たらなくていい」

「……団体って、試合中も並んで立つんですよね。俺、人前、苦手で」

「並んでるだけでいい」

会話のラリーが、全部、押し返されていた。河合先生は、俺の出した球を一つも取り逃さない。受けて、すぐに同じところへ返してくる。たぶんこれは、断られ慣れている人の喋り方だ。返してくる手つきに、力みも、苛立ちもなかった。ただ慣れていた。慣れているということは、たぶんこれまでに何人もに断られてきたということで、その奥に、何人ぶんかの「すみません」が積もっているのだろうと思った。

俺は、助けを求めるみたいに、隣を見た。

的場彩花は、まだ口を結んでいた。けれど、目だけが、ゆっくりと俺を見上げた。

睨んでいるのではなかった。怒っているのでもなかった。ただ、見ていた。教室の窓際で見たことのない、誰かを真正面から見るときの目だった。

「先生」

彼女が、低く言った。

「数合わせって言い方、しないでください」

「あ、ああ、悪い」

「高村くん」

名前を、呼ばれた。

二度目だった。今日二度目に、俺の名前が、知らない人の口から出た。知らない、と思ったすぐ後で、知らないわけじゃない、と自分で訂正した。出席番号で前に座っている、たぶん的場彩花。「たぶん」の距離だった人が、今、「たぶん」ではなく俺の名前を呼んだ。その違いが、思っていたよりずっと大きかった。母音の押さえ方が、教室で日直として点呼を取る声とは違っていて、俺の中の何かが、その違いの方に先に反応した。

「数合わせでも、構いません。ただ、隣で引く人が、欲しいです」

「ただそれだけ」と、彼女は言わなかった。「欲しいです」で文を切った。語尾が宙に残った。畳の、藁の埃が、夕方の光の中で動いているのが見えた。

「欲しいです」の四音が、こちらの胸の真ん中を、軽く、しかし正確に押した。誰かが、俺を、欲しいと言った。それが、放課後の、この、薄暗い道場で、出席番号でしか知らないはずの相手の口から出た。教室の中でずっと交わされてきた「いてもいなくていい」とは別の文脈に、俺はいきなり置かれていた。慣れていない場所だった。慣れていない、けれど、嫌な場所ではなかった。それが、自分でも怖かった。

俺は、自分の指先を見ていた。爪の根元が、白く強張っていた。気づいたら、戸の取手から離れた手で、自分のもう片方の手首を握っていた。脈の音が、思ったより速かった。頸の付け根のあたりで、心臓が一拍ごとに小さく軋んでいた。返さなければ、と思った。返したくない、とも思った。どちらも本当で、どちらも全部ではなかった。

返事を、しなかった。

しないことが返事になる、と気づいたのは、河合先生がもう一度頭を下げて、「明日、放課後、ここに来てくれるだけでいい。来てくれたら、それで頷いたことにする」と言った後だった。

来なければ、頷かなかったことになる。

来てしまえば、頷いたことになる。

俺は、ようやく、靴を脱いでいない自分の足元を見て、それから、正面の的を見た。

二十八メートル先の、白と黒の同心円。三年間、視界の隅にすらなかったはずのものが、今、まっすぐ目の前にあった。的の中心の黒い点が、こちらを見返してくる気がした。

「……すみません」

返事ではなくて、その場を終わらせる言葉だけが出た。俺は立ち上がって、来た道を戻るために、戸の方へ向き直った。

「待ってる」

背中で、河合先生の声がした。

「待ってます」

少しだけ遅れて、彩花の声が重なった。重なった、という言い方がふさわしいのかは分からない。彩花の「待ってます」は、河合先生の「待ってる」よりも半拍だけ柔らかく、語尾が下がりきらずに、宙のどこかで止まっていた。止まったまま、こちらに届いた。

戸を、閉めた。

木と鉄の擦れる音が、入ってきたときと同じ音量で鳴った。同じ音のはずなのに、行きと帰りでは、まるで別の音みたいに聞こえた。

誰もいないはずだった場所には、二人の声が残っていた。それは、扉一枚で外に置き去りにできる音量のはずなのに、俺の耳の奥にまだ張りついていた。

明日、この戸を、もう一度引くかどうか。

決めていない。決めていないのに、足は、自販機の方ではなく、昇降口の方へ歩いていた。

四月の風が、廊下を抜けていった。

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